読書。
『コフート心理学入門』 和田秀樹
を読んだ。
フロイトが興した精神分析学。その系譜にありながら人生の後年、独自の発展をさせた心理学の手法を考え、そして残したコフートの心理学について解説する良書です。とてもわかりやすいうえに、中身がしっかりしていました。
コフート心理学は日本ではあまりなじみがありません。とくに心理学や精神医学の素人である僕にとっては聞いたことのない名前だったりしました。しかしながら、アメリカでは主流の精神分析学として現役の手法なのだそうです。反対に日本は、フロイトの手法に固執してしまっているところがあり、こういった発展した精神分析をあまり取り入れていない風です。
さて、一般に精神分析のカウンセリングは、神経症(不安症や強迫症など)には使えても精神病(統合失調症や躁うつ病など)には使えないとされています。さらに、それらの間に位置するようなパーソナリティー障害にもカウンセリングは適さないとされてきましたが、コフートの精神分析であれば、パーソナリティー障害にも使用できるのでした。
パーソナリティー障害には、境界性、演技性、自己愛性などがあり、本書ではとくに自己愛性をとりあげて解説されていました。では、自己愛性パーソナリティー障害の症状とはどのようなものか。それは次のような例だそうです。
ちょっと注意をしたり、間違いを指摘したりすると、それを悪意として読み取ってしまうらしく、すぐに怒り出してしまう。これは自己愛が傷つきやすいためだそう。このような反応といいますか、応答のようなものをしてしまうのが「自己愛性パーソナリティ障害」。僕の周りでも家族以外でこういう人がいますね。家族だとうちの親父もこの症状の範囲にあると思います。というか、注意や指摘などをしてくる相手によっては、僕もいら立ったりしますが、これも自己愛におそらく関係している。また、「自己愛性パーソナリティ障害」の人は、空気を気にするそうです。それでいて、自分の都合で周囲の人をないがしろにする。そういう人は、人間関係に苦労しますし、周囲も苦労したりするでしょう。つまり生きづらい。だからこそ、コフートの自己心理学によるカウンセリングや精神科などでの治療を試みたほうが楽になれると思います、決意はいるでしょうけれども。
自己心理学は「共感」「依存」が主要な要素としてあります。依存なんていうと、よくないイメージがあるものですが、健全に依存しましょう、というんです。「共感」「依存」の理論のなかでの主要な概念に「鏡」「理想化」「双子」の三つがありました。以下、見ていきましょう。
「鏡」とは、幼少期だとおもに母親がなるもので、たとえば子どもが初めて一人で立つことができただとか、テストでよい点を取って帰ってきたといったときに、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。これは野心が育つともいえることで、「野心の極」とコフートは名付けたそうです。
次に「理想化」ですが、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。これを、コフートは「理想の極」と名付けました。
後年追加された概念が「双子」です。これは父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。
本書では、ざっくりとではありますが、心理の多方面をあますことのないくらいに自己心理学で補填する項がたくさんあります。すべてご紹介するのは難しいので、いくつか引用しながら解説して終わりとします。
__________
精神疾患の中には、心の歪みが認知の歪みになって表われるものがあります。抑うつ状態の人なら、妄想にとらわれて「お金がないので、もうすぐ自分は破産してしまう」などと話すこともあるでしょう。でも実際には貯金もそれなりにあり、病気を治して職場に復帰すれば、そんな考えも消えて、問題なく生活していけます。(p71)
__________
→この「お金がないので……」は貧困妄想ともいうはずです(僕の父親にはこれがあり、時折さわぎます)。こういった認知の歪みは認知療法で解決を試みるとよいと言われます。他にも森田療法が例に挙げられていましたが、認知療法とともに、コフートの自己心理学のカウンセリングとの近似性があると指摘されていました。
__________
さらに問題なのは、行動に表れない心の中までパーフェクトを求める風潮が強まっていることです。人間は誰でも内心に邪悪さや欲望を抱えているので、誰かにイヤなことをされて頭に来れば、先ほどの話のように「あいつをブッ殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」などと思うこともあるでしょう。それを本当に行動に移してはいけませんが、心の中で思うだけなら何の問題もありません。学校の教師が淫らなことをしたいという願望を持っていたとしても、実行しなければいい。そういう「ダメなところ」も含めてその人の自己が成り立っているのですから、「そんなことを考えるだけでも許せない」と否定されてしまったのでは、心の安定は保てません。(p134)
__________
→「あのひと、何考えてるかわからないわ」なんて訝しげな目をしてみたり怒ったりする人がいます。ですが、他人が何を考えてるか想像がつかないと不安だという心理がそこにはあると思うのです。ただ、そのあたりもグラデーションの領域で、「何を考えてるかわからない」と警戒したほうがよいパターンもあれば、「心の中まで潔癖じゃないと信じらないし、そんな人はふつうの人間ではない」とするような行き過ぎの、人間の心の中まで完璧を求めてしまう間違ったパターンもあるでしょう。本書で指摘されているのは後者の部分です。
