読書。
『鬱に離婚に休職が…ぼくはそれでも生きるべきなんだ』 玉村勇喜
を読んだ。
鬱になるにはいろいろな原因があると思う。
支配的な親や上司の存在、
うまくいかない友人や同僚と会わなければいけないこと、
傷つけられたり、陰口に気付いたり。
会社に行きたくないな、学校を休みたい・・・
そういう経験は誰にでもあるでしょう。
とにかく、社会の営みからはずれて生きることはとても難しいことで、
ほとんどの人間はそれぞれがそれぞれに
もたれあいながら共生する存在であって、
ゆえに、相互にストレスを与えあいながら生活している。
なかには、ストレスを与える方が多い人もいるし、
ストレスを受ける方が多い人もいる。
ストレスに強い人もいれば、
うまくストレスを吐き出す方法を知っている人もいる。
そして、その逆の人も多くいる。
コミュニケーションが欠かせない人類にとっては、
一部の人が鬱という状態、病になるのは避けられないことは
感覚的にも、以上のことから多くの人がわかるところでしょう。
本書の著者は、鬱の状態から鬱病になってしまった方で、
本書ではその体験を自伝形式で述べています。
序盤の数ページでは、つらくても会社に生き続けるしか道はないのだ、
というような、当時の、若さゆえなのでしょうが、
人生というものに対しての狭い見方に縛られた文章が目に入りました。
たしかに、せっかくつかんだ就職内定であり、
そこにしがみつこうとする気持ちはわかるのですが、
だからこそ、頑張りすぎたり余裕がなくなったときに、
自らのこころを痛めてしまうのだと思います。
きっとそこには、他人か自分を攻撃しなければ、
もやもやしたものから解放されない、
という切迫感めいたものもあるんじゃないだろうか。
そして、他人を傷つけたとしてもあとで自分が傷つくだけですし、
自らを責めても心が苦しくなるだけ、
というマイナス方向へのベクトルを生むのではないでしょうか。
人には、ある視点からみての、強い・弱いがあります。
優れている・劣っている、もあります。
でも、それって、あくまで一つの視点からの見方です、
それは今の時代にとって強固な価値観による見方であったとしても。
次の時代にとって、今の時代の「強い」が
けして「強い」とは限らないともいえますし、
同様に、「弱い」が強いとみなされる価値観に反転しないとも限らない。
そういう理由で、多様性って重んじられるわけです。
そして、多様性という観点で見れば、強くとも弱くても等価値なんです。
しかし、鬱状態や鬱病の人にとってはそういったロジックも、
頭ではわかるのだけれども、こころには届かない、
といったこともあるように読めました。
本書では、僕なんかが読んでも「まあ、まだ軽い状態なんじゃないかな」
と思えるような鬱状態から始まり、そのうちどんどんと重症化していく様を
読みこむことになっていくのですが、
そのつらさの描写・告白を知るにあたって、
読者はつらさをやわらげてあげられないこと、方法がわからないことを実感しつつ、
でも、話を聞いてあげることならできるし、
寄り添うような気持ちになることもできることを知るでしょう。
また、著者と同じ苦しみを持つ方にとっては、
そこには共感と、苦しみを分かち合えたような気持ちを、
ともに得ることになるのではないだろうか。
自分ひとりだけの苦しみじゃないことを知ることは、
その人の苦しみを和らげる効果があると思います。
それらのような意味で、
本書は、著者の鬱病体験記でありながらも、
著者と読者の間でこころのやりとりをしてお互いが弱く繋がる本である、
と位置づけることができます。
村上春樹さんが小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で述べた、
人と人との繋がりは、傷や痛みなどによってこそのもので、
そういうのこそ真の調和なんじゃないかっていうところをピックアップすれば、
本書は、ちょっと大げさかもしれないですが、
人々の調和に貢献するたぐいの本とも言えるのです。
最後に。
この本は著者の玉村さんから献本頂いたものでした、感謝いたします。
また、僕の感想にちょっと硬い感じを抱く方もいるかもしれないですが、
本書は非常に読みやすい文章で書かれていますので、邪推いたしませぬよう。
