たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

思い出に残る山(48) 東北の名峰・霊山

2020年05月04日 | 心に残る思い出の山

久し振りの思い出に残る山は霊山(りょうぜん)を取り上げてみました。 平成10年、冬の登山記です。

梯子を上ると、その上は展望台(宝寿台)。「子供の村」が眼下に、遠く阿武隈山地の緩やかな山並みが一望できた

何処かで見た景色、そう西上州の妙義山「日暮の景」と見紛う様な岩の屹立だ。その名も「日暮岩」

穏やかな日和の今日、迫力十分な日暮岩の奥に冠雪の吾妻連峰が確認できたが映像として映しだす事は出来なかった。  しかし、その雄姿は今でも脳裏にしっかり刻み込まれている。

子知らず親知らずの岩場をへつり岩のトンネルを潜ると断崖の上、護摩壇に出る。 頭上に覆いかぶさる黒い岩は不気味だが展望は素晴らしい。 福島市内や吾妻連峰が一望だった。

今、振り返ってみますと記憶から飛んでしまっている写真ですが、鎖が取り付けられて無い所をみますと多分、ルートではないと思います。岩を見るとムズムズして来る悪い癖が出て、ただ遊んだだけの写真だったのかも?

護摩壇を大きく廻り込み一登りで国司館跡に着いた。激しい戦いの後も今は幻、静まり返る雪の中に礎石だけが僅かに名残を留めるのみである。

貞観元年(859年)に比叡山延暦寺の座主であった円仁(慈覚大師)が霊山山中に霊山寺を開山したと伝えられています。 発掘調査の結果などから峰々には山王21社、僧坊3600坊を数えた一大文化圏であったと考えられていますが470年余り続いた栄華も南北朝の動乱で全てが焼失し現在は礎石が残るのみとなっています。  (解説文より)

霊山の最高峰「東物見岩」には静かな樹林の中を南に向かった。いったん下り緩く登り返したところの岩峰が東物見岩だ。  空気が澄んでいれば太平洋まで見渡せるらしいが下り坂に向かっている今日、霞に消され海岸線さえ見えない。

学問岩、蟻の戸渡り、天の釣舟、五百羅漢岩、弘法の突貫岩、弁天岩、日暮岩と奇岩を廻り今年、最初の山歩きは終わった。

帰りは飯坂へ行こうか迷ったが太平洋も捨てがたく相馬市へ向かい直売所の御婦人の紹介で松川港の扇やさんに山靴を脱いだ(一泊8000円)。 女将さんの「お風呂にどうぞ」の呼びかけに待ってましたとばかり風呂場へ。 湯は滔々と流れ簡素だが清潔な風呂だ。 しかし熱い。 とにかく熱い。 太いパイプが付いている蛇口を捻り水を流し入れたが何時になっても丁度よくならない。 先に体を流して時間を稼いだが駄目だった。仕方なく水道近くに身を縮める様にして体を沈めた。

落ち着いた所で町をぶらりとした。到着した時の賑わいは無く人影も疎らとなり軒を連ねる魚やも直売所も店仕舞いを始めている。それでも店の前を通ると商売っ気が顔を覗かせ声が掛かる。

5時、夕刻を知らせる曲が流れた。ブラブラしていた犬が立ち止まり曲に合わせて鳴き出した。そして曲が終わるや、またノソリノソリと歩き出し建物の影に消えて行った。

海苔田が広がる松川浦を歩いてみた。仕事を終えた漁師たちが食堂で何やら楽しそうに語らいながら一杯やっていた。 微笑ましい風景であった。

翌朝、山から旅に気分を切り替え鵜の尾岬~勿来の関と寄り道し七浜で昼食。ここで食べたウニの美味しかった事(500円) 実は私はウニが苦手だった、しかしこの日を境に完全なウニ党になってしまった様だ。 

美空ひばりさんの「みだれ髪」の舞台、薄磯海岸に立ち寄った後、五浦美術文化研究所で岡倉天心の六角堂や日本画を観賞(↑は上村松園「よそおい」)し家路へと向かった。

まさか13年後、大震災、そして津波に多くの家が飲まれ犠牲者が出てしまったとは・・・あの日、私の脳裏に先ず浮かんだのは扇やさんの威勢の良い女将さんの顔でした。どうしているだろうか? 今でもあの笑顔を振りまいて元気に民宿を立て直し切り盛りしているだろうか? いや、きっとそうしているはずだ。

コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする