たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

眠りに入る山を彩る「残り紅葉」

2015-12-27 22:32:40 | 散策の詩

2015年今年もあと5日で終わる。今年最後の日曜日。
日々サンデー・365日連休の徘徊爺にとって、
だからどうすると言うこともないですが、
書き出しの1行として枕を付けないと後が続かない。



雨こそ降らなかったが、雲間に時たま日が差す一日でした。
いつものコースで自然公園に足を伸ばしました。





2時過ぎにはしっかり曇天となって、光のない枯れ野となっていた。
池にはいつの間にか、鴨鳥の数が増えていました。



暖冬だと予報されているが、冬の鳥は訪れていました。
動いている数より、首を埋めて動かない方が多いです。





どなたが被せたのか、バラ園の少女像には毛糸の帽子が載っていました。

 

「残り紅葉」もここそこに残っていました。





赤く染まっていくアオキノの実。
常緑の葉陰にはツバキの花。

 

枯れ枝に絡まる蔓にはカラスウリの実。そして赤南天。
灰色に染まり眠りに入る里山にも、彩る色彩はあります。

 
 
温室棟エントランスにはお正月飾りが出来ていました。
28日から3日まではお休みで、
「4日から開園します」と表示されていました。
折角の松飾も三が日には見れないとは残念です。



きりたんぽ鍋とハタハタ(鰰)で秋田づくしのクリスマス

2015-12-25 22:29:07 | Weblog


秋田出身のご婦人のお招きで、後期高齢者の4人が集まり、
秋田づくしの食材でクリスマス会になりました。



秋田の県魚で秋田音頭の歌詞になっている魚、
♪♪秋田名物八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)♪♪
八森港に陸揚げされた鰰・ハタハタの焼き魚。



名産店・さいとうから取り寄せたきりたんぽ。
秋田の地鶏・比内地鶏スープの秋田づくしでした。
秋田生まれのご婦人の指南によりますと、
きりたんぽは斜め切りに3等分にします。



白ねぎも斜め切り、舞茸は食べやすい大きさに。
ゴボウはささがきにします。
トリ肉、生レバー、油揚げの具材を用意します。
根付きのセリを良く洗って5センチくらいに切る。
秋田流はセリの根っこ部分まで鍋に入れるのが本道だそうです。



鍋に水とささがきゴボウを入れてコンロに架ける。
沸騰したら鶏肉、生レバーを入れ火が通るまで煮る。
アクを取り除いたら比内地鶏スープを入れる。



スープが煮立ったら舞茸、ネギ、セリを入れ煮る。
きりたんぽを入れて2~3分煮れば、きりたんぽ鍋が完成。
きりたんぽは食べる分づつ入れ、煮崩れする前に頂きます。



飲み物はスーパードライとワイン。
爺婆のクリスマスパーティーの用意が整いました。
「カンパーイ」先ず秋田県のことから始まって、
それぞれの出身県(秋田、長野、兵庫)の田舎話。



正月の餅は丸いか四角かなど、ローカルな食べ物談義。
次第に身近な話になり、
ご近所で進んでいる幼稚園の立替え工事のことや、
自治会役員の偉ぶりや役に立たない市会議員のこと。



加入している団体の役員人事などで盛り上がり、
気が付けば3時間あまり「きりたんぽ鍋」を囲んでいました。
長々とお邪魔しました。本場流「きりたんぽ鍋」は旨かったです。

