誰がオリンピックを世界メダル獲得選手権のようにしたのか:
この見出しは私が何年か前に指摘した「我が国においては綺麗事で『参加することに意義がある』はずだったオリンピックを、何処の誰がこのように変形させたのか」という事を指しているのだ。テレビに登場される数少ないオリンピック関連の事柄の専門家だと思っている、東京招致に貢献された鈴木氏は「オリンピック憲章には各国が獲得したメダルの数を競い合ってはならないとある」と指摘しておられた。
だが、現実には山下泰裕JOC会長は平然として「延期なろうとも金メダル30個獲得の目標は変えない」と言っている始末だった。オリンピック憲章を知らない不勉強さがあったのだから、こんな事を言うのか。さもなければ、自らが金メダルを獲得された経験から、メダル獲得至上主義にでも拘っておられるらそう言うのか。私は余り褒められない会長としての見識かと思って聞いた。
私は決してオリンピック批判論者でも何でもなく、時差が邪魔しない限り毎回これと思った種目はテレビ観戦してきた。それほど「冷静な評論家」として十分に楽しませてくれるし、感動もするし、世界で名を為した選手(何で猫も杓子も「アスリート」などと言うのか)たちの力と技術と敢闘精神に感心してきた。そういうことの意義は大いに認めてきたが、私は我が国では官民を挙げて(民にはマスコミを含めるが)オリンピックを何か「犯すベからざる神聖な行事」に祭り上げすぎているし、それに飽き足らず「メダル獲得選手権」に変形してしまったのは疑問だと思っている。
この度はIOCが安倍総理とトランプ大統領の共同作業に圧されて「延期」を決めたが、その為にかどうか知らないが「聖火リレー」を保留にしたのも興味ある現象だと思って見ている。私が言いたいことは「オリンピックを神聖視する余りに、英語では“Olympic flame”に過ぎない炎を聖なる炎に格上げしてしまったこと」が代表するように、単なる世界的規模の大スポーツの祭典を神事の如くにして礼賛しているかのように思えてならないのだ」という点である。それが悪いのどうのと言いたいのではなく「参加することに意義がある」という根本理念は何処に行ったかということ。
もう何年前のことだったかの記憶もないが、ロスアンジェルスでオリンピックが開催された際に、大規模に商業化された辺りから世界的な規模の大運動会のような存在ではなくなって、開催の為にかかる経費を稼ぎ出そうとの方向に舵が切られたのかと思って見てきた。換言すれば「神聖なるアマチュアの大会ではなく、プロ選手の参加も認められるプロ・アマ大会に変質した」とでも言えば良いのだろう。
我が国は1964年の東京大会を恙無く進行させるという立派な実績を残して、世界のスポーツ先進国の仲間入りの第一歩を踏み出したようだった。だが、私はその時辺りから妙な(と敢えて言うが)オリンピック信仰とIOCを仰ぎ見て絶大な権威を持つ敬うべき存在のように看做してきたのはおかしいと思っている。それは、既に後難を恐れつつ指摘したことで「知らず知らずの間にヨーロッパとアメリカ大陸を中心とする白人同盟の輪の中に、委細構わずに踏み込んでいったのだった」とでも形容したい思い切った所業だったのだ。
私は子供の頃からGHQにも出入りすることが出来たし、無意識にアメリカ人(西洋人でも良いかも知れない)の世界に入っていったし、1972年から22年半もの長い間、たった1人の日本人としてアメリカ人の中で「彼等の為に、彼等の思想信条、哲学、文化の中で彼らの一員として働いてきたので、彼等と我々の生き方と働き方がどれほど、どのように違うかをイヤという程経験してきた。ということは、私は言わばOJTで彼我の違いを知ったので、彼らに合わせることも出来たが、そうとは知らずに彼らの歴史と伝統がある誇りと自負心の中に入っていったので、今日までのような信仰と神聖視が生じたのではないかと疑っている。
私が言いたいことは「彼等とはそういう我々を見下すことが間々あるような連中なのだ」ということ。その点がこれでもかと表れたのがコーツ委員長なる者がマラソンを札幌に移すと通告に来た際の傲慢な聞く耳持たぬとの無礼な態度だった。私はオリンピック憲章があろうとなかろうと「お前は何様のつもりか」と言ってやりたい思いだった。私はバッハ会長のあの優柔不断振りと危機対応が全く出来ない有様を見るに付けても「何故、組織委員会もJOCも彼にもの申すとか、助言なり積極的な提案が出来ないのと寧ろ奇異に感じていた。
彼は結局は総理の提案に従う知恵しか無かったではないか。私は彼らの中で永年過ごした経験から言えるので「彼等の中の副社長兼事業部長のような権威者はほぼ絶対的と言って良いほどの権力と権威を持っている。だが、そういう存在だからと言って年がら年中無条件で服従している必要もなく、これと思う時には恐れることなく(職を賭しても)提案でも助言でも試みるべきだと思うのだ。まともな上司ならば、必ず聞く耳は持っているのだ。但し、時期は選ぶべきだが、その意味では安倍総理の時期の選び方は素晴らしかったと思う。
私は今回の一連のバッハ会長の何も決められない動きを見ていれば、最早仰ぎ見るべき存在でもなければ、IOC信仰は必要ないような気がしてならないのだ。ここから先に解決すべき難問が山積しているが、バッハ会長とその側近に裁ききれる能力ありやという視点で接していくべきだと思う。再びあのコーツ委員長のような尊大な態度を許すべきではないのだと思う。
