Rolf Kuhn / Solarius ( 東独 Amiga 8 50 046 )
このアルバムを語る際に使われる3つの定型キーワードが「コルトレーンを消化したクラリネット」「モードジャズ」「フリー前夜」。
誰が言い出したのかはわかりませんがよほど気に入られたようで、このデッドコピーが出回っていますが、私にはこれは的外れに思えます。
無機質なジャケットデザインの印象がそういうイメージをより補強するだろうし、彼らのその後のキャリアに関する知識がそういう先入観を助長している
のはよくわかりますが、このキーワードはこれをまだ聴いたことがない人をミスリードしてしまうので、封印するほうがいい。
ここでやっている音楽は、完全にブルーノートの4000番台前半のマイナーキーのモダンジャズ。 ただ、ヨーロッパの白人の演奏なので黒人のブルース感が
まったくなく、そこがぴったりとブルーノートに重なることが無いので、そのズレた部分に欧州らしさを感じてアメリカ音楽にはない新しさを覚える。
だから、これを聴いていいと感じないジャズ愛好家はいないはずです。 殆どの曲がマイナーキーなので強い哀感が漂い、夜の雰囲気が濃厚だから、
ジャズファンが喜ばないわけがない。 なので、私もこのアルバムがとても好きです。 ジャズの一番おいしいところがわかりやすく集約されている。
曲が普通のモダンジャズなのにピアノのヨアヒム・キューンがブルーノート・スケールを殆ど弾かないものだから、そこに普通のジャズにはない雰囲気が
出ていて、これがモードとかフリーという言葉を連想させるんでしょう。 また、ロルフ・キューンのクラリネットにはコルトレーンの影などはなく、
どちらかと言えばエリック・ドルフィーを連想させる吹き方をしています。 従来のクラリネットの吹き方ではなく、サックスのような吹き方をしている。
コルトレーンを連想させるのはロルフではなく、ミヒャエル・ウルバニャクのソプラノ・サックスのほうです。 ロルフ・キューンはアメリカでのジャズ修行で
得たものをそのまま披露しているにすぎず、ここでの実質的な音楽監督はヨアヒム・キューンだったんだろうと思います。
ドイツは他の欧州諸国とは違って植民地経営を殆どしなかった国なので、異文化流入のないまま純血的で閉鎖的な環境が長く続き、文化的には
極めて保守的でした。 それはクラシック音楽にはとてもいい作用を及ぼしていて、バッハの時代から流れるクラシック音楽の神髄のようなものが
まったく汚れることなく現代まで保存されてきた、いわば総本山になっていますが、ジャズやロックのようなポピュラー音楽には大きな逆風でした。
特に東ドイツはゆるい共産主義体制だったとはいえ、個人所有は排除されて多くのものが国有化・公共化されていたため、人々の文化的モチベーションは
総じて低く、60年代初頭でもジャズ・ミュージシャンはダンス音楽を演奏しなければ生きていけない有様でした。 だから、50年代後半から60年代初頭に
かけて多くの若者や文化人がベルリン経由で西側に流出したわけで、その中にロルフ・キューンも混ざっていたのです。
この知識の国外流出が社会問題となり、国内への締め付けが緩和されるようになってロルフはアメリカから戻ってきます。 そして制作したのがこのアルバムです。
もし時の政府がこの緩和を行っていなければこのアルバムは産まれることはなかったでしょうから、たかが一介のポピュラー音楽のこととはいえ、
その背景にはいろんなことの積み重ねがあってのことなんだなと思うと、このアルバムにもそれなりの重みのようなものを感じとることができます。
この Amiga というレーベルは東ドイツの唯一の国営レコード会社であった VEB Deutsche Schallplatten Berlin のポピュラー音楽部門のレーベル名で、
このレコード会社のレーベルのメインはもちろんクラシック部門の Eterna でした。 この "Solarius" は1964年11月の録音なので、オリジナルのマスターは
ステレオ録音だったはずですが、ステレオ盤は見たことがありません。 看板だったエテルナレーベルのほうは早くからステレオ盤を発売していましたが、
脇役のこちらはステレオ盤の発売まではしてくれなかったのかもしれません。 このレコード会社のモノづくりはとても優秀でクオリティーが高く、
エテルナのステレオ盤は総じて音質がとてもいいので、この "Solarius" のステレオプレスが出ていればきっと目の覚めるようないい音が聴けたでしょう。
ただ、このモノラルプレスもダイナミックレンジは狭いながらも十分にいい音で、特にベースの音が大きく綺麗に録れているので、これが夜の雰囲気を
作りだすのに大きく貢献しています。