たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

たにしの爺、道野辺365日の[徘徊日和]

2016-12-31 08:17:04 | 散策の詩

たにしの爺、少々、訳けあって、
半月ほどブログ更新をサボっていました。
気が付けば(チョッと白々しいか)今日は大晦日。

師走の空は、蒼く澄み渡って日差しあれど、
長身痩躯の爺に当たる風は厳しく身に染む。



まあ、無事に越し来たこの一年でした。
晴れた日、曇りでも、雨降りでも365日の朝がありました。
夕焼けの日、烈しい風雨の時でも365日の夜がきました。

愉快な日も、辛いなーと感じた日も、笑っちゃう出来事もありました。
まあ、いろいろ望んでみても年金高貴高齢者に叶えられることは少ない。
365日、道野辺徘徊の日々が無事だったことに、感謝する一年でした。



365日と言えば、この歌ですね。
NHK朝ドラ『あさが来た』の主題歌、
AKB48の歌う「365日の紙飛行機」

♪♪♪朝の空を見上げて
今日という一日が
笑顔でいられるように
そっとお願いした

時には雨も降って
涙も溢れるけど
思い通りにならない日は
明日頑張ろう

♪♪♪………………………………
………………………………
(作詞…秋元康、作曲…角野寿和・青葉紘季、編曲…清水哲平)
今年の前半、毎朝聞いていました。
朝にふさわしい、いい歌でした。



徘徊の道は落ち葉に埋まる「山眠る」姿に変わっています。
葉を落とした高木の枝は晴天に突き立っています。
密なる小枝は、まるで天網のごとくに張っています。



樹高千丈 落葉帰根という言葉があります。
樹木が大きく伸びて高く、その枝の先は遥か遠い。
けれども落葉した葉は根元に戻ってくる。
それはまた人も似て、やがて故郷に戻ってくる……。



故郷から遠く離れた地を本拠地として生きてきて、
昨今、生まれ故郷の地に還る人は少なくなった。
少子高齢化、限界集落、消える故郷……。



湧水田のたにしの爺、水飲み百姓の出稼ぎ一世、
気持としては、土着の故郷を持って生きていますが、
転勤、引越しなどにつき合わされた、
二世、三世の「帰る」木の根はあるのだろうか。



来年もまた「365日の朝」を感じることができて、
道野辺の「徘徊の日々」をたまには報告したいと思っています。
この一年、拙いたまたまのブログにお出で戴いた、
ブロガーの皆さん、ありがとうございました。
管理人・湧水田のたにしの爺

ヨコスカに行った。海軍カレーを食した

2016-12-14 19:52:58 | 国内旅行

奇跡的に風もなく、晴れ上がった12月8日(例の日ですね)、
公民館サークルの企画で「横須賀軍港めぐり」に行ってきました。
日米海上軍事戦略の主要基地である「ヨコスカ」に、
たにしの爺、上陸したのは初めてです。



ランチは定番の「海軍カレー」で決まりですね。
乗船桟橋の脇に「海軍カレー」の幟が出ていた、
「シャトレーゼ ショッパーズプラザ横須賀」の2階に上がりました。

オーダーすると「ハイ、1,200円です」
「まあ、ヨコスカご当地の銘柄」だからと納得して、
「コーヒー付くの」と問うと、
「海軍カレー」には牛乳が付き物ですという。



席に付くと、軍港の豆知識や俯瞰図のイラスト入りの、
紙製のランチョンマットを持ってきて、
お持ちくださっていいですという。
牛乳とサラダの前菜で出てきました。



しばらくして四角い皿にカレーの中央にご飯が乗った、
「海軍カレー」が運ばれてきました。
「えっ、チョッと少なめじゃない」これで、
乗艦水兵さんたちのお腹を満たせるのかなー、
なんて言いながら頂きはじめました。





「食レポ」になる決め手はありませんが、
辛くもなく甘くもなく、マイルドでした。
美味しくいただきました。



1階にはケーキ、お菓子、海上自衛隊にちなむ、
ミニチュアグッズやカレーパックがお土産として並んでいます。
窓の向こうは「軍港めぐり」の乗船桟橋です。



ランチョンマットの案内によると、
大日本帝国海軍に由来を持つ「海軍カレー」には、
必ず使用する材料や副食にはサラダと牛乳を付けるルールがあって、
賞品審査会による認定を受けた店舗だけが提供できると記されています。

