昨日本屋で、
とあるそういうコーナーにてフリーメイソンがどうたらこうたら、
抑えた声音ながらも熱く議論する若者たちがいた。
オカルトめいた、秘密結社だの陰謀論だの、
そんなのがぐっとくる時期って、ある人にはあるよね。
あれはあれで真剣なのが、
ひとつの病のようでもあって、ほほえましくもあって。
フリーメイソンに陰謀をくっつけて語る本の中で、
たとえば1ドル札の図柄に秘められた暗号なんかが取りざたされていたら、
推測とか邪推に過ぎないであろう陰謀についてまで
本当だと思いこんでしまいそうだ。
推論と事実と空想みたいなものを並列に継ぎ目なく論じるのは、
物語なら面白いがエッセイとか論説ものなら
ちょっとずるいというかフェアじゃないというか。
子どもの頃読んだ本に、そういうのもたまにあったかもしれない。
雑誌『ムー』なんかはそんな気配もするけど、確かめる気がしない…。
陰謀論に義憤を覚えながらいろいろ調べる人っていうのは、
根っこのところは自由と平和を愛しているってことなんだろうな。
支配だとか、世界の終末を目指していく主義だとかに
「なにをぉ!」って喰ってかかりたくなるのってわかります。
でも、そんな自由と平和についてだって、
主義主張の違いがあったりもするし、
実はどういう立場でいるかが難しいものだったりする。
自由と平和を掲げていれば、そこに安住できるというわけじゃない。
安住できる思想ってあるのかいな、と思ったりもする。
話は逸れたけれど、
結局、フリーメイソンって組織は、
テロ組織じみたものじゃないってことでしょ。
荒俣宏さんを信頼して彼の著書を読んだことがありますが、
裏世界の地下国家みたいなものじゃなかったですよ。
階級の昇進がどうのこうの、秘密がどうの、
儀式がどうのってのはあるみたいだけど、
結局その根本は遊びの要素もあるだろうし、
排他的なインテリだけの世界にするための障壁でもあるだろうし、
狂信的な何かがあるようには思えなかったです。
イルミナティはしらんけど(とかいうと想像が膨らむのかな)。
とあるそういうコーナーにてフリーメイソンがどうたらこうたら、
抑えた声音ながらも熱く議論する若者たちがいた。
オカルトめいた、秘密結社だの陰謀論だの、
そんなのがぐっとくる時期って、ある人にはあるよね。
あれはあれで真剣なのが、
ひとつの病のようでもあって、ほほえましくもあって。
フリーメイソンに陰謀をくっつけて語る本の中で、
たとえば1ドル札の図柄に秘められた暗号なんかが取りざたされていたら、
推測とか邪推に過ぎないであろう陰謀についてまで
本当だと思いこんでしまいそうだ。
推論と事実と空想みたいなものを並列に継ぎ目なく論じるのは、
物語なら面白いがエッセイとか論説ものなら
ちょっとずるいというかフェアじゃないというか。
子どもの頃読んだ本に、そういうのもたまにあったかもしれない。
雑誌『ムー』なんかはそんな気配もするけど、確かめる気がしない…。
陰謀論に義憤を覚えながらいろいろ調べる人っていうのは、
根っこのところは自由と平和を愛しているってことなんだろうな。
支配だとか、世界の終末を目指していく主義だとかに
「なにをぉ!」って喰ってかかりたくなるのってわかります。
でも、そんな自由と平和についてだって、
主義主張の違いがあったりもするし、
実はどういう立場でいるかが難しいものだったりする。
自由と平和を掲げていれば、そこに安住できるというわけじゃない。
安住できる思想ってあるのかいな、と思ったりもする。
話は逸れたけれど、
結局、フリーメイソンって組織は、
テロ組織じみたものじゃないってことでしょ。
荒俣宏さんを信頼して彼の著書を読んだことがありますが、
裏世界の地下国家みたいなものじゃなかったですよ。
階級の昇進がどうのこうの、秘密がどうの、
儀式がどうのってのはあるみたいだけど、
結局その根本は遊びの要素もあるだろうし、
排他的なインテリだけの世界にするための障壁でもあるだろうし、
狂信的な何かがあるようには思えなかったです。
イルミナティはしらんけど(とかいうと想像が膨らむのかな)。