読書。
『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル 稲富栄次郎・上田武 訳
を読んだ。
1956年に発行されたのが初版で、
僕が読んだのは1981年に改版されたものです。
大正期の終わりから昭和の初めまで日本に滞在し、
約6年間、弓道を学び、そこから禅の境地に繋がる精神を見出したことを
哲学者である著者が順序立てて論じていく本です。
あの、スティーブ・ジョブズの愛読書でもあったそうです。
現代の僕らが、スポーツとして考える弓っていうものは、
やったことのない人であれば、たぶん、
力いっぱいに弓を引いて狙いすまして矢を放ち、
うまく的に当てることだけを考えるようなものと
イメージしがちだと思います。
しかし、古くからの日本の精神に基づいた――心の科学とも言われる
仏教の教えが根底にありますが――この弓道というものには、
そういった現代のロジカルなやり方とは正反対のやり方が正道とされている。
師範も、著者が哲学をしていることをしって、
そんな人は弓を極められるわけがないと、
一度は教えるのを辞めようかとしたくらいだそうで、
それくらい、頭を使ってどうこうしようというのは否定されるんです。
じゃ、どうするんだよ、なんて馬鹿にするように言う人も
なかにはいそうですが、きっと、この『弓と禅』を精読すると、
そうともいえないことがわかるでしょう。
無心・無我っていうのが最終目標。
それに照らして、今でいえば、自分探しだとかやっているのは、
道を誤っているということになります。
自分を無くして、文中では「それ」と言われていますが、
「それ」に弓を引かせて矢を放たせて的にあたらせるんです。
また、呼吸法も大事で、これは精神集中でそうだし、
無駄に筋力を使わないためのもの、
筋肉が弱くても弓を引くことができるようにするためのものでした。
自分を自由にするというのは、
自分を見つけたり無理に個性を作り出そうとすることではなく、
自分を失くしてしくことだと言われる。
そして、それは禅の精神だということです。
このあたりは、本の著述で読んだ方が面白いし、
なによりもっとわかると思います。
言葉ではっきりわかったかのように書くと、
損なわれるような、感覚的なものがそこにはあります。
僕はこの間、従兄のうるささに負けて、
引退したはずのボウリングに8カ月ぶりに復帰したのですが、
たぶんに、ボウリングにもこの弓道のやりかたは
応用できるように思います。
さて、ここまで読んだ方で、
「なんだ、精神論の復権を説いているようで時代遅れだし害悪だ」
と思われた方もいらっしゃるかもしれない。
そこは、なんでも根性の精神論とは違うように僕は読みました。
精神を鍛えて強くすれば何にでも耐えられる、みたいなのが精神論だとすると、
弓道の精神はまず呼吸法という今でいえばもう科学の領域のものをまず学び、
それから、意志を捨てることの練習をするので、
精神を強くするといういわゆる「パワー型のマッチョな精神」とは
一線を画しています。
本書の言葉にはないですが、きっと素朴でリラックスしていてギラギラしてなくて
というような精神状態を、弓道や禅では追い求めます。
そういう感覚的な脳の使い方って、現代人ではあまりしないようになっているかもしれない。
著者のヘリゲルさんは、「日本人の頭脳はすごい」と驚いたといいます。
ヨーロッパの論理的思考偏重の生き方を超えたものがあったのに
驚いたのでしょう。そして、そういう古き日本の中に通底していたような感覚的な
頭の使い方は、欧米の考え方が勢いに乗って日本に入って来たこともあって、
そして、それらが主流になったこともあって失われてきているもののように感じます。
今一度、見直されてもいい考え方なんじゃないだろうか。
スティーブ・ジョブズみたいな一握りのエリートだけがまるでマニアックに
考える領域みたいになっていますが、みんながそういうのに気付いて、
自分の人生に取り入れると面白いと思いました。
僕は自分のボウリングのやりかたに取り入れてみようと考えています。
