読書。
『大地のゲーム』 綿矢りさ
を読んだ。
近未来の日本。未曾有の大地震が起こり、大きな被害を受けたのち、さらにまた同規模かそれ以上の大地震が一年以内に起こると警告されている時代。大地震以来、被災地の大学内で暮らす学生たちのひとりである女性の主人公と、その混乱に乗じて頭角を現してきたリーダーと呼ばれる男性の学生。リーダーは彼独自の思想をもって学生らを魅了していく。主人公もいつしか、その一派に属するようになっている。
90%の確率で訪れるとされる二度目の大地震に怯えながら暮らす学生たちは、まず一度目の地震と、それに派生したある事件などによって、大きなカルチャーショックを受け、生き方が危ういほうへと変容している。それでも行われる学祭に向け、リーダーは渾身の演説を段取りながら、自らの台頭を目論んでいる。破局へ向けた残酷な猶予期間に蝕まれながら、主人公を含め、半壊したような生活と精神性をなんとか保ちつつ、それぞれがそれぞれの極限の生のなかにいる様子を読むような小説でした。
以下、ネタバレがあります。ご注意を。
学生たちは早い話、制御がきかなくなってきているのです。大学生という年代の人たちは、子どもでもないし、大人としてもまだまだ経験が足りないのだけれど、頭は回るわけです。浅薄だったり、考える範囲が狭かったりしながらも、それでも固定観念や先入観がないぶん、大人たち以上にすぐれた新しい考え方や発見が出来たりもしますし、高い「安定性」よりもアンバランスな「突破力」を持っていると考えたほうがしっくりきたりします。
そんな年代の彼らに襲いかかった大地震。その災厄によって、かれらは身体や環境、生活などとともに、心までも根本から揺さぶられている。幼さだってまだまだ色濃く残る彼らに、その衝撃が背中を押すことで、自暴自棄のような行動と衝動を発現させている。そこには、先ほども書いたように、自分たちの頭が回ることからくる過信も大きくあるでしょう。そんな賢い自分たちが考えても答えが出ない状況への絶望。それは人生の経験値が低いからこその早計な絶望でもあるのですが、そこはまあ若者に「ダメ」と叱るのは酷というものかもしれない。また、その自暴自棄の出口はなにか、と考えると、変化や変革なのかなという気がします。スマートに、理性的に変化や変革を創っていくということが、傑物でもなければ若者にはうまくできないのかもしれない。そこを、リーダーは成そうとしているようなところがあります。
リーダーの説く持論は、自助と共助ですが、まあ僕もそこは頷ける部類の話でした。それ以上に、ミステリアスで蠱惑的なのに可憐な感じのあるキャラクター・マリがその少ないセリフの中で発した言葉のほうに、共感するところがありました。
_______
「受け止めがたい辛いことは、生きているうちに何度か起こるよ。でも起っちゃったあと、どれだけ元の自分を保てるかで、初めてその人間の本当の資質が見えてくるんじゃないの。なにも起こらなかったときは良い人なんて情報は、なんの役にも立たないよ」(p107)
「強くなんかない。でも予想外の不幸を、免罪符のように振り回す人間には、ちゃんと自分の考えを言いたくなる」(p108)
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そんなマリは、リーダーとくっつくのですが、主人公の世界からは彼らの世界にはほんのちょっとしか入ることはできない。この小説の文学的深みを握るのは、見方によってはリーダーとマリにあるというように考えられるのですが、そこは住まう世界が違う主人公のほうに、この物語の軸はあるのでした。ただ、それでこそ、よりマスに近い物語になったのだと思います。
小説を読みながら、その技術的な部分というか、緩急や抑揚みたいなところを気にしていました。激しさのあるシーケンスを多用する試みがなされているなあ、なんて思いました。表現の幅を広げるための想像力の使い方だと僕は考えますが、僕自身もそういうところを試したいと考えているところなので、なるほどなあ、とある部分ではちょっと冷静な自分としてこの小説を読みました。それでも、最終章のカタストロフィーの部分は引き込まれてしまって、分析だとかよりも物語自体の味わいのほうに気を取られてしまいました。ただまあ、それはそれで、真っ当な「物語の享受」なのだと思います。
震災の記憶が生々しい方にはつらいかもしれませんが、そうじゃなければ、読むことで読者が自分なりに物語から引き出すことができるなにかが宿っている小説だといえる作品でした。
久しぶりの綿矢りささんの作品でしたが、またそう遠くないうちに別の作品を手に取ろうという気になりました。
『大地のゲーム』 綿矢りさ
を読んだ。
