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『九つの物語』

2024-01-10 22:41:51 | 読書。
読書。
『九つの物語』 J・D・サリンジャー 中川敏 訳
を読んだ。

アメリカの伝説的作家・サリンジャーの自選短編集。すべての短編がよく創られていると思いました。そのなかでも、特にお気に入りとなった4つの短編についてだけ、感想を書いていきます。


まず、「バナナフィッシュに最適の日」。
精神面がかなり危いところへ追いつめられている男・シーモアの話でした。その男の姓はグラスといいますが、サリンジャー作品にはこのグラス家について、数々の作品を用いながら連作というかたちで立体化しているそう。それも作家が成し遂げてきた仕事の中の大きな範囲を占めていると解説にあります。前に、『フラニーとズーイ』を読んだときはまるでなにも知りませんでしたが、『フラニーとズーイ』もグラス家の作品だったようです。
さて、作品自体は、表現重視で、枠内にとどまらないような創造をしていると読めましたが、構造としては最低限の要の部分を持っていて、それが自由な表現の筆致のねじを締めているようにも思いました。どうやって書いたのかはわかりませんが、本作は初稿の段階ではけっこう支離滅裂になりやすいタイプの作品のような気がします。それを、直しや推敲の段階で意味が通っていくように形作られていったのではないかなあと推測するところです。象徴的な部分だとか、印象的な部分だとか、そのちりばめ方は僕としては好みのやり方でした。


つぎに、「コネチカットのよろめき叔父さん」。
エロイーズとメアリー・ジェーンが久しぶりに再会し、エロイーズ宅で酒を飲みながら歓談している。エロイーズの小さな娘は妄想癖があり、メアリー・ジェーンは「たいした想像力よ」と言う。エロイーズは、昔好きだった男の死の真相をメアリー・ジェーンにようやく話し、そこから一気に心がくじけていく。最後の数ページがその場面で、内に宿していた苦しみや辛さを抑え込んでいられなくなり、それまで気丈でドライで皮肉屋だった姿が、ぐらっと反転します。急に壁が崩れて中身が見えてしまうみたいなふうでもあります。そこで、哀れみを誘われるというか、読んでいて「あなたも戦って生きているんだね」という気持ちにさせられるのです。それまでの長いメアリー・ジェーンとのやり取りからは、薄っぺらく生きているふうに見せている感じがするのだけれども、重くのしかかる人生から目を逸らせなくなってきているシーンが、ペーソスとなっていました。
「そうやってペーソスへと導くのか!」っていう、逆算して作ったよね? と思える話の流れがよかったです。積み重なっていったものが、主人公の心理がこらえきれず反転した時に、そのペーソスの下支えをしていました。
元彼との記憶。それが、とても大切なものなのがわかるのです。でもだからといって、「大切だった」なんて書かれていやしません、というよりも、そんなのを書いちゃいけないんです。でも、読み手にはわかる。そういう形として作品になっていて、そういう小説作法のようなものは書き手にとっての学びになります。

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「自分の女房は、ずっと前から男がそばにくるといつも吐き気がするほどいやだったんだ、なんて思いたがるのよ、亭主ってものは。あたし、冗談いっているんじゃないのよ。話す分にはかまわない。でも、正直にいっては駄目。決して正直にいっちゃいけないってことよ。もし、昔ハンサムな青年を知っていたといったら、すぐつづけて、ハンサムすぎてといわなくていけないわ。そして、気の利いた青年を知っていたといったら、己惚れ屋さんだとか、知ったか振りだった、とか言わなくちゃだめよ。そういわないと、機会をとらえるたびに、亭主にその男のことでがみがみやられるわよ」(p49)
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→サリンジャーは男性ですが、こういった女性世界での世知、賢さをよくわかっているなあと感心しますね。またそれだけ、女性たちがふだん、平気な顔をして生活していながらも、とても神経を使いつつ行動しているということを知っている人だった。ただ、「ちょっと待てよ?」というふうに引いた目で眺めてみると、これは現代においては男性世界にも言えることだということもわかります。男性も女性にたいして、正直に言っては駄目だったりします。がみがみやられますから。サリンジャーが活躍した時代においての、女性と男性の力関係の一面がしのばれる一場面でした。