『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル 稲富栄次郎・上田武 訳
を読んだ。
1956年に発行されたのが初版で、
僕が読んだのは1981年に改版されたものです。
大正期の終わりから昭和の初めまで日本に滞在し、
約6年間、弓道を学び、そこから禅の境地に繋がる精神を見出したことを
哲学者である著者が順序立てて論じていく本です。
あの、スティーブ・ジョブズの愛読書でもあったそうです。
現代の僕らが、スポーツとして考える弓っていうものは、
やったことのない人であれば、たぶん、
力いっぱいに弓を引いて狙いすまして矢を放ち、
うまく的に当てることだけを考えるようなものと
イメージしがちだと思います。
しかし、古くからの日本の精神に基づいた――心の科学とも言われる
仏教の教えが根底にありますが――この弓道というものには、
そういった現代のロジカルなやり方とは正反対のやり方が正道とされている。
師範も、著者が哲学をしていることをしって、
そんな人は弓を極められるわけがないと、
一度は教えるのを辞めようかとしたくらいだそうで、
それくらい、頭を使ってどうこうしようというのは否定されるんです。
じゃ、どうするんだよ、なんて馬鹿にするように言う人も
なかにはいそうですが、きっと、この『弓と禅』を精読すると、
そうともいえないことがわかるでしょう。
無心・無我っていうのが最終目標。
それに照らして、今でいえば、自分探しだとかやっているのは、
道を誤っているということになります。
自分を無くして、文中では「それ」と言われていますが、
「それ」に弓を引かせて矢を放たせて的にあたらせるんです。
また、呼吸法も大事で、これは精神集中でそうだし、
無駄に筋力を使わないためのもの、
筋肉が弱くても弓を引くことができるようにするためのものでした。
自分を自由にするというのは、
自分を見つけたり無理に個性を作り出そうとすることではなく、
自分を失くしてしくことだと言われる。
そして、それは禅の精神だということです。
このあたりは、本の著述で読んだ方が面白いし、
なによりもっとわかると思います。
言葉ではっきりわかったかのように書くと、
損なわれるような、感覚的なものがそこにはあります。
僕はこの間、従兄のうるささに負けて、
引退したはずのボウリングに8カ月ぶりに復帰したのですが、
たぶんに、ボウリングにもこの弓道のやりかたは
応用できるように思います。
さて、ここまで読んだ方で、
「なんだ、精神論の復権を説いているようで時代遅れだし害悪だ」
と思われた方もいらっしゃるかもしれない。
そこは、なんでも根性の精神論とは違うように僕は読みました。
精神を鍛えて強くすれば何にでも耐えられる、みたいなのが精神論だとすると、
弓道の精神はまず呼吸法という今でいえばもう科学の領域のものをまず学び、
それから、意志を捨てることの練習をするので、
精神を強くするといういわゆる「パワー型のマッチョな精神」とは
一線を画しています。
本書の言葉にはないですが、きっと素朴でリラックスしていてギラギラしてなくて
というような精神状態を、弓道や禅では追い求めます。
そういう感覚的な脳の使い方って、現代人ではあまりしないようになっているかもしれない。
著者のヘリゲルさんは、「日本人の頭脳はすごい」と驚いたといいます。
ヨーロッパの論理的思考偏重の生き方を超えたものがあったのに
驚いたのでしょう。そして、そういう古き日本の中に通底していたような感覚的な
頭の使い方は、欧米の考え方が勢いに乗って日本に入って来たこともあって、
そして、それらが主流になったこともあって失われてきているもののように感じます。
今一度、見直されてもいい考え方なんじゃないだろうか。
スティーブ・ジョブズみたいな一握りのエリートだけがまるでマニアックに
考える領域みたいになっていますが、みんながそういうのに気付いて、
自分の人生に取り入れると面白いと思いました。
僕は自分のボウリングのやりかたに取り入れてみようと考えています。