菅政権の打ち出した行政改革の基本方針は、‘縦割り行政の打破’です。政権発足当初、河野太郎・行政改革担当が「行政改革目安箱」を開設したところ、わずか半日で4000通が殺到したことから、国民からも強い支持を受けている印象があります。
管轄権が広範囲の省庁に及ぶ問題領域にあっては、確かに、政策決定に至るまでのプロセスにおいて利害調整や意見の集約に時間がかかりますし、政策の実施後も、各省庁の‘省益’によって効果が薄れてしまうケースもあるかもしれません。迅速さや効率性の向上を最優先とし、極限までこれらを追求するならば、‘縦割り行政の打破’には、それなりの理由がありましょう。国民の多くも、行政機構の煩雑さ、あるいは、各省庁の省益優先のスタンスを理解するからこそ、菅政権が、旧態依然とした現状に大鉈をふるうことに期待を寄せたのでしょう。システムを並列型から垂直型に転換すれば、円滑かつ効率的な行政が実現しそうに思えます。とりわけ、打破すべき対象が‘既得権益’と表現されますと、国民の多くは、改革支持に傾きがちです。しかしながら、この改革、幾つかの側面で問題が潜んでいそうなのです。
第1の問題点は、現代という時代の複雑性です。‘縦割り行政’が出現した理由は、現実の経済・社会にあっては分野や立場によって様々な意見や利益があり、利害関係も複雑に交差しているからです。‘縦割り’の機構が障害となって行政が現実に適切に対応できないのではなく、その逆に、経済・社会複雑化したからこそ‘縦割り行政’となってしまったのです。となりますと、行政の適応性を高めるための方策は、機構の一本化を図り、垂直型に向けて改革するのではなく、省庁間、あるいは、分野間の意見・利害調整のシステムを精緻化するという方法もあるはずです。現実の複雑性への対応という側面からすれば、後者の方が、余程、‘進化’した統治機構の形態であるかもしれません。
第2の問題点は、今日の政府は、民主的な正当性が揺らいでいるという現実です。政府は、民主的選挙を経て成立している故に、官僚組織に対して自らの優位性と政策決定の正当性を主張することができます。しかしながら、今日の日本国の政治のシステムは、議院内閣制ですので、首相は、事実上、与党内の党首選挙で選出されますし、菅首相に至っては総選挙をも経ていません。政府は、民主主義を持ち出して官僚組織に対して自らの優位性を主張することはできても、国民に対して改革を断行するほどの民主的正当性を備えているとは言い難い状況にあります。しかも、アメリカの大統領選挙が示すように、民主的選挙システムにあっても票の集計システムを通して不正選挙があり得ることを、多くの国民が知ることとなりましたので、日本国にあっても、国民の多くが今日の選挙制度に対して疑問を抱くに至っています。
第3に指摘し得る点は、‘縦割り行政の打破’は、内閣(政権)への権力の集権化を意味しかねないという問題です。この問題は、第一に指摘した複雑性への対応とも関連するのですが、並列型から垂直型への転換は、行政機構にあってトップ・ダウン式の上位下達を実現することを意味します。つまり、内閣(政権)による上からの政策決定、あるいは、指令が行政の末端にまで伝達され、それが忠実に実行される体制ということになります。行政改革の結果、日本国また、中国の独裁体制に近い特定の一党(連立与党)による集権体制が出現しないとも限らないのです。
そして、第4の問題点とは、行政情報にデータ管理に関するリスクです。‘縦割り行政の打破’には行政のデジタル化が伴いますので、国民への行政サービスの情報を含め、各種情報も中央サーバーにおいて収集・管理されることでしょう。今日のITのレベルを以ってすれば、サイバー攻撃のみならず、内部操作も可能ですので、セキュリティーを考慮すれば、一元化のみが必ずしも望ましいわけではありません。海外勢力に日本国の情報が丸ごと漏洩したり、逆に、外部からのデータ操作によって干渉を受ける可能性も否定はできないのです
かつて、首府である江戸は、江戸城を中心に敢えて渦巻き状に都市設計されましたが、その理由は、直線的な設計では敵軍の直進を許してしまい、外部からの攻撃に対して脆弱であったからです。効率性よりも安全性を優先したわけですが、先人の知恵には学ぶべきところもあるように思えます。中央集権体制ほど外部勢力の‘乗っ取り’には好都合という側面もあります(トップ一人を攻略すれば国家全体を掌握できる…)。日本国の政府並びに国民は、‘縦割り行政の打破’に邁進するよりも、現代の複雑性への対応やセキュリティー面をも考慮した、より高い次元での改革を目指すべきではないでしょうか。