「笑い男」。
こういう話が大好きで、もう最高でした。たかだか20数ページの分量を過ごす時間で、僕にとってはおおきく気持ちが温まり、潤う作品でした。10歳の少年が主人公で、彼を含めた同年代の少年たちを放課後バスに乗せ、野球やフットボールをさせたり、雨の日には博物館へ連れて行ったりする22,3歳の男がいるのです。この集まりをコマンチ・クラブといい、男は団長と呼ばれる。団長は子どもたちに、笑い男という即興話をたびたび聞かせるのですが、子どもたちはこの話の面白さの虜になっていて、団長が続きを話し出すと、集中して聞き入っている。そして、腹の底から笑ったり、おののいたりしている。そんな笑い男の話がたびたび大きく挟まりながら、団長に恋人があらわれてその人生模様を10歳の少年が、よくわからないながらも眺めていて、印象だけをつよくこころの刻んでいくような話でした。たくさんのユーモアやウイットの言葉が心地よく、少年たちが喉輪攻めをしあうなどくだらなさと童心に帰るようなほのぼのした感覚を得るところも多く、まあ一言でいうと、愉快。そそして、切なさもあって、ほんとうに好きな毛色の話でした。
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「あたし、遅れたかしら?」彼女は団長にほほえみかけながらいった。
 それはあたしは不器量かしらと訊くのも同然のことだった。
(p95)
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→団長の恋人の女子大生はきれいな人なのですが、ここでのこういう表現の仕方は好みです。うまく書くものだなあ。


最後に、「エズメのために――愛と惨めさをこめて」。
ノルマンディー上陸作戦から始まるドイツへの反撃前夜。イギリスで任務を待つアメリカ兵の男が主人公です。彼が教会でその姿をみとめ、その後喫茶店でおしゃべりをした13歳の少女・エズメ。長いおしゃべりのあと、必ず手紙を書く、とエズメに言われて別れた男。ほんとうならば短編小説家でありたいという主人公に、エズメは、自分のために小説を書いてくださらない、とお願いします。
本短編は二部構成なのだけれど、後半の、神経衰弱に陥った兵士の話では、そこにエズメからの手紙が出てくるのですが、「エズメのために」というタイトルから考えて、前半の主人公が書いた創作にあたるのかなと思います。

前半の、少女エズメそして弟のチャールズとのやり取りに力があるからこそ、それが後半部への「溜め」になっているんだと思いました。子どもたちの心理の動きが生きいきとしているし、そればかりか、彼らの挙動や表情、言動には理由や事情があるからこそ、といった造形がなされていました。作家(サリンジャー)が、自分が創る世界に深く潜行してこそのワザですね。
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エズメよ、彼は本当に眠たくなったのだよ。本当に眠たくなって眠れば、彼はそのうちに精神と体のあらゆる能力が無事な人間に戻ることができるのだよ。(p161)
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まさに、愛と惨めさを扱った、あたたかな短編へと完成する上記↑の締めくくりがぐっときましした。神経の疲労が激しいときって、寝て起きてというのはあくまで習慣的な行為にすぎず、本当に眠くなって寝て、本当の眠りを得られるという具合にはいかないものなんです。そのため、寝ているはずでも神経の疲労は回復しないどころか、ますますかさんでいきます。体験的にサリンジャーは知っているんでしょうね。これもまた、素晴らしい短編でした。


というところです。紹介した4つの短編が僕個人の好みを反映したものでしたが、その他の5つの短編もおもしろいのです。今月、柴田元幸さん翻訳の文庫版『ナイン・ストーリーズ』が発刊されたようですから、そちらを読んでみてもよさそうですね。


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