近未来の日本。未曾有の大地震が起こり、大きな被害を受けたのち、さらにまた同規模かそれ以上の大地震が一年以内に起こると警告されている時代。大地震以来、被災地の大学内で暮らす学生たちのひとりである女性の主人公と、その混乱に乗じて頭角を現してきたリーダーと呼ばれる男性の学生。リーダーは彼独自の思想をもって学生らを魅了していく。主人公もいつしか、その一派に属するようになっている。
90%の確率で訪れるとされる二度目の大地震に怯えながら暮らす学生たちは、まず一度目の地震と、それに派生したある事件などによって、大きなカルチャーショックを受け、生き方が危ういほうへと変容している。それでも行われる学祭に向け、リーダーは渾身の演説を段取りながら、自らの台頭を目論んでいる。破局へ向けた残酷な猶予期間に蝕まれながら、主人公を含め、半壊したような生活と精神性をなんとか保ちつつ、それぞれがそれぞれの極限の生のなかにいる様子を読むような小説でした。
以下、ネタバレがあります。ご注意を。
学生たちは早い話、制御がきかなくなってきているのです。大学生という年代の人たちは、子どもでもないし、大人としてもまだまだ経験が足りないのだけれど、頭は回るわけです。浅薄だったり、考える範囲が狭かったりしながらも、それでも固定観念や先入観がないぶん、大人たち以上にすぐれた新しい考え方や発見が出来たりもしますし、高い「安定性」よりもアンバランスな「突破力」を持っていると考えたほうがしっくりきたりします。
そんな年代の彼らに襲いかかった大地震。その災厄によって、かれらは身体や環境、生活などとともに、心までも根本から揺さぶられている。幼さだってまだまだ色濃く残る彼らに、その衝撃が背中を押すことで、自暴自棄のような行動と衝動を発現させている。そこには、先ほども書いたように、自分たちの頭が回ることからくる過信も大きくあるでしょう。そんな賢い自分たちが考えても答えが出ない状況への絶望。それは人生の経験値が低いからこその早計な絶望でもあるのですが、そこはまあ若者に「ダメ」と叱るのは酷というものかもしれない。また、その自暴自棄の出口はなにか、と考えると、変化や変革なのかなという気がします。スマートに、理性的に変化や変革を創っていくということが、傑物でもなければ若者にはうまくできないのかもしれない。そこを、リーダーは成そうとしているようなところがあります。
リーダーの説く持論は、自助と共助ですが、まあ僕もそこは頷ける部類の話でした。それ以上に、ミステリアスで蠱惑的なのに可憐な感じのあるキャラクター・マリがその少ないセリフの中で発した言葉のほうに、共感するところがありました。
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「受け止めがたい辛いことは、生きているうちに何度か起こるよ。でも起っちゃったあと、どれだけ元の自分を保てるかで、初めてその人間の本当の資質が見えてくるんじゃないの。なにも起こらなかったときは良い人なんて情報は、なんの役にも立たないよ」(p107)
「強くなんかない。でも予想外の不幸を、免罪符のように振り回す人間には、ちゃんと自分の考えを言いたくなる」(p108)
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そんなマリは、リーダーとくっつくのですが、主人公の世界からは彼らの世界にはほんのちょっとしか入ることはできない。この小説の文学的深みを握るのは、見方によってはリーダーとマリにあるというように考えられるのですが、そこは住まう世界が違う主人公のほうに、この物語の軸はあるのでした。ただ、それでこそ、よりマスに近い物語になったのだと思います。
小説を読みながら、その技術的な部分というか、緩急や抑揚みたいなところを気にしていました。激しさのあるシーケンスを多用する試みがなされているなあ、なんて思いました。表現の幅を広げるための想像力の使い方だと僕は考えますが、僕自身もそういうところを試したいと考えているところなので、なるほどなあ、とある部分ではちょっと冷静な自分としてこの小説を読みました。それでも、最終章のカタストロフィーの部分は引き込まれてしまって、分析だとかよりも物語自体の味わいのほうに気を取られてしまいました。ただまあ、それはそれで、真っ当な「物語の享受」なのだと思います。
震災の記憶が生々しい方にはつらいかもしれませんが、そうじゃなければ、読むことで読者が自分なりに物語から引き出すことができるなにかが宿っている小説だといえる作品でした。
久しぶりの綿矢りささんの作品でしたが、またそう遠くないうちに別の作品を手に取ろうという気になりました。