たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<3>

2011-04-16 12:11:23 | 須賀敦子の著作
学会で訪れたヴェネツィアのホテルで、
父と母への想いに浸った一夜から始まった本書「ヴェネツィアの宿」。
最終章の「オリエント・エクスプレス」で父を看取ることになります。

父は家業を継いだ資産家で、若いころ戦前のヨーロッパ旅行をした実業家でした。
オリエント・エクスプレスに乗り、豪華ホテルに泊まり、高級レストランで食事をしたり、高級服を誂えます。
その時々の話を父は、家族に話し、須賀敦子は聞いて育ちます。
そして父は、もう一人の女性の元に行って家には帰らなくなります。
須賀敦子のヨーロッパは、そんな父との葛藤の舞台でもありました。



戦前のよき時代だった父のヨーロッパは、
給費生の留学時代、結婚してからも貧しかった著者のヨーロッパとは桁違いでした。
父が話し、薦められたエディンバラのホテルのフロントに立ちすくむ。
あまりにも伝統と高級ホテルに圧倒される。

以下(文春文庫版、P279~)から、
「ヨーロッパに行ったら、オリエント・エクスプレスに乗れよ」
ヨーロッパ留学が決まった著者に父は、幾度も言います。



1970年の3月のある日、須賀敦子はミラノ中央駅に駆けつけます。
病床にいる父から、おみやげを持って帰るように伝言が届きます。
「ワゴン・リ社の客室の模型と、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップ」。

パリ発ヴェネツィア経由イスタンブール行きのオリエント・エクスプレスが、
ロイヤル・ブルーの車体に金色の線と紋章のついた、ワゴン・リ社の優雅な寝台車をつらねて、
ゆっくりとプラットホームに入ってきたとき、私は、あたりいちめんがしんとしたような気がした。



……ワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、……ベッドのわきのテーブルに、
それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。




父のヨーロッパと子のヨーロッパがひとつになった……。
須賀敦子の著作はこれまでメモした3作品と「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」まで読んできました。
やはりこの「ヴェネツィアの宿」が心が緩みますね。

(ヴェネツィアの宿の項終わり)
カットの写真は新潮社のトンボの本「須賀敦子が歩いた道」から。
栞の花は「草ボケ」です。

●<須賀敦子の著作に出会う>アーカイブ
須賀敦子の著作に出会う
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<1>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<2>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<3>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<4>
須賀敦子の著作に出会う「コルシア書店の仲間たち」<5>
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須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<1>
須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<2>
須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<3>

須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<2>

2011-04-09 18:12:42 | 須賀敦子の著作

須賀敦子の著作のほとんどは、イタリアから帰って、
長い年月と熟成を経て書かれたものです。
この「ヴェネツィアの宿」は、ヴェネツィアのホテルで自身の幼少時代から、
父と母・家族への想いを綴った表題作から、
最終章の父との最期の再会までの12編からなっています。



ヴェネツィアの宿 ¶夏のおわり ¶寄宿学校 ¶カラが咲く庭 ¶夜半のうた声
¶大聖堂まで ¶レーニ街の家 ¶白い方丈 ¶カティアが歩いた道 ¶旅のむこう
¶アスフォデロの野をわたって ¶オリエント・エクスプレス

どの章も前の2作に比べ、
著者自身の心情が本来なら高ぶる気持を冷静に切なく、透徹した言葉を繋いでいく。
各編とも著者の思い出と思索が自由に織り込まれて、
エッセイを超えた高質な文芸作品といえます。



なかでも、後半の2作は著者の孤高の精神性と情感が哀しい。
「アスフォデロの野をわたって」の一篇には夫・ペッピーノへの喪失の予感が語られます。
夫のペッピーノと休暇で南伊のソレント訪れたとき、
寝てばかりいる夫も見ていて、
夫の親族の持つ早死にの宿命を思い「不吉な予感」に捉われます。
ペストゥム遺跡を見に行きます。そこで須賀さんは夫の姿を見失います。



ペストゥム遺跡の夏枯れの野に、私はひとり立っていた。
捜し求めた果てに、須賀さんは何の関連もなく、
好きな「オデュッセイア」の一節を頭に浮かべます。(文春文庫・263ページ)
 アキレウスは、アスフォデロの野を
 どんどん横切って行ってしまった

それから数ヵ月して、ペッピーノは肋膜炎で急逝します。

須賀敦子の著作に出会う「ヴェネツィアの宿」<1>

2011-04-02 22:34:30 | 須賀敦子の著作

須賀敦子の著作を昨秋から読んでいます。
「ヴェネツィアの宿」1993年に刊行された著者3冊目64歳のときの作品です。
「コルシア書店の仲間たち」「ミラノ 霧の風景」の2冊は、
おもにイタリア在住時代の記憶を辿ったものでした。



この「ヴェネツィアの宿」は著者の幼少時代から、留学生活のいろいろ。
両親、家族にまつわる著者自身の周辺が語られています。
須賀敦子は1929年に阪神の夙川で生を受けました。

父は戦前のヨーロッパをはじめ世界を豪華客船、
オリエント急行の旅をするような、裕福な家庭に育ちます。
ミッション系の学校に通い、やがて洗礼を受ける道を歩みます。
父からヨーロッパの都市の話、港のこと、
オリエント・エクスプレスの旅のことを聞きながら成長します。
そんな父をやがて許せなくなる。
もうひとつの家庭を持つようになり母の元には帰ってこない。



須賀敦子は2回ヨーロッパ留学しました。
最初は24歳の1953年から2年間はフランスでした。
神戸港から40日の船旅でイタリアのジェノバに上陸します。
出迎えたのは須賀の将来に重要な役割を果たすことになる女性でした。

2年間のフランス留学は須賀にとって、
心穏やかなものではなかったようです。
「フランスは私に冷たかった」意味の表現が、いくつかの著書の中に登場します。
1953年のヨーロッパはまた、記録的な寒波に見舞われた年でもあったようです。



「ヴェネツィアの宿」はシンポジュウムで訪れた夜、フェニーチェ劇場近くのホテルに泊まり、
亡き父が豪華な世界旅行をした頃の家族をを思い出し、別の家族を持ち、
帰らなくなった父を許せなくなっていく自分と母の思いに浸る。
しかしそんな父は、著者にはヨーロッパの先験者でした。
本書の劇的な最終章「オリエント・エクスプレス」はじんと泣けてきます。
(この講未完)