リベラルの人々は、常に高邁な理想を掲げ、人権侵害や差別問題にも積極的に取り組んできましたので、自らを社会正義の実現者と見なしています。この立ち位置からしますと、誰もが、リベラル派を弱きを援け、強きを挫く‘正義の味方’とみなすことでしょう。その一方で、リベラルを批判する人々やそれを嫌う人々は、必然的に‘悪人’の立場に置かれてしまいます。古き良き時代に郷愁を感じ、自国の歴史や伝統、あるいは、美徳を尊ぶ良識的な人々であっても、リベラル派にとりましては悪しき‘ポピュリスト’であり、理想の実現を拒む‘抵抗分子’でしかないのです。
しかしながら、冷静になって考えても見ますと、リベラル派の掲げる理想とは、それは、多くの人々に共有されているわけではなく、一部の人々の理想にしか過ぎません。この点は、狂信的なカルトとそれ程の違いはないのです。例えば、リベラルが描く未来像とは、全ての人種や民族が差別されることなく対等な立場で併存する社会を実現した後、全ての人種や民族等を融合させるというものです。人類の最終段階では、誰もが特定の集団への帰属意識を失っているのです。つまり、人類は第一段階にあって多様性を認めつつも、最終的には画一化されるのです。
最終段階に至りますと、人類の活動や生活の場も全世界において似たり寄ったりのスマートシティとなり、SF小説に登場するような無味乾燥とした光景が広がっていることでしょう。因みに、近年、NHKでは、「駅ピアノ・空港ピアノ・街角ピアノ」という番組を放映していますが、同番組こそ、リベラルが追い求める未来都市の縮図かもしれません。何故ならば、同番組のコンセプトは、全世界の空港や鉄道駅などに設置されたピアノを弾く一般の人々を紹介するというものですが、テレビ番組欄で確認しなければ、どの国で撮影したのか分かりませんし、ピアノを弾く人々も、その殆どが撮影国の国民ではないからです(同番組は、多くの演奏者の中から、敢えて撮影国以外の国民がピアノを弾く映像をピックアップして、放送している?)。
リベラルの支配下にあるマスメディアは、こうした未来像を理想として宣伝し、人々を洗脳しようとしていますが、全ての人々が、同未来像を支持しているわけではありません。ごく一部の人々の理想が絶対化され、それがあらゆる手段を用いて一方的に強要されることが問題なのです。そして、リベラルの態度は、それが少数派であるゆえに、深刻な差別をも引き起こす原因ともなっています。何故ならば、現実にあって、リベラルが描くシナリオが実現しているのは極めて狭い世界でしかないにも拘わらず、シナリオに相応しい人々のみが優遇されてしまうからです。例えば、日本国でも、政治やマスメディアの世界では、一般社会よりもはるかに外国人や外国人の血を引く人々の割合が高いとされています。そして、差別反対、あるいは、多様性の尊重を盾にして、マジョリティーを意図的に排斥してしまうのです。
今般、NIKEのCMが物議を醸しているのも、‘差別されてきたマイノリティーは、スポーツの世界で活躍して社会のトップに躍り出る’という、リベラルが理想として描くサクセス・ストーリーを、NIKEが日本国に押し付けているからなのでしょう。ウイグル人に対する搾取的労働に加担したとして批判を受けているぐらいですから、NIKEの真の目的は、人種や民族差別問題を提起するのではなく(しかも実話としながら捏造らしい…)、日本国内を自らの理想郷に改造することにあるのかもしれません。
結局、‘差別反対’のスローガンの下で逆差別が堂々と行われ、マジョリティー側が異議を唱えれば偏狭な差別主義者というレッテルを貼られることとなります。マスメディアをも動員した同調圧力をかけて社会的にも抹殺しようとするのですから、リベラルが構築してきた仕組みは、マジョリティーを差別し、政治や社会の表層から排除する、つまり、民主主義を捻じ曲げて少数者支配を正当化するための欺瞞であることを見抜き、憤る人々が現れてもおかしくはありません。
アメリカにあってトランプ政権が誕生し、今般の大統領選挙にあってもアメリカ国民の多くが民主党を信頼しなくなったのも、その偽善性が暴かれてしまったからなのでしょう。そして、アメリカのみならず、与野党ともにリベラル化した日本国内でも、これらの勢力の偽善性に耐えられなくなってきている人々が増えてきているように思えるのです。