1979年、イランではパフラヴィー朝が倒され、アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー師を最高指導者とするイラン・イスラーム共和国が樹立されました。以来、イランでは、宗教的権威が三権の上に君臨するイスラム共和政体が続いています。今般の安倍首相のイラン訪問に際しても、ロウハニ大統領と会談してもあまり意味はなく、最高指導者の地位にあるハメネイ師との会談こそ重要であると説明されていました。
イラン革命が自発的なものであったのかという点につきましては、ホメイニー師がフランスに亡命していた経歴からしますと、疑って然るべきなのかもしれません。そして、何故、世俗の政治家や活動家による革命ではなく、宗教的な指導者が中心的な役割を果たしたのか、これもまた、イラン革命に残された謎でもあります。
こうした問題はさて置くとしても、特定の宗教や思想に基づく国家体制は、全体主義との親和性が高いという一般的傾向だけは確かなようです。イランはシーア派を国教として定めていますし、共産主義を国家の絶対思想と位置付け、事実上の‘国教’と化した中国もまた然りです。それでは、何故、両者はかくも親和性が高いのでしょうか。
宗教とは、人類史において様々な役割を果たしてきました。時には悩めるや苦しむ人々に安らぎや救いを与え、時には利己的他害行為を禁じる神法を以って社会秩序の維持にも貢献してきました。善なる存在としての神の超越的な視点を人類にもたらした点において、宗教は、弱肉強食の世界から人類を救いだし、人を人たらしめたとも言えましょう。人と動物を隔てる境界線は、宗教の有無によっても引くこともできるのです。
しかしながら、その反面、宗教が特定の人や集団によって利用されますと、逆の方向に作用してしまうことも偽らざる事実です。第一に、自らを超越的な神の座に置き、唯一絶対の神の名の下で政治を行えば、有無を言わさずに他者からの一斉の反対や批判を封じることができます。自らの存在を脅かす政治的なライバルさえ、神の権威を借りれば背信者として容易に葬り去ることができるのです。しかも、誰も、それが神の真の意思であるのかを証明することができません。人類は未だに神の存在証明に成功していませんが、この証明の不可能性は、神の座にある者はいかなる決定をも神の名において為し得ることを意味するのです。
そして、国民は、国家によって心の支配を受けます。自らの国の国家体制が神からあたえられたものであるならば、それを否定することは神の否定ともなるからです。神を疑うことは罪であり、反体制的な言動は宗教上の罪を犯した者として処罰の対象ともなりましょう(中国の場合は思想犯…)。宗教による支配は権威主義体制の一種ですが、権威というものが心の問題である限り、国家は、当然のことのように国民の内面にまで踏み込んでくるのであり、それは、人々の理性の抑圧、あるいは、圧殺ともなりかねないのです。
統治制度を見ましても、特に一神教に基づく場合には、権力の究極の源泉を神に求める以上、その分立も許し難いことともなります。宗教と政治が一体化して国家体制化する時、それは全体主義の脅威が忍び寄る時でもあります。否、逆から考えれば、全体主義体制を目指す勢力は、宗教にこそその実現のための基盤を求めると言うこともできましょう。イランのみならず、日本国内でも、新天皇の即位を機に天皇を中心とした全体主義体制を目指す動きが垣間見られますが、宗教と政治の分離は、国民の自由を護るための先人の知恵でもあることを常に忘れてはならないと思うのです。
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イラン革命が自発的なものであったのかという点につきましては、ホメイニー師がフランスに亡命していた経歴からしますと、疑って然るべきなのかもしれません。そして、何故、世俗の政治家や活動家による革命ではなく、宗教的な指導者が中心的な役割を果たしたのか、これもまた、イラン革命に残された謎でもあります。
こうした問題はさて置くとしても、特定の宗教や思想に基づく国家体制は、全体主義との親和性が高いという一般的傾向だけは確かなようです。イランはシーア派を国教として定めていますし、共産主義を国家の絶対思想と位置付け、事実上の‘国教’と化した中国もまた然りです。それでは、何故、両者はかくも親和性が高いのでしょうか。
宗教とは、人類史において様々な役割を果たしてきました。時には悩めるや苦しむ人々に安らぎや救いを与え、時には利己的他害行為を禁じる神法を以って社会秩序の維持にも貢献してきました。善なる存在としての神の超越的な視点を人類にもたらした点において、宗教は、弱肉強食の世界から人類を救いだし、人を人たらしめたとも言えましょう。人と動物を隔てる境界線は、宗教の有無によっても引くこともできるのです。
しかしながら、その反面、宗教が特定の人や集団によって利用されますと、逆の方向に作用してしまうことも偽らざる事実です。第一に、自らを超越的な神の座に置き、唯一絶対の神の名の下で政治を行えば、有無を言わさずに他者からの一斉の反対や批判を封じることができます。自らの存在を脅かす政治的なライバルさえ、神の権威を借りれば背信者として容易に葬り去ることができるのです。しかも、誰も、それが神の真の意思であるのかを証明することができません。人類は未だに神の存在証明に成功していませんが、この証明の不可能性は、神の座にある者はいかなる決定をも神の名において為し得ることを意味するのです。
そして、国民は、国家によって心の支配を受けます。自らの国の国家体制が神からあたえられたものであるならば、それを否定することは神の否定ともなるからです。神を疑うことは罪であり、反体制的な言動は宗教上の罪を犯した者として処罰の対象ともなりましょう(中国の場合は思想犯…)。宗教による支配は権威主義体制の一種ですが、権威というものが心の問題である限り、国家は、当然のことのように国民の内面にまで踏み込んでくるのであり、それは、人々の理性の抑圧、あるいは、圧殺ともなりかねないのです。
統治制度を見ましても、特に一神教に基づく場合には、権力の究極の源泉を神に求める以上、その分立も許し難いことともなります。宗教と政治が一体化して国家体制化する時、それは全体主義の脅威が忍び寄る時でもあります。否、逆から考えれば、全体主義体制を目指す勢力は、宗教にこそその実現のための基盤を求めると言うこともできましょう。イランのみならず、日本国内でも、新天皇の即位を機に天皇を中心とした全体主義体制を目指す動きが垣間見られますが、宗教と政治の分離は、国民の自由を護るための先人の知恵でもあることを常に忘れてはならないと思うのです。
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