窓辺のポインセチアに冬至の日差し

2015-12-22 19:29:18 | 24節気
2015年12月22日は24節気の冬至、
天気晴朗にして「一陽来復」でした。



一年の最短日が晴れ渡った日になりました。
窓辺に置いたポインセチア、カニサボテン。



クリスマスや暮れ正月には、
赤い花が賑やかないなります。



リビングにはシクラメン、ポインセチア
枯れ野辺には南天、ピラカンサが目立ちます。



冬至にはゆずを浮かべたお湯に入ります。
徘徊の帰りに一個買ってきて湯船に入れました。



「風邪をひかない」と言われています。
一個だけでは香りも効果もなさそうです。
それでもまあ、「一陽来復」への気は心ですな。



明日は国民の祝日で休日です。
この時期の休日では休める人は、
どのような職種の人なんだろう。

今年も残りは一週間余りになりました。
明日は、ぐっと冷え込むと、
お天気姉さんが言っています。

浅草歳の市・羽子板市、納めのぶら歩き

2015-12-18 22:24:59 | 社会見学

公民館サークルの納めの企画で、
年忘れ「浅草寺ぶら歩き」に行きました。





毎年、17日から19日まで開かれる縁日、
浅草歳の市・羽子板市の初日に当たり、
境内周辺は華麗な羽子板の並ぶ屋台が連なっていました。





人気歌舞伎役者やタレント等の似顔絵を配した羽子板が、
幾つも並んでいました。
お値段はピンからキリのウン十万まで豪華絢爛です。





高額品が買われると購入者に店のほうから、
縁起のいい三本締めの声があがっていました。





雷門から仲見世通り、浅草寺境内まで、
人の波が続き、普段でも込み合う通りが、
昼ごろには大変な人の波になっていました。





雷門通り、新仲見世通り、伝法院通り、観音通りなども、
相当な賑わいでした。和服に着飾った女性たち、
日本女性以上に和服を着こなし「美しすぎる外国人女性」もいます。





また、修学旅行の高校生、中学生がかなり目に付きました。
長崎から来たと言う女子高生らも通り脇に佇んで、
人の群れを避けていました。



五郎丸歩選手の集中ポーズ羽子板もあります。



私たちは観光ボランティアの案内で浅草寺誕生のことや、
三社祭のそもそもなど聞きながら、本堂に上がり参詣することができました。
紅葉も少し残っていました。







この日オープンした全国地場観光のアンテナ拠点、
「まるごとにっぽん」も通りから視察しました。
いつか入ってみたい施設のようです。

師走も中旬、サンタ爺さんの木がありました

2015-12-16 15:27:00 | Lyricism
 

日差し温かく、
出かけた序でに、
千葉県立北総花の丘公園に、
立ち寄りました。

杉、柏、楡など、
立ち木の枯れ葉が、
西日に輝いていました。

管理棟のフロアに、
サンタ爺さんの木が並んでいました。
ポインセチアの赤と、
白いサンタ爺さんの髯、

師走も半ば過ぎ、
ポインセチアと、
サンタクロースの季節ですな。





今年の漢字は「安」とか--、
徘徊しながらこう考えた。



安倍ちゃんの安保改定や安全原発によって一路平安、
安閑恬静にして、安楽して、安逸の年のようでした。



えっ、まさか、本気ですかーー
「夢と知りせば 覚めざらましを」

当地の「紅葉前線」ただいま通過中です。

2015-12-09 12:13:56 | Lyricism

青天が続いています。
当地の紅葉前線が駆け足で通過中です。
いつも行く自然公園を中心とした紅葉山。
閉園を一週間延長していました。



年々、紅葉の景観が悪くなっているような気がします。
早く色付き早く散ってしまう小葉モミジ。
何時までも斑模様のモミジ。



今年は全国的に色付きがよくなかったようです。
今年はこの10年でもっとも悪い状況だとも言われています。
紅葉の名所に行かれた知り合いも「好くなかった」と言っていました。



柿色の段階、赤くなるとすぐに散っている状況で、
色付いた木と落葉してしまった木と混在しているという。
当地の紅葉山もそんな状態です。



モミジの木に比べて、周りの杉など、常緑高木が育ちすぎて光を遮ったり、
高木につられて、モミジの木が高木になって、
紅葉の位置が目線と合わないのでしょうか。



人間に都合よく自然が振舞うわけもありませんね。
森羅・自然の為せる業には、人は従うのがいいでしょう。





その季節(とき)・旬の美しさを見て、愛でていくのが、
日本人の美的感覚になっています。
美しい言葉にもなっています。





「斑紅葉(むらもみじ)」濃いところと、薄いところと、まだらの紅葉。
日本の百年唱歌『もみじ』に詠われています。
♪♪秋の夕日に/照る山紅葉/濃いも薄いも♪♪



カタカナの外来語で現わせば、
グラデーションとかコラボレーションとでも言えましょうか。



桜の開花にも蕾、ほころぶ、三部咲き、五部咲き、満開、
散り初め、落花盛ん、散り果て、葉桜と言うように、
秋の紅葉にもその程度をいう表現があるようですね。



うっすらと色付いたら「薄紅葉」、そして「斑紅葉」。
輝く「照る山紅葉」から「散紅葉」や「枯紅葉」となる。



枯れ木に「残る紅葉」一枚に移ろう季節と世事を重ねます。
「一葉落ちて天下の秋を知る」
道野辺の草にも霜枯れる前に「草紅葉」を愛でて歩くのは晩秋の楽しみですね。



満開の桜より「散る桜」に、満照の「紅葉」より「黄昏紅葉」に、
詩情を求める lyricism が好きですね。
山は晩秋の「斑紅葉」と初冬の「枯紅葉」がコラボしていました。



