読書。
『だまされない<議論力>』 吉岡友治
を読んだ。
議論といっても、
いわゆるディベートのように、
話し合いでの言葉の使い方のテクニックを紹介というよりか、
しゃべりの基本となるであろう、
文章をやりとりする議論についてのもの、
といった性格のほうが強い、議論の指南書です。
新聞記事や、著名な作家や著述家の文章、
大学入試の小論文問題などから例を使い、
いろいろとそれらを解析して、
欠陥や不手際のあるところをつついていく。
そうして、議論と言うものの構造として、
それにかなう論理としてはこうだよ、と
教えてくれるようになっています。
いかに僕らが日常に使ったり目にしたりしている日本語の構造が
ふわふわしたものかというのが実感される。
それどころか、はぐらかしだとか、逃げだとか、
そういったテクニックに、半ば騙されるようなかたちで、
そういった文章をふつうに受け止めていたりすることにも気付かされます。
面白かったのは、
以前物議をかもしたという(僕はよくしらないけれど)
「どうして人を殺してはいけないのか?」
という若者の問いについての議論の論考のところでした。
大江健三郎氏の主張したものや、それへの批判や、
その批判への批判までをも取り扱って、
最後に著者の論考が述べられるのですが、
そこでの「他我をわかること」
といったような考え方は、わかりやすかったし、
僕がわりにいつも考えている共同体感覚と似た考え方だなと思いました。
僕は、この本のその後の弁証法のところの例で、
「お金よりも命が大事、命よりも理性が大事」と出てきたのにヒントを得て、
人を殺してはいけないのは、
「自分や他人の理性を信じて、その理性を大事にしないといけないから」
とでも言いたくなりました。
それにバイオフィリアだとかあるでしょう、
人に備わった、生きものを愛でる性質だとかって。
まあ、食べ物のためとして豚とか牛とかニワトリだとかを殺しますが、
それでも、バイオフィリア的な心の持ちように似た、
人間同士の命を大事に思う感覚って、
ニュートラルな人間の状態としてもっているのではないかな。
著者が言う、「他我をわかる」というのにも、
やっぱり結びつきますかね。
ざっくばらんに、解き明かす議論の論理構造。
おもしろい授業を受けているようでもありました。
『だまされない<議論力>』 吉岡友治
を読んだ。
議論といっても、
いわゆるディベートのように、
話し合いでの言葉の使い方のテクニックを紹介というよりか、
しゃべりの基本となるであろう、
文章をやりとりする議論についてのもの、
といった性格のほうが強い、議論の指南書です。
新聞記事や、著名な作家や著述家の文章、
大学入試の小論文問題などから例を使い、
いろいろとそれらを解析して、
欠陥や不手際のあるところをつついていく。
そうして、議論と言うものの構造として、
それにかなう論理としてはこうだよ、と
教えてくれるようになっています。
いかに僕らが日常に使ったり目にしたりしている日本語の構造が
ふわふわしたものかというのが実感される。
それどころか、はぐらかしだとか、逃げだとか、
そういったテクニックに、半ば騙されるようなかたちで、
そういった文章をふつうに受け止めていたりすることにも気付かされます。
面白かったのは、
以前物議をかもしたという(僕はよくしらないけれど)
「どうして人を殺してはいけないのか?」
という若者の問いについての議論の論考のところでした。
大江健三郎氏の主張したものや、それへの批判や、
その批判への批判までをも取り扱って、
最後に著者の論考が述べられるのですが、
そこでの「他我をわかること」
といったような考え方は、わかりやすかったし、
僕がわりにいつも考えている共同体感覚と似た考え方だなと思いました。
僕は、この本のその後の弁証法のところの例で、
「お金よりも命が大事、命よりも理性が大事」と出てきたのにヒントを得て、
人を殺してはいけないのは、
「自分や他人の理性を信じて、その理性を大事にしないといけないから」
とでも言いたくなりました。
それにバイオフィリアだとかあるでしょう、
人に備わった、生きものを愛でる性質だとかって。
まあ、食べ物のためとして豚とか牛とかニワトリだとかを殺しますが、
それでも、バイオフィリア的な心の持ちように似た、
人間同士の命を大事に思う感覚って、
ニュートラルな人間の状態としてもっているのではないかな。
著者が言う、「他我をわかる」というのにも、
やっぱり結びつきますかね。
ざっくばらんに、解き明かす議論の論理構造。
おもしろい授業を受けているようでもありました。