プラトンの『ゴルギアス』をこのあいだ読んでいてびっくりしたのですが、「手持ちの札でとにかくやるしかないんだから、それで精一杯やるんだ」っていう考え方が古代ギリシャの時代にはあったと、その時代に生きた主人公のソクラテスが話していました。
手持ちの札がしょうもなくても、それで頑張るしかないんだ、っていう人生訓について僕は、10年前後前になりますが、東野圭吾さんの小説で知ったのがたぶん初めてで、なるほどその通りだなあ、と膝を打ったのを覚えています。しかし、古代ギリシャの時代からあった考え方だったんですね。
ただそれ以前に、「こんなクソ手で勝てるわけがない! だから降りる!」という選択のありかたがあることを、かっこいい女性ロックミュージシャンが、ハスキーな歌声で歌っていたのを好んで聴いていたりもしました。現代ではこういう歌がヒットしたものですが、この、「だから降りる!」というのは、おそらく短い時間範囲での「気分」としてのものです。
歌は、シェリル・クロウの「Leaving Las Vegas」のことなのですが、あの歌詞は人生そのものでもあるよなあ、という読み方をしました。そういう寓意が感じられて、というわけですね。ちなみに、ほんとうに大好きな歌です。
さて。一般の人が、普段づかいの言葉や態度だったとしても、けっこうちゃんとした教育って子どもたちにできるはずなのですけども、それが難しくなるのは、公教育のシステムや社会環境を作っている社会システムの影響ではないのでしょうか。どうしてかというと、「ローコスト・ハイリターン」を求め過ぎて、一歩ずつの歩みが軽んじられるからです。
「親ガチャ」という言葉を用いて嘆息する人たちも、「手持ちの札がクソ手だ」と言っていることと同じで、大きなリターンが難しい、と嘆いている面はありますよね(どうしようもないくらいの苦難のなかにあったりする人もいらっしゃるので、すべてがそうだなんてまったく言えませんが)。
シェリル・クロウの歌のように、手持ちの札を見て降りたくなるのは、人生をこの手札でやっていくにはコストがかさむしリターンもハイにはならなそうだ、という見通しから来るのではないでしょうか。そういった「効率性重視」の価値観を土台として世の中を作っていくと、効率的にできない状況になったときやそういう状況だとわかったときに、「もうどうでもいいわ」という気分になりがちだと思うんですよ。人間ってそういうはっきりした弱さがしっかりあるでしょう?
ローコスト・ハイリターンを実際に為した人をみて、「自分はあいつのような良い目を見ることができない」と嘆いてすさんでいくのです。良い目を見ることが最上のものという価値基準を信じ切っているからそうなるのですけど、そんなの関係なく村上春樹的「小確幸」でもいいのですけど、日常のほんとうに些細な平穏だとか喜びだとかの重み・手触りをもっと信じていいのではないでしょうか。
国や会社も、この資本主義でグローバル競争でっていうシステムのなかで、個人を煽ります。もっと稼げ、効率的かつ合理的に仕事をしろ、そしてたくさん買え、と。欲望のままにふるまうのがいちばんだ、と経済学の偉い人が言ったのだから、その通りにせよ、と。でも、そういうのは人間として不自然なんです。それはひとつに、自制心を持つのも人間だからだというのもあります。
世の中、人間観・世界観についてあんまり考えないですし、議論の俎上にもほとんどのぼりませんけれども、そういった「人の原点」的なものを考えの的(まと)にするのは大切。だって、何事も人間観や世界観を起点に動くでしょう。個人的なふるまいにしたって、人付き合いの仕方、人との接し方も、人間観や世界観に規定されていますよね。
人間観や世界観を洗ったうえで、グローバル競争なり資本主義なりをやりなおせばいいのになあ。
そう、年の初めに思うのでした。
手持ちの札でやっていこうとできる人こそ、善く生きられそうではないですか。
手持ちの札がしょうもなくても、それで頑張るしかないんだ、っていう人生訓について僕は、10年前後前になりますが、東野圭吾さんの小説で知ったのがたぶん初めてで、なるほどその通りだなあ、と膝を打ったのを覚えています。しかし、古代ギリシャの時代からあった考え方だったんですね。
ただそれ以前に、「こんなクソ手で勝てるわけがない! だから降りる!」という選択のありかたがあることを、かっこいい女性ロックミュージシャンが、ハスキーな歌声で歌っていたのを好んで聴いていたりもしました。現代ではこういう歌がヒットしたものですが、この、「だから降りる!」というのは、おそらく短い時間範囲での「気分」としてのものです。
歌は、シェリル・クロウの「Leaving Las Vegas」のことなのですが、あの歌詞は人生そのものでもあるよなあ、という読み方をしました。そういう寓意が感じられて、というわけですね。ちなみに、ほんとうに大好きな歌です。
さて。一般の人が、普段づかいの言葉や態度だったとしても、けっこうちゃんとした教育って子どもたちにできるはずなのですけども、それが難しくなるのは、公教育のシステムや社会環境を作っている社会システムの影響ではないのでしょうか。どうしてかというと、「ローコスト・ハイリターン」を求め過ぎて、一歩ずつの歩みが軽んじられるからです。
「親ガチャ」という言葉を用いて嘆息する人たちも、「手持ちの札がクソ手だ」と言っていることと同じで、大きなリターンが難しい、と嘆いている面はありますよね(どうしようもないくらいの苦難のなかにあったりする人もいらっしゃるので、すべてがそうだなんてまったく言えませんが)。
シェリル・クロウの歌のように、手持ちの札を見て降りたくなるのは、人生をこの手札でやっていくにはコストがかさむしリターンもハイにはならなそうだ、という見通しから来るのではないでしょうか。そういった「効率性重視」の価値観を土台として世の中を作っていくと、効率的にできない状況になったときやそういう状況だとわかったときに、「もうどうでもいいわ」という気分になりがちだと思うんですよ。人間ってそういうはっきりした弱さがしっかりあるでしょう?
ローコスト・ハイリターンを実際に為した人をみて、「自分はあいつのような良い目を見ることができない」と嘆いてすさんでいくのです。良い目を見ることが最上のものという価値基準を信じ切っているからそうなるのですけど、そんなの関係なく村上春樹的「小確幸」でもいいのですけど、日常のほんとうに些細な平穏だとか喜びだとかの重み・手触りをもっと信じていいのではないでしょうか。
国や会社も、この資本主義でグローバル競争でっていうシステムのなかで、個人を煽ります。もっと稼げ、効率的かつ合理的に仕事をしろ、そしてたくさん買え、と。欲望のままにふるまうのがいちばんだ、と経済学の偉い人が言ったのだから、その通りにせよ、と。でも、そういうのは人間として不自然なんです。それはひとつに、自制心を持つのも人間だからだというのもあります。
世の中、人間観・世界観についてあんまり考えないですし、議論の俎上にもほとんどのぼりませんけれども、そういった「人の原点」的なものを考えの的(まと)にするのは大切。だって、何事も人間観や世界観を起点に動くでしょう。個人的なふるまいにしたって、人付き合いの仕方、人との接し方も、人間観や世界観に規定されていますよね。
人間観や世界観を洗ったうえで、グローバル競争なり資本主義なりをやりなおせばいいのになあ。
そう、年の初めに思うのでした。
手持ちの札でやっていこうとできる人こそ、善く生きられそうではないですか。
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