もうひとつ。心の中で「あいつをブッ殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」というのは普通でも、行動に移せばアウトだというのは多くの人がわかることだと思うのですが、たとえばそれを感情をこめて口にした場合はどうなのだろうと思いませんか。一般的にもそうだと思うのですが、僕の考えでもそれは精神的暴力になるので良くありません。第三者に「あいつ死ねばいいのに」と愚痴をこぼす場合でも、言い方次第で第三者の心を傷つけてしまうでしょう。どうしても第三者にこぼした場合なら自制して抑制した状態でこぼしてほしいですし、どうしても感情とともに吐き出したいときは、第三者の方向へ向かないことに気を付けて、あらぬ方向へ吐き捨てる感じで言ってしまうのが無難なのではないでしょうか。
__________
そういう周囲への同調のことを「追従」といいます。(略)そのため、自分には黄色に見えているものを、周囲の人々が「いや、これは赤だよ」「なんでおまえだけ黄色に見えるの?」などといわれると、ほんとうに赤かもしれないと思えてくるといいます。これが、「人間を錯乱状態にするいちばん簡単な方法」だという専門家もいます。長さや色彩といった単純なものでさえそうなのですから、物事の価値や意味といった曖昧なものについては、なおさら周囲の影響が強くなります。
(p146)
__________
→これは僕の場合、前職場でありました。こっちでは、これはこうだ、と確信していても、新入りで立場が弱いために、古株たちの否定と押し付けに屈せざるをえない状態になるとなお追従させられて、混乱・錯乱してしまうわけです。頭ごなしの否定がよくないんです。具体的には僕の場合、レジ操作がそうでした。古株たちが各々のやりかたでやっていることがあり、教えてもらっても、その都度否定されたりするわけです。いや、そんなんじゃない、こうだ、と言われて、次に別の人の時やると、そうじゃない、みたいな。これは職場での統一がなっていないという問題が大きいでしょうけれど、混乱や錯乱で頭を痛める原因になります。
と、自分に寄せた解説になりましたが、以上です。巻末にもありますが、このコフート心理学の理論は一般人同士でもやれることです。もっというと、他者のことを丁寧に考えられる人ならばやれていることだったりします。こういう理論は多くの人に広まるといいです。そうしたら、みんながみんな、人間理解が深まるし、生きやすいだけじゃなくて生産性が高まる社会になるのだろうなと思います。
『コフート心理学入門』 和田秀樹
を読んだ。
フロイトが興した精神分析学。その系譜にありながら人生の後年、独自の発展をさせた心理学の手法を考え、そして残したコフートの心理学について解説する良書です。とてもわかりやすいうえに、中身がしっかりしていました。
コフート心理学は日本ではあまりなじみがありません。とくに心理学や精神医学の素人である僕にとっては聞いたことのない名前だったりしました。しかしながら、アメリカでは主流の精神分析学として現役の手法なのだそうです。反対に日本は、フロイトの手法に固執してしまっているところがあり、こういった発展した精神分析をあまり取り入れていない風です。
さて、一般に精神分析のカウンセリングは、神経症(不安症や強迫症など)には使えても精神病(統合失調症や躁うつ病など)には使えないとされています。さらに、それらの間に位置するようなパーソナリティー障害にもカウンセリングは適さないとされてきましたが、コフートの精神分析であれば、パーソナリティー障害にも使用できるのでした。
パーソナリティー障害には、境界性、演技性、自己愛性などがあり、本書ではとくに自己愛性をとりあげて解説されていました。では、自己愛性パーソナリティー障害の症状とはどのようなものか。それは次のような例だそうです。
ちょっと注意をしたり、間違いを指摘したりすると、それを悪意として読み取ってしまうらしく、すぐに怒り出してしまう。これは自己愛が傷つきやすいためだそう。このような反応といいますか、応答のようなものをしてしまうのが「自己愛性パーソナリティ障害」。僕の周りでも家族以外でこういう人がいますね。家族だとうちの親父もこの症状の範囲にあると思います。というか、注意や指摘などをしてくる相手によっては、僕もいら立ったりしますが、これも自己愛におそらく関係している。また、「自己愛性パーソナリティ障害」の人は、空気を気にするそうです。それでいて、自分の都合で周囲の人をないがしろにする。そういう人は、人間関係に苦労しますし、周囲も苦労したりするでしょう。つまり生きづらい。だからこそ、コフートの自己心理学によるカウンセリングや精神科などでの治療を試みたほうが楽になれると思います、決意はいるでしょうけれども。
自己心理学は「共感」「依存」が主要な要素としてあります。依存なんていうと、よくないイメージがあるものですが、健全に依存しましょう、というんです。「共感」「依存」の理論のなかでの主要な概念に「鏡」「理想化」「双子」の三つがありました。以下、見ていきましょう。
「鏡」とは、幼少期だとおもに母親がなるもので、たとえば子どもが初めて一人で立つことができただとか、テストでよい点を取って帰ってきたといったときに、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。これは野心が育つともいえることで、「野心の極」とコフートは名付けたそうです。
