昨日5月31日、産経新聞の正論欄において、桜田淳東洋学園教授が天皇制度について「「臣」の制度を再構築すべきとき」とするタイトルの一文を認めておられました。同文章、新天皇の即位を機に皇室制度の改革を訴えているのですが、その方法性においてどこか違和感が漂っているのです。
同文は、皇室による‘無条件の無私の奉仕’に対して国民は何も報いていないし、国民をいわば恩知らずとして責めるところから始まります。その論理展開を見ますと、(1)皇室は国民に対して無私の奉仕を常としてきた、(2)国民は皇室から恩を受けながら報いていない(バランスの欠如)、(3)現状をもたらした原因は、「臣」、即ち、皇室の藩屏となるべき貴族層(華族制度)が消滅したことにある、(4)故に、イギリスに範を求め、皇室の恩に報いるために‘選良層’としての「臣」の制度を再構築すべきである、というものです。
論理性を重視しているように見えながらも、この論理構成、相当に無理があるように思えます。そもそも、その出発点の認識からして現実から浮いているからです。被災地訪問や慰霊の旅といった‘象徴天皇’の役割は、先の天皇が自ら探し求めた姿であり、憲法上の義務でもなければ、国民からの要望に応えたものでもありませんでした。しかも、皇族は、国民負担の下であらゆる面で特権をも享受しておりますので、地位に伴う恩恵を全く受けていないわけでもありません(皇室利権は存在していますし、仮に、無私の奉仕ばかりであったならば、皇位継承争いなど起きるはずもない…)。かつて信じられていたように、天皇の祈りによって地震や噴火、外国からの侵略などの禍が遠ざけられていたのであれば、国民はその高い霊威に畏怖して恩を感じるのでしょうが、今日においては、実際に国家と国民の安全を守り、災害等に対応するのは民主的選挙を経て構成される政府の役割です。
そしてさらに論理が飛躍するのが、恩に報いるために「臣」の制度を再構築すべきとする件です。仮に、国民の‘恩知らず’への対応策が貴族制度の再構築であるならば、この「臣」の身分を付与された新たな選民層の人々は、一体、何を以って皇室に奉仕するのでしょうか。同文では、皇族の活動を支えて‘補完する’と述べていますが、今日、皇族が分担している式典などへの参列を仕事として受け持つと言うことなのでしょうか。この点について、同氏は、イギリスをモデルとして持ち出し、一代限りの女性男爵の爵位を与えられた同国の首相を務めたマーガレット・サッチャー女史の事例を挙げています。となりますと、選良層を構成する人々として政治家が想定されていることとなり、「臣」の制度とは、天皇を中心に政治家等が臣下として貴族層を形成する非民主的体制ということとなりましょう。
一般の読者が読めば、保守層でも引いてしまうような事実誤認に満ちた主張であっても、少なくとも桜田氏の頭の中にあって同案が論理一貫している理由は、同氏が、日本国の国制を、天皇を統治権をも行使すべき君主として戴く立憲君主制と見なしているからなのでしょう(現憲法では、手続き上の形式としてのみしか天皇に立憲君主の役割を認めていない…)。つまり、自らが絶対している“日本国のあるべき姿”を基準として現実を憂い、新たな階級社会の構築を伴う立憲君主制への移行を訴えているのです。
しかしながら、実際に、日本国が桜田氏によって提案された体制に移行するには、天皇の政治的権能を否定した第4条のみならず、貴族の制度を廃止した第14条をも変える必要があります。果たして、日本国民は、国民投票に際して明治モデルの立憲君主制への回帰案に賛成票を投じるのでしょうか(同氏にとっての国民の皇族に対する恩返しは同案に賛成すること…)。民主主義の価値が定着した今日にあって、日本国の古来の祭司長としての天皇でもない、イギリスを範とする立憲君主としての“天皇”の再来を求める国民は、それほど多いようには思えません。もっとも、同論は、象徴天皇のイメージが定着した中で、曖昧のままにされてきた立憲君主制の問題を改めて提起した点において意義があるのかもしれません。それがたとえ否定されたとしても。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
