世の中全体、つまり世間一般的な多くの人たちはさまざまな不安を抱えながら生きています。その不安が強迫観念を生んだり、なんでもない他者の言動に悪意を読み取るなどの認知の歪みを生んだりします。そして不安は、個人を苦しめるばかりか、世の風潮や空気までをも強迫観念的な状態へとつくりあげているように僕には見受けられるのです。
<不安ってどこから来るのだろう?>
不安はほとんど孤立感によってもたらされる、といいます。
______
人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。 (エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』p23-24)
______
ここにさらに別方向からも、どうして孤立感は不安を生むのか、と考えてみます。思いつくのは、孤立してもなお一人でやっていける自信を持つ人なんてまずいないから、というのはあるのではないかということです。だからフロムの言っていることと合わせて考えてみても、他者と繋がり、相互に依存しつつ生きていくというのが最適解になるのだろうという一つの答えが導き出されます。
<「脱孤立感」のために。>
他者と繋がるには人を信じる力が要ります。信じられない他者とは有益な意思疎通や情報交換を望むのはなかなか難しいです。人を信じてこそ、言葉も信じられます。人を信じるには、他者がどういう人かを知る洞察力が要ります。だけど、出合い頭の洞察力だけでは洞察の精度は低い。ですからさらに、他者を知るための情報探求力が要るのです、他者の情報を多く集めてから洞察するために。
くわえて、洞察の一般的な基準となるものさしを知るために、自分が知りたい特定の他者の情報だけではなくて、世間一般の他者全般について、常識的な範囲やスタンダードな感覚を知るための情報探求も要ります。
他者と繋がること、そのために他者を信じること、さらにそれ以前に他者を知るための洞察力と探求力が要るというわけなのです。
ということは、裏返しにしてみると、洞察不良な人が他者を信じられなくなるのが論理的にわかることになります。洞察不良は認知の歪みからくるといいます。そして認知の歪みは不安からくるといわれますし、その不安は孤立感からきます。
つよい孤立感を持ってしまってもなお土俵際でねばれるように、次の一手を打ち逆転してくためには、ちょっとでも自分に自信があったほうが良いのです。孤立感に陥っても、自身に対する健全な範囲での自信を持っていれば、少しの間、その孤立感に耐えられて、孤立感を打破してくためのアクションを起こせる体力のようなものが残されているものなのではないか。
<ひとりきりで「自信を持とう」として陥る罠。>
自信がない人が自分でする処方箋が、権威を信用すること。自分での判断に自信がないので、自分が尊敬できる人に聞いただとか、ニュース番組で見ただとか、新聞や本で読んだだとかいった情報を信用して、絶対的とでもいえるような地位にそれを置き、寄り掛かるのです。
これは不健全なやり方で、ますます自分を信じられなくなる傾向を強めると思われます。つまり観念的なんです。実際に目に見えている現実よりも、他者から与えられた観念のほうが正しいとするのですから。喩えるなら、ほかほかのご飯を目の前にしても、誰かが権威的に「これは蝋細工だ」といったなら、その人は、これは蝋細工でできているから食べられない、と本気で思いそう行動してしまうような感じでしょう、極端ではありますが。
<「健全な自信」のため、コフートの自己心理学を用いる。>
では、健全に自分に自信を持つようにする、それも無理なくするにはどうしたらよいか。それには幼少時の父母からの声かけが大きな意味を持ちます。となると、大人になったら無理なのか、とお思いになるでしょうけれども、大人になっても友人などの声かけで効果が望めます。これにはコフートの自己心理学の考え方が使えるのでした。(コフートの自己心理学はフロイト学派から枝分かれしたもので、米国では主流のひとつに数えられる精神分析の手法です)
「鏡」「理想化」「双子」というのがコフートの自己心理学における考え方の三つのカギです。
「鏡」は、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。
「理想化」は、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。
「双子」は、父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。
理論上、これらを用いることによって自己愛が支えられることにより、自分自身に自信が持てるようになっていく。そうなれば、不安というものも、不健全なまでの量や深さまで抱えることも、かなり少なくなるのではないでしょうか。
<「人生って良いなー」と思うために。>
そうなれば、個人の生きやすさは向上し、つれて世の中の風潮の健全さも増すのではないか、そう僕は考えるのでした。
仕組みといいますか、道筋といいますか、そういったものは以上のように説明できます。ただ、人間は多様でいろいろな方がいるものです。様々な精神的傾向があり、医者にかかっていなくとも病の領域に足を踏み入れている方も珍しくありません。
それでも、健全さが広まっていって、世に「人にやさしい機運」が高まれば、少しずつ、生きづらさが解消されていく人は増えると思うのです。
ほんとうにちょっとずつでも、幸福感やQOL、いえ、そういう言葉を使わなくても、「人生って良いなー」って思える総時間が増えていけばいい。そう切に願いながら、本稿を書かせていただきました。
他者の役割ってものは、ほんとうに大きいですね。
参考文献:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
亀井士郎 松永寿人『強迫症を治す』