また、長く航海している隊員が曜日感覚を忘れないように、
毎週の金曜日の昼食はカレーに決まっているのだという。



海上自衛隊で食されているカレーは、
各艦艇・部署ごとに先任者から秘伝レシピが伝えられていて、
作られるカレーは艦艇・部署ごとに異なっているという。
潜水艦のカレーが一番、美味しいと、ガイドさんの説明でした。
お土産どころには艦名別に缶入りカレーが売られていました。



寄港していた空母「ロナルド・レーガン」などみて、
約50分の軍港めぐりのあと、
日露戦争、連合艦隊の旗艦「三笠」記念艦に回って、
日本海大海戦の戦歴や記念品を見て来ました。
詳細は後日、フォトチャンネルでアップする予定です。

世界で初めて円周率自乗の公式を発見した日本人

2016-12-11 11:08:24 | 本・読書

最近、こんな本を読みました。
鳴海風著「円周率を計算した男」上下(大型活字本)
読んだ動機は、
いつも行く図書館の大活字本の棚で、
以前から目について気になっていた本でした。



3.14159265359‥‥‥‥‥‥で始まる円周率の計算。
徳川鎖国時代の日本には、
西洋での円周率の研究成果は伝わっていなかった。
ところが、まったく独自な方法で、
円周率の計算を競っていた日本人が大勢居た。
和算・日本の数学――算木とそろばんと紙と筆に尺貫法。
村松茂清は寛文3年(1663年)に著した「算爼」で、
円周率の求め方と小数点以下、21桁まで計算した。



和算の大系を確立し没後、算聖と謳われる関孝和、
-寛永19年(1642年)~ 宝永5年(1708年)-
「算爼」を手にしたのは、算術の修業を始めた20歳そこそこでした。
孝和が最初の著作「規矩要明算法」を寛文4年(1664年)に出した年に、
表題作「円周率を計算した男」の建部賢弘が生まれた。



本書に収められている6本の物語は、
和算の最大潮流・関流を系統する算法者と、
関流の秘密主義、権門に嫌気をもつ算法者ら、
実在した算術家らの数学研究と師弟のしらがみ、
好敵手との怨嗟、妬み、業績の競いあいなど、
年代順に主要人物が登場します。
そして切ない恋模様が物語に色彩を添える。



*標題になっている「円周率を計算した男」
建部賢弘。寛文4年(1664年)生まれ。
甲府藩主徳川綱豊の桜田屋敷に通う。
算術家関孝和の門に3年前から入門しているが、
上司であり、師でもある孝和はなにも指導しない。
賢弘は勘定衆見習いで、不満・反感を募らせていた。
師孝和は言う「円理を極めるということは、
円周率の公式を求めること」だと。



孝和の研究書「求円周率術」を渡され、
今やることは円理(円周率)の公式だと知る。
「円周率計算の桁数」の計算に拘っていた自分の浅薄さに気付く。
演繹から帰納への発想の転換に気付いた賢弘は、
再び円周率計算に没頭する日々になる。円周率42桁を求めた。
しかし円理は見えてこなかった。
計算で疲れ果てた頭の片隅に気付いたことがあった。
収束値がほとんど変化しなくなった。
これが円理ではないか。近似値は無限級数になった。
円周率の自乗の無限級数の展開式の日本における最初の計算になった。



建部賢弘は極めた円理を「綴術算経」として纏め、
将軍吉宗に献上した。59歳であった。
献上した本は今でも内閣文庫に保存されているという。
それから28年後、宝永五年(1708年)算祖・関孝和が死んだ。

以下のことは読後、Webで得た知識です。
この公式は西洋では、
オイラーがベルヌーイにあてた1737年の書簡に初めて見られるもので、
賢弘の発見はこれより15年早い。
日本の数学世界では建部の名を冠にした「建部賢弘賞」として、
現代につながっている。



*初夢
平野忠兵衛・銀座役人。関流の若手算術家。
関孝和の最後の直弟子を自認。女房・お福。
建部賢弘同様に天文暦学の研究に打ち込んでいた。
8年間の研究成果を「歴算精義」にまとめ出版した。