同文は、皇室による‘無条件の無私の奉仕’に対して国民は何も報いていないし、国民をいわば恩知らずとして責めるところから始まります。その論理展開を見ますと、(1)皇室は国民に対して無私の奉仕を常としてきた、(2)国民は皇室から恩を受けながら報いていない(バランスの欠如)、(3)現状をもたらした原因は、「臣」、即ち、皇室の藩屏となるべき貴族層(華族制度)が消滅したことにある、(4)故に、イギリスに範を求め、皇室の恩に報いるために‘選良層’としての「臣」の制度を再構築すべきである、というものです。
論理性を重視しているように見えながらも、この論理構成、相当に無理があるように思えます。そもそも、その出発点の認識からして現実から浮いているからです。被災地訪問や慰霊の旅といった‘象徴天皇’の役割は、先の天皇が自ら探し求めた姿であり、憲法上の義務でもなければ、国民からの要望に応えたものでもありませんでした。しかも、皇族は、国民負担の下であらゆる面で特権をも享受しておりますので、地位に伴う恩恵を全く受けていないわけでもありません(皇室利権は存在していますし、仮に、無私の奉仕ばかりであったならば、皇位継承争いなど起きるはずもない…)。かつて信じられていたように、天皇の祈りによって地震や噴火、外国からの侵略などの禍が遠ざけられていたのであれば、国民はその高い霊威に畏怖して恩を感じるのでしょうが、今日においては、実際に国家と国民の安全を守り、災害等に対応するのは民主的選挙を経て構成される政府の役割です。
そしてさらに論理が飛躍するのが、恩に報いるために「臣」の制度を再構築すべきとする件です。仮に、国民の‘恩知らず’への対応策が貴族制度の再構築であるならば、この「臣」の身分を付与された新たな選民層の人々は、一体、何を以って皇室に奉仕するのでしょうか。同文では、皇族の活動を支えて‘補完する’と述べていますが、今日、皇族が分担している式典などへの参列を仕事として受け持つと言うことなのでしょうか。この点について、同氏は、イギリスをモデルとして持ち出し、一代限りの女性男爵の爵位を与えられた同国の首相を務めたマーガレット・サッチャー女史の事例を挙げています。となりますと、選良層を構成する人々として政治家が想定されていることとなり、「臣」の制度とは、天皇を中心に政治家等が臣下として貴族層を形成する非民主的体制ということとなりましょう。
一般の読者が読めば、保守層でも引いてしまうような事実誤認に満ちた主張であっても、少なくとも桜田氏の頭の中にあって同案が論理一貫している理由は、同氏が、日本国の国制を、天皇を統治権をも行使すべき君主として戴く立憲君主制と見なしているからなのでしょう(現憲法では、手続き上の形式としてのみしか天皇に立憲君主の役割を認めていない…)。つまり、自らが絶対している“日本国のあるべき姿”を基準として現実を憂い、新たな階級社会の構築を伴う立憲君主制への移行を訴えているのです。
しかしながら、実際に、日本国が桜田氏によって提案された体制に移行するには、天皇の政治的権能を否定した第4条のみならず、貴族の制度を廃止した第14条をも変える必要があります。果たして、日本国民は、国民投票に際して明治モデルの立憲君主制への回帰案に賛成票を投じるのでしょうか(同氏にとっての国民の皇族に対する恩返しは同案に賛成すること…)。民主主義の価値が定着した今日にあって、日本国の古来の祭司長としての天皇でもない、イギリスを範とする立憲君主としての“天皇”の再来を求める国民は、それほど多いようには思えません。もっとも、同論は、象徴天皇のイメージが定着した中で、曖昧のままにされてきた立憲君主制の問題を改めて提起した点において意義があるのかもしれません。それがたとえ否定されたとしても。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村