たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

弥生3月 撮れたてのサクラ 佐倉城址 雛めぐり

2011-02-27 20:26:47 | 24節気


須賀敦子の著作て冬の季節を越して来ましたが、
久しぶりの季節便りの更新です。
陽射しに誘われて遠出をして来ました。



撮れたてのサクラです。
佐倉城址のサクラです。



花の盛りには一月余もあるのに、
待ちきれずにほころび始めたのでしょう。
花芽が色付いていました。



白梅紅梅はまさに盛りです。
千葉県佐倉市は歴史の町。
この佐倉城址には国立歴史民俗博物館があることで有名です。



季節の企画催しで「和宮ゆかりの雛かざり」(2011年2月8日(火)~4月3日(日))が開かれていました。
幕末の動乱期、波乱にとんだ生涯を送ったことで知られる和宮は、徳川幕府に嫁入りした。

3月3日は桃の節句・ひな祭り。女の子の節句ですね
城址から街並みに出ると「城下町ひなめぐり」で、
街歩きが楽しめます。



街筋の旧家・老舗の店先から奥座敷まで、
段飾り、吊るし雛が公開されていました。
その数はガイドマップで数えてみると31軒。

あっという間に2カ月が過ぎてしまいました。
たそがれ世代のたにしの爺、
「月日よそんなに急がないでくれよ」そう願っていても、
寒い季節より春のほうがうれしくなりますね。
3月6日は啓蟄(けいちつ)です。
冬眠虫の蓑虫さん、ゲンゴロウさん、もう春ですね♪♪♪♪

須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<2>

2011-02-20 17:38:03 | 須賀敦子の著作

 「……………………
夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知り合った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。
…………………………」(「あとがき」から)

須賀敦子の最初の著作「ミラノ 霧の風景」は、次のような目次から成っている。
  遠い霧の匂い
  チェデルナのミラノ、私のミラノ
  プロシュッティ先生のパスコリ
  「ナポリを見て死ね」
  セルジョ・モランドの友人たち
  ガッティの背中
  さくらんぼと運河とブリアンツァ
  マリア・ポットーニの長い旅
  きらめく海のトリエステ
  鉄道員の家
  舞台のうえのヴェネツィア
  アントニオの大聖堂
  あとがき



 霧を吸い込むとミラノの匂いがするという。
ミラノの霧のすごさから始まる本書。
ミラノで暮らした13年余の時空、人、文学、旅、街を、
20年後に現在進行形で綴ったエッセイ。

なかでも「マリア・ポットーニの長い旅」と「鉄道員の家」が印象深い。
前者は須賀が始めての留学でフランスに向かう旅で、
1953年8月10日の朝、イタリアのジェノアの埠頭で、
船から降りる須賀を出迎えたマリアとの出会いから、
東京での再会と別れで知った衝撃のマリアの過去。

後者は夫・ペッピーノ氏の父は鉄道員で実家の官舎など、しゅうとめや兄弟にまつわる、貧しくも誇りに満ちた暮らしが追想される。
映画「鉄道員」を観た須賀の衝撃を記した数行が、
なんとも切ない。

この章に限らず、別の著作にもローマ・ミラノ線の鉄道と、官舎の人たちが登場する。



「いまは霧の向うの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる。」
あとがきの最後の1行です……

フロントの写真は須賀さんが最初の留学地フランスへ行く際、
1953年8月10日に上陸した港・ジェノアのGoogle Earth で見た最近の地形です。

●<須賀敦子の著作に出会う>アーカイブ

須賀敦子の著作に出会う
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<1>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<2>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<3>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<4>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<5>
須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<1>
須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<2>

須賀敦子の著作に出会う「ミラノ 霧の風景」<1>

2011-02-12 10:38:29 | 須賀敦子の著作

昨秋から須賀敦子の作品に惹かれて、
「コルシア書店の仲間たち」「ミラノ 霧の風景」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」と読んできた。

「ミラノ 霧の風景」を2度目を読み終えた。
知の海を哀切な感性で昇華するイタリアの追想。
この作品は須賀が13年間余りイタリアで暮らし、「コルシア書店」で出会ったペッピーノ氏と結婚、
わずか4年で夫と死別、42歳で帰国して20年。平成2年、61歳になって刊行した最初の著作、
女流文学賞、講談社エッセイスト賞を受賞した。



イタリアで暮らして、出会った人たち、歩いた街角、
旅した北伊の町、夫とともに読み、訳した文学作品、詩篇……、その思い出を清冽な文章で綴る。
その1行、1節には恐ろしいほど「知の塊」が詰まっている。
その知性が、数行ごとに女性でなければ絶対に書けない、
透明な感性となって詩のような文が魅了する。



思い出の人たち、街や旅、文学を語るとき、いつも行間には夫への追憶が重なる。
須賀は1行、1節ごとに夫との時間を生き直していた。
その時間を満たすのは、イタリアの北の辺狭の国境の町・トリエステへの想い。
その町に生きた詩人で、夫が好きだったサバの詩篇が何回も引用される。
「あとがき」に引用されているサバの詩です。

「死んでしまったものの、失われた痛みの、
 ひそかなふれあいの、言葉にならぬ
 ため息の、
 灰。」
 (ウンベルト・サバ 《灰》より)

たにしの爺、イタリア映画は幾本が見ているが、
須賀敦子の著作を読んで、初めて知った、イタリアの文学作品、詩人。
英文学、仏文、獨文は耳にするが、伊文・イタリア文学はあまり聞かない。
最近のイタリアのニュースは、永友選手のミラノインテル移籍がすごい。
(未完)