ふゆそうび「冬薔薇」が楚々と彩を添えていました。
「ムラサキシキブ」の実が鮮やかに輝いていました。






「鎌ケ谷ランフェスタ2015」1000人のランナーが楽しむ

2015-12-07 17:42:02 | Journalism

快晴の晩秋の11月29日(日)に2年目になる、
北海道日本ハムファイターズ「鎌ケ谷ランフェスタ2015」が、1000人ほどのランナーが参加して
鎌ケ谷スタジアムを発着点に7キロを走るコースで行われました。



コースの3分の1が「たにしの爺」の徘徊路でした。
市内のNPO法人のポータルサイトに、レポーターとして、
取材コンテンツ記事の提供が優先課題でしたので、
ブログアップが一週間遅れになりました。



エントリー種目はペア7km(2人合計タイム競争方式)と、
一人参加の個人タイムレースで行われました。
↓弘山さん指導でウォーミングアップ。



↓白バイが先導します。最後尾には移動交番車も伴奏していました。



スターターは特別ゲストの弘山晴美さんです。
(アトランタ、シドニー、アテネと連続五輪出場の元資生堂のランナー)
開会前には、ランナーたちへの走る際の注意点や疲れたと思ったら「息を大きく吐きなさい」など、
アドバイスや柔軟体操のコツを伝授しました。



コースはカーブが多く、アップダウンもきつく、
市内の道路事情を知らない選手らには厳しかったでしょう。



それでも、7キロ走とあって、近隣の高校から参加した陸上部のランナーが、
トップグループを形成して高速レースになって、1位は22分台で走り切りました。



一流マラソン選手の1000メートルのラップが3分前後で、
7キロ22分台は、コースの悪さを考えれば、相当のスピードで走ったことになります。





スタジアムに戻ってきたランナーらは、
外周を回って一塁側スタンド脇からグラウンドへ、
1,2,3塁を踏んでホームベースがゴールです。





ダイヤモンドを回りながらも、デットヒートの展開にもなっています。
ホームベースに滑り込むランナーもいました。





この「鎌スタランフェスタ」の最大の楽しみは、
プロ野球の試合で使用されるグラウンドで、
プロ野球選手しか踏めないダイヤモンドを回って、ホームベースを踏めることです。
↓最終ランナーが日ハム選手の伴走でゴールしました。



↓表彰式で1位選手には大谷選手のサイイン入りボールや野球道具が贈られました。



自主トレ中の日ハムの選手もレースに参加したり、給水地点のサポートをしたり、
来場した家族等とゲームもして交流していました。



↓完走したランナーには名前入りの記録票が配布されていました。
タイム計測はゼッケンに埋め込まれたチップをゴール地点で、
計測してPCに送られデータ化して印刷されます。



プロ野球北海道日本ハムファイターズのファームの拠点、
「ファイターズタウン鎌ケ谷」には球場と室内練習場、
それに大谷選手らが入っている選手寮ができたのは1997年でした。
以来、地域密着、コミュニティとしての機能も高く、
年間を通じてさまざまなイベントを企画して、
地元市民、近隣からの来場者の交流の場になっています。



「たにしの爺」の徘徊路と同時にブログのネタ元でもあります。
試合日はもちろん、練習日にも、
若い女性や地元おじさんたちの「追っかけフアン」が、
寮とグランドの通路に待機して、お目当ての選手を応援しています。



2月になるとドラフト新人選手が入寮し、
グラウンドでプロ選手として育成され、
大谷、中田、陽選手らと一軍ベンチ入りになります。
来季もソフトバンク・ホークスには叶わないでしょうが、
クライマックスシリーズには入るでしょう。
ちなみにたにしの爺は50年来のヤ党です。

東京・目黒区に行く③ 目黒不動尊から東京都立林試の森公園へ

2015-12-05 20:09:19 | 社会見学

目黒区に行った事を書いています。
前回は目黒不動尊まで行きました。その後、
近くにある「東京都立林試の森公園」に足を伸ばしました。
今回の目黒行きで初めて知った都立公園です。

林試の森公園正門前に「石古坂」という木製の標識が立っていました。
坂とありますが、それほど意識する坂でもありませんでした。
帰ってネットで検索してみました。
下目黒三丁目と品川区小山台一丁目の境になる坂で、
石ころの多い坂だったので「石古坂(いしこざか)」と、
言われるようになったらしいです。
私たちは品川区と目黒区の境を歩いているわけです。



「東京都立林試の森公園」に着きました。
目黒区と品川区にまたがる大きな公園のようです。



以下、案内書によります。
東京都立林試の森公園は、明治33年(1900年)6月、
農商務省林野整理局が「目黒試験苗圃」としてスタートしたのが始まりで、
その後「林業試験場」に名称を変更、林野庁の付属となり昭和53年まで使用されていた。



筑波研究学園都市に移転した跡地を整備し、
平成元年6月1日に「都立林試の森公園」として開園された。
広さは東西に700m、南北に250mと細長く、
外周路を回るには45分かかると記されていました。



特徴は国内外の珍しい木はもちろん、
天然記念物にされているものもあります。
海外産樹木が多く見ることができるということです。
マップの一覧を参照くだあい。



園内には巨木が多く薄暗いくらいです。
よく整備されていて、遊歩道や広場もあって、
新緑のころに訪れたら素晴らしい森林浴にもなるでしょう。



「徘徊高齢者」には枯葉を踏んで歩く方が似合う感じでした。
一株からスズカケの鈴懸けの巨木が3本生えている樹もありました。









帰りは同じ道を戻り、雅叙園、お七の井戸のところで、
急坂の行人坂を登るのはしんどいという事で、
少しゆるい左の迂回道を通って、権之助坂に出ました。
権之助坂には、飲食店やおしゃれな店が並び、
人通りも多く繁華街の路でした。

目黒区には柿の木坂、碑文谷、自由が丘、祐天寺、三田、青葉台など、
今風に言えば「上級格差」のお方が住んでいる街が多いことで知られています。
「たにしの爺」これまでも目黒には縁がなかったし、今後もなさそうです。
 これで目黒徘徊レポートは終了です。
お付き合いありがとうございました。

東京・目黒区に行く② 「八百屋お七」の井戸から目黒川を渡り、五百羅漢寺、目黒不動尊まで

2015-12-04 21:51:10 | 社会見学

前回に続いて目黒に行った事の2回目です。
大円寺を出て左に行くと「目黒雅叙園」の前に達します。
道の一角には「八百屋お七」の井戸というのがありました。
「お七の井戸」と、ここまでが前回に書いたことです。
「八百屋お七」の話は、知る人ぞ知る話ですね。江戸時代の悲恋ラブストーリーです。



八百屋八兵衛一家は大火に遭い、菩提寺に避難します。
八兵衛の養女のお七は、その寺で寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。
再建された家に戻ったお七は、吉三郎に会いたさに家に火を放ちます。
お七は火あぶりの刑に処せられました。
それを知った吉三郎は出家して、お七の菩提を弔うため荒行に励みます。
そのとき水垢離を取ったのがこの井戸だということです。



目黒川の太鼓橋に出ました。赤い看板の解説を見て、
目黒区の木は「椎の木」だと知りました。
目黒川の桜は都内でも知られた名勝地です。
すっかり枯れ葉になった桜の木が川に映っています。
満開の時期はさぞ見事なことだろうと想像できます。



所々に観光案内の道しるべがあったり、道にも埋め込み標識がありました。
山手通りには入り、しばらく行くと松雲羅漢像のある羅漢寺の交差点です。
右側の小路に入りしばらく歩くと黄檗宗の海福寺がありました。



黄檗宗(おうばくしゅう)とは、
「たにしの爺」喜寿まできて、初めて目にした宗派でした。
ネット検索で臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つであることを知りました。



その先、すぐのところに天恩山五百羅漢寺がありました。
道路から少し入ったところから石段が続いています。
開基は松雲元慶禅師(1648~1710)、本尊は釈迦如来ということです。



300体を超す仏像は元禄時代に、松雲元慶禅師によって十数年にわたり彫像されたもので、
江戸期を代表する木彫りとして東京都の重要文化財に指定されているという。

200円成りの拝観料を払って羅漢堂にはいると、
たくさんの羅漢さんが、悟りへの道しるべと共に迎えてくれます。
境内は写真禁止なので、らかんさんに逢うには直接足を運んでください。

羅漢とは、修行して煩悩を拭い去り、
人間としての真実の智慧を完成した聖者で、
人びとからの供養をうけるにふさわしい聖者という意味だということです。

聖者に囲まれていると、凡人には及びもつかない世界のようで、迷宮に来た気分になります。
修業しますから不埒な心得者をお許しください。
記念にお線香を一策買い求めました。



ランチは併設されている「らかん茶屋」で「らかん膳」をいただきました。(写真右奥)



この後、道標に沿ってしばらく歩き、目黒不動尊こと瀧泉寺まで行きました。
瀧泉寺(りゅうせんじ)は不動明王を本尊とし、
天台宗3代目座主の慈覚大師が9世紀に創建したと伝えられています。







朱塗りの仁大門を入ると広い境内があって、
大きなスズカケの木、イチョウの木が色づいていました。
正面に長い石段があり、その奥に本殿があります。





本堂へと登る石段の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。
慈覚大師が独鈷と呼ばれる仏具を投げたところ、泉が湧き出し、
独鈷(とっこ)の滝として今も涸れることなく湧水が出続けているという。
池には水かけ不動もあります。



大本殿の回廊を回って後ろ正面に立つと、露座の銅製仏像がありました。
膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像です。



広い境内にはさまざまなお堂や石造が置かれていました。
勢至堂、愛染明王、護衛不動尊、不動明王の使者とされる八大童子の山など。





また、青木昆陽の墓と碑、本居長世の歌碑、北一輝の碑なども。
さまざまな、いろいろな拝所がありすぎて混迷しそうです。



門を出たところには権八と小柴の比翼塚がありました。
「比翼塚」というのは、愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚だということを知りました。



この後、林試の森公園に向かいました。



<この項未完>
今日はここまでにします。

東京・目黒区に行く① 行人坂、大円寺から目黒川まで

2015-12-03 13:35:17 | 社会見学

師走に入って3日目、雨模様の日が続いています。
11月の26日から回復して30日まで好天が続いていました。
どうやらお天気具合は4、5日のサイクルで替わるようです。
<以下、掲載の写真は撮った順で本文の順にはなっていません>



11月末の好天の具合を見て都内・目黒区を歩いてきました。
目黒駅から行人坂→大円寺→目黒不動尊→林試の森公園→五百羅漢寺を往復しました。



東京23区の中でも、目黒区はこれまであまり縁のない区でした。
学生時代、友人が祐天寺に住んでいて、
「旨い寿司や」があるというので、2、3人で押しかけ記憶があります。



そのときのお寿司の具合は全く記憶に残っていませんが、
鮮明に思い出せる奇遇というか、出会いに遭遇しました。



中学時代クラスで2年だったか、3年になってからか、
東京に転校した校長先生のお嬢さんがいました。
その女性がカウンターで同伴者とお寿司を摘んでいました。
双方、認識して「あっ」とか「おっ」とか言ったかもしれませんが、
他に言葉を交わしたか記憶はありません。



そのあと成人してから、ある作家先生を訪ねたことがあります。
書斎でお話を伺って、
床から天井まで書棚と本の山に埋まった光景に驚嘆しました。
もう、半世紀も前のことです。



それ以来、目黒駅は山手線で通過したことは幾度もありますが、
降りて街に出たことはありませんでした。



駅の西口から「行人坂」という、勾配のきつい坂を下りました。
かなりの人通りで車も多いです。



途中の石垣の中に小さな祠が祀ってあって、
「目黒川架橋供養勢至菩薩像」が祀られているという。
祠の脇に「行人坂」と書かれていました。

この祠の前から少し坂を下り平な道になった辺りに「天台宗大円寺」がありました。
「大円寺」の由来は、
湯殿山の高僧行人が建てた大日如来堂に始まると言われています。



江戸時代の寛永年間、この付近に跋扈する悪人たちを放逐するため、
江戸幕府は湯殿山(山形県)から高僧行人・大海法印を招き寺を開きました。



大海法印は悪人たちを一掃した功績で「大円寺」の称号が付いたという。
行人とは修業僧のことで、修業僧が行き交う坂で「行人坂」と言われるという。
山門を入ると境内左手の崖に幾段にも並ぶ石仏群がありました。





釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、
江戸の大火のひとつ「行人坂火事」の犠牲者供養のために、
石工が50年かけて作ったものだそうです。



本堂左にある釈迦堂には、国の重要文化財に指定された生身の釈迦如来像といわれる、
清涼寺式釈迦如来像が祀られています。



大円寺を出て左に行くと「目黒雅叙園」の前に達します。
道の一角には「八百屋お七」の井戸というのがあります。





「雅叙園」の脇を通っていくと目黒川の太鼓橋に出ました。
桜で有名な目黒川です。
<この項未完>



今日はここまでにします。