次に「理想化」ですが、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。これを、コフートは「理想の極」と名付けました。
後年追加された概念が「双子」です。これは父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。
本書では、ざっくりとではありますが、心理の多方面をあますことのないくらいに自己心理学で補填する項がたくさんあります。すべてご紹介するのは難しいので、いくつか引用しながら解説して終わりとします。
__________
精神疾患の中には、心の歪みが認知の歪みになって表われるものがあります。抑うつ状態の人なら、妄想にとらわれて「お金がないので、もうすぐ自分は破産してしまう」などと話すこともあるでしょう。でも実際には貯金もそれなりにあり、病気を治して職場に復帰すれば、そんな考えも消えて、問題なく生活していけます。(p71)
__________
→この「お金がないので……」は貧困妄想ともいうはずです(僕の父親にはこれがあり、時折さわぎます)。こういった認知の歪みは認知療法で解決を試みるとよいと言われます。他にも森田療法が例に挙げられていましたが、認知療法とともに、コフートの自己心理学のカウンセリングとの近似性があると指摘されていました。
__________
さらに問題なのは、行動に表れない心の中までパーフェクトを求める風潮が強まっていることです。人間は誰でも内心に邪悪さや欲望を抱えているので、誰かにイヤなことをされて頭に来れば、先ほどの話のように「あいつをブッ殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」などと思うこともあるでしょう。それを本当に行動に移してはいけませんが、心の中で思うだけなら何の問題もありません。学校の教師が淫らなことをしたいという願望を持っていたとしても、実行しなければいい。そういう「ダメなところ」も含めてその人の自己が成り立っているのですから、「そんなことを考えるだけでも許せない」と否定されてしまったのでは、心の安定は保てません。(p134)
__________
→「あのひと、何考えてるかわからないわ」なんて訝しげな目をしてみたり怒ったりする人がいます。ですが、他人が何を考えてるか想像がつかないと不安だという心理がそこにはあると思うのです。ただ、そのあたりもグラデーションの領域で、「何を考えてるかわからない」と警戒したほうがよいパターンもあれば、「心の中まで潔癖じゃないと信じらないし、そんな人はふつうの人間ではない」とするような行き過ぎの、人間の心の中まで完璧を求めてしまう間違ったパターンもあるでしょう。本書で指摘されているのは後者の部分です。
もうひとつ。心の中で「あいつをブッ殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」というのは普通でも、行動に移せばアウトだというのは多くの人がわかることだと思うのですが、たとえばそれを感情をこめて口にした場合はどうなのだろうと思いませんか。一般的にもそうだと思うのですが、僕の考えでもそれは精神的暴力になるので良くありません。第三者に「あいつ死ねばいいのに」と愚痴をこぼす場合でも、言い方次第で第三者の心を傷つけてしまうでしょう。どうしても第三者にこぼした場合なら自制して抑制した状態でこぼしてほしいですし、どうしても感情とともに吐き出したいときは、第三者の方向へ向かないことに気を付けて、あらぬ方向へ吐き捨てる感じで言ってしまうのが無難なのではないでしょうか。
__________
そういう周囲への同調のことを「追従」といいます。(略)そのため、自分には黄色に見えているものを、周囲の人々が「いや、これは赤だよ」「なんでおまえだけ黄色に見えるの?」などといわれると、ほんとうに赤かもしれないと思えてくるといいます。これが、「人間を錯乱状態にするいちばん簡単な方法」だという専門家もいます。長さや色彩といった単純なものでさえそうなのですから、物事の価値や意味といった曖昧なものについては、なおさら周囲の影響が強くなります。
(p146)
__________
→これは僕の場合、前職場でありました。こっちでは、これはこうだ、と確信していても、新入りで立場が弱いために、古株たちの否定と押し付けに屈せざるをえない状態になるとなお追従させられて、混乱・錯乱してしまうわけです。頭ごなしの否定がよくないんです。具体的には僕の場合、レジ操作がそうでした。古株たちが各々のやりかたでやっていることがあり、教えてもらっても、その都度否定されたりするわけです。いや、そんなんじゃない、こうだ、と言われて、次に別の人の時やると、そうじゃない、みたいな。これは職場での統一がなっていないという問題が大きいでしょうけれど、混乱や錯乱で頭を痛める原因になります。
と、自分に寄せた解説になりましたが、以上です。巻末にもありますが、このコフート心理学の理論は一般人同士でもやれることです。もっというと、他者のことを丁寧に考えられる人ならばやれていることだったりします。こういう理論は多くの人に広まるといいです。そうしたら、みんながみんな、人間理解が深まるし、生きやすいだけじゃなくて生産性が高まる社会になるのだろうなと思います。