和田秀樹 『自分が「自分」でいられる コフート心理学入門』
<不安ってどこから来るのだろう?>
不安はほとんど孤立感によってもたらされる、といいます。
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人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。 (エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』p23-24)
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ここにさらに別方向からも、どうして孤立感は不安を生むのか、と考えてみます。思いつくのは、孤立してもなお一人でやっていける自信を持つ人なんてまずいないから、というのはあるのではないかということです。だからフロムの言っていることと合わせて考えてみても、他者と繋がり、相互に依存しつつ生きていくというのが最適解になるのだろうという一つの答えが導き出されます。
<「脱孤立感」のために。>
他者と繋がるには人を信じる力が要ります。信じられない他者とは有益な意思疎通や情報交換を望むのはなかなか難しいです。人を信じてこそ、言葉も信じられます。人を信じるには、他者がどういう人かを知る洞察力が要ります。だけど、出合い頭の洞察力だけでは洞察の精度は低い。ですからさらに、他者を知るための情報探求力が要るのです、他者の情報を多く集めてから洞察するために。
くわえて、洞察の一般的な基準となるものさしを知るために、自分が知りたい特定の他者の情報だけではなくて、世間一般の他者全般について、常識的な範囲やスタンダードな感覚を知るための情報探求も要ります。
他者と繋がること、そのために他者を信じること、さらにそれ以前に他者を知るための洞察力と探求力が要るというわけなのです。
ということは、裏返しにしてみると、洞察不良な人が他者を信じられなくなるのが論理的にわかることになります。洞察不良は認知の歪みからくるといいます。そして認知の歪みは不安からくるといわれますし、その不安は孤立感からきます。
つよい孤立感を持ってしまってもなお土俵際でねばれるように、次の一手を打ち逆転してくためには、ちょっとでも自分に自信があったほうが良いのです。孤立感に陥っても、自身に対する健全な範囲での自信を持っていれば、少しの間、その孤立感に耐えられて、孤立感を打破してくためのアクションを起こせる体力のようなものが残されているものなのではないか。
<ひとりきりで「自信を持とう」として陥る罠。>
自信がない人が自分でする処方箋が、権威を信用すること。自分での判断に自信がないので、自分が尊敬できる人に聞いただとか、ニュース番組で見ただとか、新聞や本で読んだだとかいった情報を信用して、絶対的とでもいえるような地位にそれを置き、寄り掛かるのです。
これは不健全なやり方で、ますます自分を信じられなくなる傾向を強めると思われます。つまり観念的なんです。実際に目に見えている現実よりも、他者から与えられた観念のほうが正しいとするのですから。喩えるなら、ほかほかのご飯を目の前にしても、誰かが権威的に「これは蝋細工だ」といったなら、その人は、これは蝋細工でできているから食べられない、と本気で思いそう行動してしまうような感じでしょう、極端ではありますが。
<「健全な自信」のため、コフートの自己心理学を用いる。>
では、健全に自分に自信を持つようにする、それも無理なくするにはどうしたらよいか。それには幼少時の父母からの声かけが大きな意味を持ちます。となると、大人になったら無理なのか、とお思いになるでしょうけれども、大人になっても友人などの声かけで効果が望めます。これにはコフートの自己心理学の考え方が使えるのでした。(コフートの自己心理学はフロイト学派から枝分かれしたもので、米国では主流のひとつに数えられる精神分析の手法です)
「鏡」「理想化」「双子」というのがコフートの自己心理学における考え方の三つのカギです。
「鏡」は、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。
「理想化」は、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。
「双子」は、父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。
理論上、これらを用いることによって自己愛が支えられることにより、自分自身に自信が持てるようになっていく。そうなれば、不安というものも、不健全なまでの量や深さまで抱えることも、かなり少なくなるのではないでしょうか。
<「人生って良いなー」と思うために。>
そうなれば、個人の生きやすさは向上し、つれて世の中の風潮の健全さも増すのではないか、そう僕は考えるのでした。
仕組みといいますか、道筋といいますか、そういったものは以上のように説明できます。ただ、人間は多様でいろいろな方がいるものです。様々な精神的傾向があり、医者にかかっていなくとも病の領域に足を踏み入れている方も珍しくありません。
それでも、健全さが広まっていって、世に「人にやさしい機運」が高まれば、少しずつ、生きづらさが解消されていく人は増えると思うのです。
ほんとうにちょっとずつでも、幸福感やQOL、いえ、そういう言葉を使わなくても、「人生って良いなー」って思える総時間が増えていけばいい。そう切に願いながら、本稿を書かせていただきました。
他者の役割ってものは、ほんとうに大きいですね。
参考文献:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
亀井士郎 松永寿人『強迫症を治す』
和田秀樹 『自分が「自分」でいられる コフート心理学入門』