『鬱に離婚に休職が…ぼくはそれでも生きるべきなんだ』 玉村勇喜
を読んだ。
鬱になるにはいろいろな原因があると思う。
支配的な親や上司の存在、
うまくいかない友人や同僚と会わなければいけないこと、
傷つけられたり、陰口に気付いたり。
会社に行きたくないな、学校を休みたい・・・
そういう経験は誰にでもあるでしょう。
とにかく、社会の営みからはずれて生きることはとても難しいことで、
ほとんどの人間はそれぞれがそれぞれに
もたれあいながら共生する存在であって、
ゆえに、相互にストレスを与えあいながら生活している。
なかには、ストレスを与える方が多い人もいるし、
ストレスを受ける方が多い人もいる。
ストレスに強い人もいれば、
うまくストレスを吐き出す方法を知っている人もいる。
そして、その逆の人も多くいる。
コミュニケーションが欠かせない人類にとっては、
一部の人が鬱という状態、病になるのは避けられないことは
感覚的にも、以上のことから多くの人がわかるところでしょう。
本書の著者は、鬱の状態から鬱病になってしまった方で、
本書ではその体験を自伝形式で述べています。
序盤の数ページでは、つらくても会社に生き続けるしか道はないのだ、
というような、当時の、若さゆえなのでしょうが、
人生というものに対しての狭い見方に縛られた文章が目に入りました。
たしかに、せっかくつかんだ就職内定であり、
そこにしがみつこうとする気持ちはわかるのですが、
だからこそ、頑張りすぎたり余裕がなくなったときに、
自らのこころを痛めてしまうのだと思います。
きっとそこには、他人か自分を攻撃しなければ、
もやもやしたものから解放されない、
という切迫感めいたものもあるんじゃないだろうか。
そして、他人を傷つけたとしてもあとで自分が傷つくだけですし、
自らを責めても心が苦しくなるだけ、
というマイナス方向へのベクトルを生むのではないでしょうか。
人には、ある視点からみての、強い・弱いがあります。
優れている・劣っている、もあります。
でも、それって、あくまで一つの視点からの見方です、
それは今の時代にとって強固な価値観による見方であったとしても。
次の時代にとって、今の時代の「強い」が
けして「強い」とは限らないともいえますし、
同様に、「弱い」が強いとみなされる価値観に反転しないとも限らない。
そういう理由で、多様性って重んじられるわけです。
そして、多様性という観点で見れば、強くとも弱くても等価値なんです。
しかし、鬱状態や鬱病の人にとってはそういったロジックも、
頭ではわかるのだけれども、こころには届かない、
といったこともあるように読めました。
本書では、僕なんかが読んでも「まあ、まだ軽い状態なんじゃないかな」
と思えるような鬱状態から始まり、そのうちどんどんと重症化していく様を
読みこむことになっていくのですが、
そのつらさの描写・告白を知るにあたって、
読者はつらさをやわらげてあげられないこと、方法がわからないことを実感しつつ、
でも、話を聞いてあげることならできるし、
寄り添うような気持ちになることもできることを知るでしょう。
また、著者と同じ苦しみを持つ方にとっては、
そこには共感と、苦しみを分かち合えたような気持ちを、
ともに得ることになるのではないだろうか。
自分ひとりだけの苦しみじゃないことを知ることは、
その人の苦しみを和らげる効果があると思います。
それらのような意味で、
本書は、著者の鬱病体験記でありながらも、
著者と読者の間でこころのやりとりをしてお互いが弱く繋がる本である、
と位置づけることができます。
村上春樹さんが小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で述べた、
人と人との繋がりは、傷や痛みなどによってこそのもので、
そういうのこそ真の調和なんじゃないかっていうところをピックアップすれば、
本書は、ちょっと大げさかもしれないですが、
人々の調和に貢献するたぐいの本とも言えるのです。
最後に。
この本は著者の玉村さんから献本頂いたものでした、感謝いたします。
また、僕の感想にちょっと硬い感じを抱く方もいるかもしれないですが、
本書は非常に読みやすい文章で書かれていますので、邪推いたしませぬよう。