山形響 第223回定期演奏会初日終わりました。指揮者のイジー・シュトルンツ氏と今回のプログラムは(ベートーヴェンを除く)、昨年の大震災の時の定期演奏会と同じです。鶴岡市文化会館でのゲネプロ中、スメタナの「モルダウ」を練習中に地震が起きました。あまり思い出したくありませんが、ゲネプロは一時中断し、幸い電気が通っていた文化会館のTVでは信じられない光景が映し出されていました。そして話し合い後、定期演奏会は中止になったのです。急いで、月山道を通り、停電の家にたどりつき、不安な夜を過ごしたのが昨日のようです。
まだまだ避難生活をしている人もいて、東北の災害は癒えていませんが、山形響の忘れ物は今回の定期演奏会で、無事終了となるはずです。明日も山形テルサ、そして明後日は鶴岡市文化会館で同プログラムで行われます。初日より2日目、そして鶴岡市民会館とより良い演奏になるように頑張ります。
さて、本題!
私はつい最近まで、A.ドヴォルジャークという作曲家が苦手でした。プロのオケマンとして付き合いの多い曲は、「スラヴ舞曲」、「新世界」、「第8番」、「チェロコン」、「弦セレ」など。これらの曲は、誤解を恐れずに言えば、万人向きで作曲家の本質を伝えない曲のような気がします。
例えば、L.v.ベートーヴェンでは、Vn協奏曲、Pf協奏曲、交響曲9曲などがオケマンとして付き合いが多いのですが、弦楽四重奏曲全17曲やピアノソナタがL.v.ベートーヴェンの本質的な部分を伝えている気がしてならないのです。
A.ドヴォルジャークに話を戻せば、先に挙げた曲達は、メジャーマイナーキーに関わらず、どちらかというと華やかで、もっと言えば派手な曲達です。ところが、彼の他の曲を聴いてみると交響曲・交響詩やチェロコン以外の協奏曲、室内楽、特に弦楽四重奏曲のほとんどは地味なイメージの曲ばかりです。
今回、山形響の定期で取り上げた交響曲第7番もどちらかというと柿渋なイメージです。難しいパッセージ、多くの転調など演奏者には気の抜けない曲です。
私の仮説ですが、A.ドヴォルジャークはもしかしたら、こういう地味なちまちまとした小難しい音の響きを好んだのではないかと・・・、そして有名な曲(評価されている曲)は、逆に彼の妥協の作なのではとも思えてくるのです。そんな事をチェリストなどに言ったら反撃をくらいそうですが、チェロコンと同じような作品が他にない以上、私の説も当たらずとも遠からずかもしれません。圧倒的に地味な印象の作品の方が多いのですから。
私が、(私小説のような作曲家の本音が表現されている可能性が高い)弦楽四重奏曲を好んで聴いたり演奏したりする本当の理由は、そんなところにあるのかもしれません。
まだまだ避難生活をしている人もいて、東北の災害は癒えていませんが、山形響の忘れ物は今回の定期演奏会で、無事終了となるはずです。明日も山形テルサ、そして明後日は鶴岡市文化会館で同プログラムで行われます。初日より2日目、そして鶴岡市民会館とより良い演奏になるように頑張ります。
さて、本題!
私はつい最近まで、A.ドヴォルジャークという作曲家が苦手でした。プロのオケマンとして付き合いの多い曲は、「スラヴ舞曲」、「新世界」、「第8番」、「チェロコン」、「弦セレ」など。これらの曲は、誤解を恐れずに言えば、万人向きで作曲家の本質を伝えない曲のような気がします。
例えば、L.v.ベートーヴェンでは、Vn協奏曲、Pf協奏曲、交響曲9曲などがオケマンとして付き合いが多いのですが、弦楽四重奏曲全17曲やピアノソナタがL.v.ベートーヴェンの本質的な部分を伝えている気がしてならないのです。
A.ドヴォルジャークに話を戻せば、先に挙げた曲達は、メジャーマイナーキーに関わらず、どちらかというと華やかで、もっと言えば派手な曲達です。ところが、彼の他の曲を聴いてみると交響曲・交響詩やチェロコン以外の協奏曲、室内楽、特に弦楽四重奏曲のほとんどは地味なイメージの曲ばかりです。
今回、山形響の定期で取り上げた交響曲第7番もどちらかというと柿渋なイメージです。難しいパッセージ、多くの転調など演奏者には気の抜けない曲です。
私の仮説ですが、A.ドヴォルジャークはもしかしたら、こういう地味なちまちまとした小難しい音の響きを好んだのではないかと・・・、そして有名な曲(評価されている曲)は、逆に彼の妥協の作なのではとも思えてくるのです。そんな事をチェリストなどに言ったら反撃をくらいそうですが、チェロコンと同じような作品が他にない以上、私の説も当たらずとも遠からずかもしれません。圧倒的に地味な印象の作品の方が多いのですから。
私が、(私小説のような作曲家の本音が表現されている可能性が高い)弦楽四重奏曲を好んで聴いたり演奏したりする本当の理由は、そんなところにあるのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます