ら抜き「来れる」、10歳代では7割以上が使用(読売新聞) - goo ニュース
というニュースが、なんだか毎年一回くらいは出てきますね~。
「ら抜き言葉に抵抗を感じない」人々も、年々増えてきております。
に対して、「美しい日本語」「正しい日本語」を大切に!!と、叫ぶ人も多いようですが・・・
私は、基本的には「いいんじゃない?」と思います。
っていうか、自分も日常会話では、ら抜いちゃうしね。それで、十分通じるし。
日本人って、そもそも民族的に、「小さく、コンパクト」する事が好きなんじゃないかな?とも思うのです。
すぐ、言葉とか単語を省略、中略化して短くするのが常だし。
小ささ、コンパクトさを愛でる習性がある、と考えれば、大勢を変えずに省略できるところはして、より小さくしていこうとする「ら」抜きも、そういう習性からきているのかもせんよね、と、こじつけ(笑)
また、大体、こういうのって、「間違い」っていうよりも「派生」的な感じなんだよね~。
一見(一聞?)ヘンに聞こえても、よくよく考えると、「あぁ、なるほどね~」と思うところも多いし。
たとえば「号泣」の意味。正しい意味は、激しく泣く、事なんだそうですが、大声を上げて泣く、と多数の人々は間違って理解している、との事ですが・・・
でも、激しく泣く時って、大声上げて泣いている、という映像が浮かびませんか??
大声上げないで「激しく泣く」っていう方がイメージしにくい、っていうか。
なので、激しく泣くの中に「大声を上げて泣く」も含まれる、と考えれば、広い意味では号泣が大声を上げて泣く、って捕らえても「間違い」とは言えないんじゃないかな?
たとえ「辞書的」には正しくなくてもさ。
「姑息な手」っていうのも、正しくは「一時しのぎ的な手段」という意味なんですが、「ひきょうな手段」と思われているそうで。
私的には、「こズルイ手」っていう感じで捕らえていましたが(笑)
一時しのぎ、真剣に捕らえてない、とりあえずの処置→卑怯だ、っていう展開なんだろう、というのも判ります。
っていう感じで、「トリビア」的な面白さを感じる、上記の記事なんですが、それを単純んに「今時の若い者は日本語すら正しく話せないとは・・・嘆かわしい」だけで、ブツブツ文句で終わるっていうのも進歩ないなぁ~と思います。
言葉も生き物であり、「ら」抜きも「ら」ありも、その時のTPOにあわせて使い分ければ別にいいと思うのだ。
ただ、その「ら」あり、の存在を知らない、という人が増えていくのも問題ではあるとは思いますがね~。