享保14年(1729年)の大晦日。
銀座役人の年寄り役に退いた大晦日の晩、
算術研究を止める決心を女房に話そうと決心したが‥‥、
再び算術・暦学研究に精を出すことを決めた大晦日の夜になった。



*空出(からで)
勘定部屋勤めの多賀清七郎。明和5年(1768年)霜月。
久留米藩芝赤羽の上屋敷内のお長屋。妻百合が臨終の夕暮れ。
久留米藩お抱えの火消しの下役だったが、
算術の才を見出され勘定部屋勤めもするようようになった。

ある日、百合の墓参りに行くと、墓前に手を合わせる女がいた。
振り向いたその女は百合の妹、佳奈だと名乗った。
そのとき以来、佳奈はしげく清七郎の世話焼きに通いだした。
佳奈の献身に清七郎は疎ましく思うのだったが‥‥



*算子塚
鈴木安明(旧姓会田)は出羽の村山郡から江戸に出てきたのは、
明和6年(1769年)23歳のときだった。
遠縁の御普請方の鈴木清左衛門の養子になる。
幼い時からそろばん算術が得意でいた。
同役に神谷定令が居た。
関流の高弟・藤田貞資の門人で算士でもあった。

小枝という女性が居た。
養父の一人息子の許嫁だったが、子息が若くして死んだ後、
定令は小枝との縁談を決めていた。
ある日、湯島天神の拝殿前で小枝を見かけた。
安明は持っていた算子を小枝に与えた。



関流の宗頭に野心を燃やす定令と一匹狼の安明はライバルとして、
激しい算法論争を繰り広げる。
敵愾心を燃やしながら30年近くたったある日、
定令から愛宕神社で会いたいと安明に連絡があった。

老いた定令は一つの算子を出した。小枝が死ぬまで大事にしていたと。
二人の間の激しい算法論争は「小枝」への想いの激しさでもあったのだ。



*風狂算法
文化十三年(1816年)の師走。数奇者たち17人が歌仙を巻いていた。
その中に浮かぬ顔の山口和が居た。
彼は関流の算術家・望月藤右衛門の一番弟子である。
松尾芭蕉を崇拝する風流人でもあった。
和は、なにこれと、世話焼きで近づいてくる師の娘・綾乃が苦手だった。



和には、故郷・越後の水原に将来を言い交した「お恵」が居たのだ。
和がお恵に送った手紙の返事は一度も来なかった。
それに引き換え、綾乃の献身が、和にとって執拗なものになってきた。

遍歴算法を追い続けた和は二人の女性の愛に報いぬまま、長旅にでる。
和の前には、果てしなく続く一本の道があった。



*やぶつばきの降り敷く
陸前栗原郡佐沼大畑生まれの三吉が、
神田の長谷川寛の数学道場の門を初めてくぐったのは、
天保2年(1831年)だった。
同郷の先輩佐藤秋三郎の家僕としてであった。
足を濯ぐのを手伝てくれた「なみ」と初めての出会いだった。



長谷川道場の跡目争いや、流派の確執に翻弄される三吉を、
陰になり日向になり面倒を見ている「なみ」だった。
三吉には貧しさゆえに、女衒(ぜげん)に売られた姉があった。
女郎宿にいることを知った三吉は、会いにいったが……

遊歴算家としての心機一転の旅立つことになった三吉。
天保十年(1839年)10月1日の朝。
万感を込めて見送る「なみ」。振り返る三吉。
二人の胸に永年耐えていた激情が迸った。



6編の物語は歴史的事実を踏まえた、
わが国独自に発展した和算の水脈を物語として、
辿った歴史大河小説でした。

和算という余り知る必要のない分野ですが、
江戸時代の日本人に身分に関係なく愛好されていたことを知りました。
たにしの爺、読んでおいてよかったと思う、いい本でした。
表題作「円周率を計算した男」は第16回歴史文学賞を受賞しています。



鳴海風という作家は始めて知りました。1953年、新潟県生まれ。
秋田高校から東北大学へ進み、機械工学専攻を修了したエンジニアです。
何冊もの和算や暦算に関する作品を上梓しています。



この本と前後して「和算忠臣蔵」という作品も読みました。
忠臣蔵討ち入り義士と、吉良方の上杉家の武士が、
和算と剣術を通じて親友であったことと、
朝廷の暦と幕府の暦の指導権争いを絡ませた、
「忠臣蔵外伝」とも言う内容でした。
長くなりましたが、最後までお付き合いありがとうございます。

冬の薄日が差す、誰もいない休日の校庭

2016-12-10 10:28:43 | 散策の詩

いつもの道野辺の徘徊道を行くと、
小学校の脇を通ります。
学校のある日は通りません。



休日には誰も遊んでいません。
ときたま、少年野球チームが練習しています。
子どもたちはみな、ユニホームをつけています。
見守る親御さんたちも何人かいます。

たにしの爺、しばし立ち止まって見物します。
そして記憶は70年も昔にタイムスリップします。
放課後でも、休日でも小学校の校庭が遊び場だった。



やることは大体、野球、とはいっても10人足らず。
試合などできないので、三角ベースです。
じゃんけんの順番で打者になります。
アウトになると野手になる。
投手も順番で、上から投げないで、下から投げる。



本物のグローブなんて、誰も持ってない。
自分で縫ったものとか、素手で捕球していた。
バットは棒切れで間に合わせる。
ボールはいま軟式テニスで使うような軟球でした。



そのうちに、ボールも固いものになって、
ときには教室の窓ガラスを割ったりする。
その度に日直の先生が飛び出してくる。
みんなで平謝りして事を納めてもらう。

あちこちに厚紙を張った窓ガラスがありました。
大人は誰もいません。みな田畑に行っているのです。
暗くなると家に帰ります。
学校から家まで6分くらいの所にありました。



徘徊の道で通る小学校も6分くらいの距離です。
子どもたちが卒業して30数年、
以来、小学校の校庭に入ったことがありません。

4日をもってJR北海道留萌本線の留萌-増毛間が廃止

2016-12-03 10:22:35 | Journalism

JR北海道の発表によると、
道内全14路線30区間の全ての線区で赤字だという。



以前から決まっていた留萌本線の留萌-増毛間が、
2016年12月4日をもって廃線になります。



12月に入って、北海道付近は強い冬型の気圧配置となっていて、
列車の来なくなった留萌、増毛の街は、
厳しい冷気に包まれた冬の季節を迎えることでしょう。
故高倉健さんの映画「駅 STATION」の雪に埋もれた光景が目に浮かびます。



たにしの爺、昨年の秋、廃線区間に乗ってきました。
同線の廃線が6月に発表されてから、「乗り鉄さん」ら、
廃線を惜しむ鉄道ファンが押し掛けるようになったという。
JR留萌本線、廃線予定の留萌-増毛間に乗りました



この秋になってからは頻繁に、
新聞でもレポートやテレビの旅行番組で取り上げられていました。
たにしの爺、番組を選んでチャンネルを合わせました。



bs朝日、11月8日放映「鉄道 絶景の旅」
消えゆく鉄路をたどる 秋の北海道旅情
写真は放映中のテレビ画面を撮ったものです。




車窓風景や増毛駅が映し出されていました。
駅前には故高倉健さんの映画に出ている「風待食堂」など、
1年前に見てきた光景が変わることなく映っていました。



立ち寄ったお寿司屋さんのデカ盛り「海鮮丼」も見せてくれました。
甘エビたっぷりの海老丼も美味しかったです。
北限の酒蔵・國稀酒造は再訪したい銘酒の味でした。



1年前の日本海の北海道を懐かしみつつ、
テレビ画面から、留萌-増毛間を再度乗った気分を味わい、
留萌-増毛間運行フィナーレを惜しみたいと思います。


今日から12月、師走になりました。

2016-12-01 19:05:01 | 花とつぶやき


夜来から雨降りで暗い朝になっていました。
昼前には上がって薄日曇りの一日でした。



言い古された言い方ですが。
改めて思うのは、月日の経つのは早いものですね。



年の始めには、また一年が始まったと悠長にしていましたが、
この時期なってしまうと、あっという間の330日です。
何事もなかったということでよかったのでしょう。



当地方の12月は紅葉と、冬景色が同時進行です。



お蔵入りの写真を探し出しました。