リベラル派は、殊更に地球環境問題に対しては熱心です。否、新型コロナウイルス禍が一段落すれば、同問題を最優先の課題に据えることでしょう。アメリカ大統領選挙で勝利を宣言したバイデン氏は、早々にジョン・ケリー元国務長官を、新設を予定している気候変動問題担当特使のポストに指名しています(もっとも、実現するかどうかは不明…)。こうした異常なまでの地球環境問題への肩入れは全世界的な現象であり、日本国でも、菅首相が、就任後初の所信表明演説にあって唐突に2050年温暖化ガスゼロ目標を打ち上げています。地球環境問題は、全人類の生存に関わりますので、全ての人が異議なく支持すべき‘何か善いこと’のように聞こえます。しかしながら、同問題には、経済分野におけるマイナス影響のみなならず、政治分野にあっても民主主義を壊しかねない破壊力があるように思えます。
第一の理由は、政治的な問題の重心が地球環境問題に移りますと、民主主義を支えている国家と国民との間に枠組みに不一致が生じます。地球環境問題は、国境を越えた全地球的な問題ですので、特定の国家を枠組みとして成立してきた政府と国民との権利・義務関係が無視されかねないのです。この側面は、民主主義国家にとりましては重大な民主主義の危機を意味します。政府は、国民ではなく‘地球’に対して第一義的な責任を有することとなり、参政権を有するはずの国民も、最早、自らで政策を決定することができなくなるからです。つまり、国家は、自国以外の場所で決められたこと、即ち、上部の特定のグローバル金融財閥が予め定めた温暖化ガス排出量のゼロ目標を実行する下部組織に過ぎなくなるのです。
第二に、同問題の解決を政府が最優先事項に設定しますと、国家を枠組みとした通常の政策が後回しになる、あるいは、犠牲に供される可能性が高くなります。外政であれ、内政であれ、国内の政策決定過程にあっては、様々な利害関係者の意見が反映されるような仕組みが設けられています。例えば、各省庁は、管轄下にある業界の意見を聴取したり、言葉は悪いのですが、‘根回し’をすることで事前に合意形成を図っていますし、政治レベルでも、陳情などによって利害関係者の意向を聴くことができます。ところが、地球環境問題にあっては、その根拠は、二酸化炭素犯人説という科学的裏付けの欠ける一種の‘ドグマ’ですので、こうした国内の多様な意見・利害の調整が必要とされないのです。
実際に、政府によるガソリン車禁止の方針に対しましては、先日、日本自動車工業会の会長である豊田章男トヨタ自動車社長が、‘自動車モデルが崩壊する’として反対を表明されておられましたが、このことは、日本国政府が、全く日本国の自動車業界の意向を聞かずして、トップ・ダウン式に勝手に決めてしまったことを示しております。菅首相は、技術革新によって乗り越えられると反論しておりますが、その技術革新の現場も日本企業であるはずです。ゼロ目標を公表すに先立って、政府は、企業サイドの技術革新の見込みや開発計画も聞くべきであったと言えましょう。
第三に、近年、環境アクティビストの活動が活発化し、民主的な手続きや決定方法を経ずして企業の経営方針を変えさせる事例も見受けられる点を挙げることができます。本日も、フォーブス誌が、ネット上に「環境アクティビストにエクソン「屈服」、政治的投資ののろしか」という記事を掲載しておりました。アクティビストとは、‘物言う株主’のことですが、この現象は、新たな株主中心主義の出現をも示唆しているとも言えましょう。言い換えますと、特定のグローバル金融財閥、あるいは、それと利害を共にしているチャイナ・マネーが政治という経路さえ省いてしまい、‘物言う株主’として、自らの意図する方向へと経済全体を誘導してしまうかもしれません。一般の国民は、参政権は有してはいても、株式を保有しない限り、発言権も影響力も失ってしまうのです(この側面は、地球環境問題に限ったことではないかもしれない…)。
トランプ大統領が掲げた‘アメリカ・ファースト’は、しばしば自己中心的で利己的な立場として批判されてきました。しかしながら、‘地球環境問題ファースト’、そして、その真のスローガンである‘グローバリスト・ファースト’とは、人々にとりまして望ましい方向性なのでしょうか。目下、アメリカのニューヨーク州は記録的な大雪に見舞われているそうですが、実のところ、地球の温暖化の原因が二酸化炭素であるのかどうかも、そして、今後とも地球が温暖化してゆくのかどうかも、はっきりしたことは分かってはいません。同問題が民主主義、並びに、国家の独立性に対する重大な脅威ともなり得る点を考えますと、地球環境問題に関しては、影響を受ける業界や企業をも含めた国民的な議論に付すと共に、様々な角度から客観的な検証を加える必要があるように思うのです。