この見出しは私が何年か前に指摘した「我が国においては綺麗事で『参加することに意義がある』はずだったオリンピックを、何処の誰がこのように変形させたのか」という事を指しているのだ。テレビに登場される数少ないオリンピック関連の事柄の専門家だと思っている、東京招致に貢献された鈴木氏は「オリンピック憲章には各国が獲得したメダルの数を競い合ってはならないとある」と指摘しておられた。
だが、現実には山下泰裕JOC会長は平然として「延期なろうとも金メダル30個獲得の目標は変えない」と言っている始末だった。オリンピック憲章を知らない不勉強さがあったのだから、こんな事を言うのか。さもなければ、自らが金メダルを獲得された経験から、メダル獲得至上主義にでも拘っておられるらそう言うのか。私は余り褒められない会長としての見識かと思って聞いた。
私は決してオリンピック批判論者でも何でもなく、時差が邪魔しない限り毎回これと思った種目はテレビ観戦してきた。それほど「冷静な評論家」として十分に楽しませてくれるし、感動もするし、世界で名を為した選手(何で猫も杓子も「アスリート」などと言うのか)たちの力と技術と敢闘精神に感心してきた。そういうことの意義は大いに認めてきたが、私は我が国では官民を挙げて(民にはマスコミを含めるが)オリンピックを何か「犯すベからざる神聖な行事」に祭り上げすぎているし、それに飽き足らず「メダル獲得選手権」に変形してしまったのは疑問だと思っている。
この度はIOCが安倍総理とトランプ大統領の共同作業に圧されて「延期」を決めたが、その為にかどうか知らないが「聖火リレー」を保留にしたのも興味ある現象だと思って見ている。私が言いたいことは「オリンピックを神聖視する余りに、英語では“Olympic flame”に過ぎない炎を聖なる炎に格上げしてしまったこと」が代表するように、単なる世界的規模の大スポーツの祭典を神事の如くにして礼賛しているかのように思えてならないのだ」という点である。それが悪いのどうのと言いたいのではなく「参加することに意義がある」という根本理念は何処に行ったかということ。
もう何年前のことだったかの記憶もないが、ロスアンジェルスでオリンピックが開催された際に、大規模に商業化された辺りから世界的な規模の大運動会のような存在ではなくなって、開催の為にかかる経費を稼ぎ出そうとの方向に舵が切られたのかと思って見てきた。換言すれば「神聖なるアマチュアの大会ではなく、プロ選手の参加も認められるプロ・アマ大会に変質した」とでも言えば良いのだろう。
我が国は1964年の東京大会を恙無く進行させるという立派な実績を残して、世界のスポーツ先進国の仲間入りの第一歩を踏み出したようだった。だが、私はその時辺りから妙な(と敢えて言うが)オリンピック信仰とIOCを仰ぎ見て絶大な権威を持つ敬うべき存在のように看做してきたのはおかしいと思っている。それは、既に後難を恐れつつ指摘したことで「知らず知らずの間にヨーロッパとアメリカ大陸を中心とする白人同盟の輪の中に、委細構わずに踏み込んでいったのだった」とでも形容したい思い切った所業だったのだ。
私は子供の頃からGHQにも出入りすることが出来たし、無意識にアメリカ人(西洋人でも良いかも知れない)の世界に入っていったし、1972年から22年半もの長い間、たった1人の日本人としてアメリカ人の中で「彼等の為に、彼等の思想信条、哲学、文化の中で彼らの一員として働いてきたので、彼等と我々の生き方と働き方がどれほど、どのように違うかをイヤという程経験してきた。ということは、私は言わばOJTで彼我の違いを知ったので、彼らに合わせることも出来たが、そうとは知らずに彼らの歴史と伝統がある誇りと自負心の中に入っていったので、今日までのような信仰と神聖視が生じたのではないかと疑っている。
私が言いたいことは「彼等とはそういう我々を見下すことが間々あるような連中なのだ」ということ。その点がこれでもかと表れたのがコーツ委員長なる者がマラソンを札幌に移すと通告に来た際の傲慢な聞く耳持たぬとの無礼な態度だった。私はオリンピック憲章があろうとなかろうと「お前は何様のつもりか」と言ってやりたい思いだった。私はバッハ会長のあの優柔不断振りと危機対応が全く出来ない有様を見るに付けても「何故、組織委員会もJOCも彼にもの申すとか、助言なり積極的な提案が出来ないのと寧ろ奇異に感じていた。
彼は結局は総理の提案に従う知恵しか無かったではないか。私は彼らの中で永年過ごした経験から言えるので「彼等の中の副社長兼事業部長のような権威者はほぼ絶対的と言って良いほどの権力と権威を持っている。だが、そういう存在だからと言って年がら年中無条件で服従している必要もなく、これと思う時には恐れることなく(職を賭しても)提案でも助言でも試みるべきだと思うのだ。まともな上司ならば、必ず聞く耳は持っているのだ。但し、時期は選ぶべきだが、その意味では安倍総理の時期の選び方は素晴らしかったと思う。
私は今回の一連のバッハ会長の何も決められない動きを見ていれば、最早仰ぎ見るべき存在でもなければ、IOC信仰は必要ないような気がしてならないのだ。ここから先に解決すべき難問が山積しているが、バッハ会長とその側近に裁ききれる能力ありやという視点で接していくべきだと思う。再びあのコーツ委員長のような尊大な態度を許すべきではないのだと思う。