もはや人間が暮らす環境じゃなくなってきてるんじゃないか?と思えるような灼熱の中、それでもDUに猟盤に行きました。 好きなことには際限というものが
ないもんです。 ようやく今週はいくつかつまめました。 よかった、よかった。
■ Art Ensemble Of Chicago / People in Sorrow ( Pathe / 東芝EMI CJ32-5013 )
これは長らく探していたもので、ようやく見つかりました。 CDで欲しかったので、よく見かける初版レコードは全て見送っての邂逅です。
アメリカでの無理解さに耐えられず、家財道具の全てを売り払って旅費を工面し、決死の覚悟でフランスに渡ったメンバーたちの想いが詰まったところが
よくわかる内容です。 のちの精神的に安定した中で生み出された作品には見られない、静かに悲しみを見つめているような目線を感じます。
それは抽象的なものではなく、つまり原罪の悲しみというようなものではなく、状況としての悲しみの中に置かれたものを静かに見つめる視線で、
自分たちのことをも当然そこには重ねているのかもしれません。 奇をてらった仕掛けは何もなく、ただ静かに、言葉少なく音楽として語られています。
普段は奇抜な見かけや恰好で武装している彼らが、実はその底辺に隠しているあまり人には見せない心の震えのようなものだけで出来上がった音楽で、
ヨーロッパの人々はそれをきちんと受け止めてくれたわけです。 芸術を理解するという態度がどれほど大切なことかがよくわかります。
我々も常にこうでありたいです。
日本での発売当時、「苦悩の人々」と訳されたのは時代を感じるなあと思います。 この音楽から感じるのは少し違うニュアンスです。
それにくどいようですが、これはフリージャズなんかじゃありません。
■ Globe Unity Special '75 / Rumbling ( FMP CD 40 )
グローヴ・ユニティが1975年にベルリンで行ったライヴを翌年FMPが2枚のアルバムに分けて発売していたものを1991年に1枚に纏めて発売したCDです。
彼らの古い音源は稀少廃盤になっていて入手が難しい。 これも3,000円と高かったです。
シュリッペンバッハがこのユニットを組んだのが1966年。 そこから10年近く経った時期のものです。 まだこの前後の作品を聴けていないので、
これだけでいろんなことを決めつけるのは拙速なのですが、それでもこの作品を聴くだけでもいろんなことを感じることができます。
シュリッペンバッハがこのユニットでやりたかったのは、既成の音楽を破壊しようというようなことではないのは明らかです。 1966年の時点で
既にそれは壊れていたわけで、シュリッペンバッハがそのことに気付いていなかったはずがない。 集団によるフリーインプロで個人の破壊力の限界を
超えようとしたのではなく、おそらく個々人では難しい再構築への課題を集まることによって解決していこうとしたのではないでしょうか。
この内容を先入観抜きにして聴いた限りでは、そのように思えます。
ただ、集団になることでいくつかの制約事項も出てくるわけで、大物リード奏者たちが集まることでどことなく窮屈さを彼らが感じているような
ところがあります。 これを聴いていてすぐに思い浮かぶ映像は、狭い湯船の中に大勢の大人の男たちがギュウギュウ詰めになっている様子です。
中には早々にそこから出て行ってしまう人もいるのですが、すぐに別の誰かがやってきて湯船は人で溢れかえってしまう。
このユニットは常設だったわけではないようで、不定期にみんなが集まり、その時点での各々の最新の状況を持ち寄って演奏していたようなので、
できれば順を追って一通り聴いてみたいと思っているのですが、なかなか初期の音盤は入手が難しそうで、少し時間がかかりそうです。
もう少したくさん聴いてみて、感想を深めたいところです。
ないもんです。 ようやく今週はいくつかつまめました。 よかった、よかった。
■ Art Ensemble Of Chicago / People in Sorrow ( Pathe / 東芝EMI CJ32-5013 )
これは長らく探していたもので、ようやく見つかりました。 CDで欲しかったので、よく見かける初版レコードは全て見送っての邂逅です。
アメリカでの無理解さに耐えられず、家財道具の全てを売り払って旅費を工面し、決死の覚悟でフランスに渡ったメンバーたちの想いが詰まったところが
よくわかる内容です。 のちの精神的に安定した中で生み出された作品には見られない、静かに悲しみを見つめているような目線を感じます。
それは抽象的なものではなく、つまり原罪の悲しみというようなものではなく、状況としての悲しみの中に置かれたものを静かに見つめる視線で、
自分たちのことをも当然そこには重ねているのかもしれません。 奇をてらった仕掛けは何もなく、ただ静かに、言葉少なく音楽として語られています。
普段は奇抜な見かけや恰好で武装している彼らが、実はその底辺に隠しているあまり人には見せない心の震えのようなものだけで出来上がった音楽で、
ヨーロッパの人々はそれをきちんと受け止めてくれたわけです。 芸術を理解するという態度がどれほど大切なことかがよくわかります。
我々も常にこうでありたいです。
日本での発売当時、「苦悩の人々」と訳されたのは時代を感じるなあと思います。 この音楽から感じるのは少し違うニュアンスです。
それにくどいようですが、これはフリージャズなんかじゃありません。
■ Globe Unity Special '75 / Rumbling ( FMP CD 40 )
グローヴ・ユニティが1975年にベルリンで行ったライヴを翌年FMPが2枚のアルバムに分けて発売していたものを1991年に1枚に纏めて発売したCDです。
彼らの古い音源は稀少廃盤になっていて入手が難しい。 これも3,000円と高かったです。
シュリッペンバッハがこのユニットを組んだのが1966年。 そこから10年近く経った時期のものです。 まだこの前後の作品を聴けていないので、
これだけでいろんなことを決めつけるのは拙速なのですが、それでもこの作品を聴くだけでもいろんなことを感じることができます。
シュリッペンバッハがこのユニットでやりたかったのは、既成の音楽を破壊しようというようなことではないのは明らかです。 1966年の時点で
既にそれは壊れていたわけで、シュリッペンバッハがそのことに気付いていなかったはずがない。 集団によるフリーインプロで個人の破壊力の限界を
超えようとしたのではなく、おそらく個々人では難しい再構築への課題を集まることによって解決していこうとしたのではないでしょうか。
この内容を先入観抜きにして聴いた限りでは、そのように思えます。
ただ、集団になることでいくつかの制約事項も出てくるわけで、大物リード奏者たちが集まることでどことなく窮屈さを彼らが感じているような
ところがあります。 これを聴いていてすぐに思い浮かぶ映像は、狭い湯船の中に大勢の大人の男たちがギュウギュウ詰めになっている様子です。
中には早々にそこから出て行ってしまう人もいるのですが、すぐに別の誰かがやってきて湯船は人で溢れかえってしまう。
このユニットは常設だったわけではないようで、不定期にみんなが集まり、その時点での各々の最新の状況を持ち寄って演奏していたようなので、
できれば順を追って一通り聴いてみたいと思っているのですが、なかなか初期の音盤は入手が難しそうで、少し時間がかかりそうです。
もう少したくさん聴いてみて、感想を深めたいところです。