今日はインフルエンザの予防接種をしてきましたよ~
別に個人的には受けなくてもいいんですが、どうせワクチン打ってもインフルエンザ罹らないわけでもないのでね。
でも、なにせ万が一インフルに罹ってしまった場合、ワクチン打っていれば「ワクチン打ってても罹っちゃうもんだよね、仕方ないよね。」で終わりますが、もしワクチン打ってなくて罹った場合は「なんでワクチン打たなかったの?打てば罹らなかったのに、自己管理が悪い」となるからさ~^_^;
ま、今回は別にそれほど痛くもないし、硬くなってもないしよいんだがね、
で、ネットで面白いニュースがありました。
「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」じゃない? 予想外の真相が…「正しい日本語」論争への答え
面白いけど長いので全文引用はしませんが、要するに・・・
島田教授によると、「ら抜き言葉」はその名のとおり、可能の助動詞「られる」の「ら」が抜けたと取られるのが一般的。
しかし、抜けているのは「ら」ではなく「ar」だ、とする見方も成り立つのだそうです。
「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」の変化をローマ字で書いてみると
「mirareru→mireru」「taberareru→tabereru」
となります。こう書いたときに、途中にある「ar」が抜けていると見ることもできます。
なるほど~!!確かにそうだねぇ・・・
このarぬかしは、昔々から徐々にみられてきているそうで、それこそ「古文」時代の日本語から・・・
思うに、言葉の変化が起きるのって「書き言葉」よりも「話し言葉」だよね、絶対。
そして、人間の特性はよく言えば「合理化・効率化をもとめる」悪く言えば「めんどくさがりや」ってことだから略せるモンは略したい、その分話すエネルギーが節約できる、ってことで、このarなんかが発音上でも省略しやすくて、省略しても通じるからだんだん略されていく、これが表面的には「ら抜き」としてみられるんであろう。
で、よく言われる「正しい日本語」についても触れていて、言葉は生き物である事を「正しい日本語が・・・」って言ってる人たちは認識すべきである、っていうのに大納得!!
いや、別に正しい日本語を話そう!っていうのが悪いっていうわけでもないけど、その「正しい」が果たして万人に通じる絶対的な価値を持つ「正しい」なのか?って言えば・・・???
かえって「正しいのだ」っていうことに捕らわれて、本質を見失っているという気もするよね、言葉っていうのは人と人とをつなぐ「コミュニケーションの手段・意思表現の手段である」=道具である、っていう事。
使い方にはもっと幅があってもいいはず・・・
だからこそ、その相手によって口調が変わったりするわけなんでしょうからねぇ。
とかとか、「うんうん、そうだよね」って納得出来る内容でありました。
で、ふと気づいたんだけど、いわゆる静岡弁で、
静岡を「しずおか」じゃなくて「しぞーか」って発音するんだよね、静岡弁。
これをローマ字で書いてみると「Shizuoka」を「Shizo~ka」って発音しているわけだ。
uoのuが後ろのoに飲み込まれてるっていう感じだな。
他にも、「月曜日」を静岡弁は「getuyoubi」じゃなくて「Getuyo~bi」って発音する。
げつようび、じゃなくて、げつよーび、って感じ。
この場合は、ouで後ろのuが前のoに吸収される感じだな。
確かに、発音的には「u・う」よりも「o・お」の方が発声しやすいし、伸ばす音ならなおさら「うー」よりも「おー」の方が自然にやりやすい気がする・・・って私だけかな?
これもarのら抜きと近い現象じゃないかなぁ??とかと思ったりして。
方言って、何か単語が特別とかっていう場合じゃなくて「発音」の場合、やはり周囲の人の発音を聞いてそれをまねるわけだから、移りやすいのかもねぇ。
他の地方の方言でも、そういう法則があるのかねぇ~??