Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『単純な脳、複雑な「私」』

2014-11-10 00:49:50 | 読書。
読書。
『単純な脳、複雑な「私」』 池谷裕二
を読んだ。

脳科学者・池谷裕二さんによる、
トピックとそれらを読み解く内容が盛りだくさんの、
講義録形式の本です。
実際に、池谷さんの母校の生徒9人が彼から受けた講義が
この本になっています。

460ページくらいのなかなかのボリュームの本ですが、
その物理的な「なかなかな量」を超えるくらいの内容の濃さです。
そして面白いのです。最新の脳科学の知見が披露されますが、
柔らかい言葉でもってなされるその解説、詳説にうーんと唸らせられる。

自由意志とはなにか、
無意識の作用について、
脳の神経はどういう成り立ちをしているか、などなど、
哲学や心理学や生物学などの領域にまでまたがるような、
横断的な学問としての脳科学というものがわかり、
そのひとつひとつに自分のアタマのいろいろな領域を刺激されて、
フル回転で読むようなことになります。
といっても、興味深い読みものなので、
時間の余裕があってゆっくり読めるのならば、苦痛も感じないはずです。
(ところどころ調べないといけない言葉も、
人によってはあるかもしれないですが)

とくに心に残ったところは、まず、
同じ労働をしても、報酬の金額が少ない人のほうが
その労働に対して「楽しかった」という感想を持つそうだというところ。
ボランティアでの満足感へのヒントだとも思いました。
一方で、高給取りなんかが傲慢だったりするイメージがありますが、
仕事に楽しさを感じてないからなんでしょうか。
「金のためだししょうがねー」と。
仕事は金のためなのはもちろん(だと僕は思う)。
でも、楽しいにこしたことはない。
そのあたりのちょうどいい賃金の金額ってあるんだろうけど、
個人差があるだろうなぁと思いました。
格差の下の人たちが、少ない賃金でも楽しさを感じてしまったら、
それは豊かな社会なのだろうか、それとも、かわいそうな社会なのだろうか。
また、ブラック企業で働く人がそこを離れないのにも、
このような脳の習性・心理が働いているのだろうかと思えました。
それは間違った脳科学・心理学の活用の仕方だと思う。

それと、脳はゆらいでいるということ。
入力+ゆらぎ=出力になるから、
同じことをしようとしても結果は微妙に異なったりする
(いつもゴルフのパッティングが決まるとは限らないのがその例)。
きっとルーティンってものが、
その脳の揺らぎを一時的に抑えられるんじゃないだろうか。
そうやって、出力のばらつきを抑えている気がする。
実際、アルファ波がでているときは失敗すると書いていました。
アルファ波が出ていないとき、弱い時には、
ゴルフのパッティングもうまくいく。
そして、アルファ波は脳波測定器をみながらならば、
自分で出したり弱めたり調節できるようになるものなんですって。
そうやって、アルファ波を弱める術を覚えたら、
ボウリングなんかはすごくいいスコアが出せるだろうなぁ。
運動音痴の人も、もしかするとアルファ波が強いせいでそうだ、
っていう可能性もありますよね。
野球なんかで玉を投げるのにもコントロールが悪かったりっていうのは、
アルファ波のせいかもしれない。
逆に、アルファ波って優れた芸術家には欠かせないみたいに言われた時期って
あったと思いますが、そうい芸術家が運動に優れていないのが、
このメカニズムのせいかもしれない。
あと、このあいだ『弓と禅』のレビューで書きましたが、
そこに出てくる名人の弓道の師範はどんな脳波なんだろうなって
気になりますよね。そこまでの域に達していたら、
逆にアルファ波がでていて、それまでの常識が覆るような
奥が深い結果が出そうにも思えたり。
まぁそれは僕の勝手な想像ですけども。

非常に面白く、濃い内容と量に圧倒されながら読み終えました。
うまくいえないのですが、読み通すと、何か、
「この世の仕組み」みたいなのすら見えてくるような本です。
良書でした。


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『鬱に離婚に休職が…ぼくはそれでも生きるべきなんだ』

2014-11-05 19:07:26 | 読書。
読書。
『鬱に離婚に休職が…ぼくはそれでも生きるべきなんだ』 玉村勇喜
を読んだ。

鬱になるにはいろいろな原因があると思う。
支配的な親や上司の存在、
うまくいかない友人や同僚と会わなければいけないこと、
傷つけられたり、陰口に気付いたり。
会社に行きたくないな、学校を休みたい・・・
そういう経験は誰にでもあるでしょう。

とにかく、社会の営みからはずれて生きることはとても難しいことで、
ほとんどの人間はそれぞれがそれぞれに
もたれあいながら共生する存在であって、
ゆえに、相互にストレスを与えあいながら生活している。
なかには、ストレスを与える方が多い人もいるし、
ストレスを受ける方が多い人もいる。
ストレスに強い人もいれば、
うまくストレスを吐き出す方法を知っている人もいる。
そして、その逆の人も多くいる。
コミュニケーションが欠かせない人類にとっては、
一部の人が鬱という状態、病になるのは避けられないことは
感覚的にも、以上のことから多くの人がわかるところでしょう。

本書の著者は、鬱の状態から鬱病になってしまった方で、
本書ではその体験を自伝形式で述べています。
序盤の数ページでは、つらくても会社に生き続けるしか道はないのだ、
というような、当時の、若さゆえなのでしょうが、
人生というものに対しての狭い見方に縛られた文章が目に入りました。
たしかに、せっかくつかんだ就職内定であり、
そこにしがみつこうとする気持ちはわかるのですが、
だからこそ、頑張りすぎたり余裕がなくなったときに、
自らのこころを痛めてしまうのだと思います。
きっとそこには、他人か自分を攻撃しなければ、
もやもやしたものから解放されない、
という切迫感めいたものもあるんじゃないだろうか。
そして、他人を傷つけたとしてもあとで自分が傷つくだけですし、
自らを責めても心が苦しくなるだけ、
というマイナス方向へのベクトルを生むのではないでしょうか。

人には、ある視点からみての、強い・弱いがあります。
優れている・劣っている、もあります。
でも、それって、あくまで一つの視点からの見方です、
それは今の時代にとって強固な価値観による見方であったとしても。
次の時代にとって、今の時代の「強い」が
けして「強い」とは限らないともいえますし、
同様に、「弱い」が強いとみなされる価値観に反転しないとも限らない。
そういう理由で、多様性って重んじられるわけです。
そして、多様性という観点で見れば、強くとも弱くても等価値なんです。

しかし、鬱状態や鬱病の人にとってはそういったロジックも、
頭ではわかるのだけれども、こころには届かない、
といったこともあるように読めました。
本書では、僕なんかが読んでも「まあ、まだ軽い状態なんじゃないかな」
と思えるような鬱状態から始まり、そのうちどんどんと重症化していく様を
読みこむことになっていくのですが、
そのつらさの描写・告白を知るにあたって、
読者はつらさをやわらげてあげられないこと、方法がわからないことを実感しつつ、
でも、話を聞いてあげることならできるし、
寄り添うような気持ちになることもできることを知るでしょう。
また、著者と同じ苦しみを持つ方にとっては、
そこには共感と、苦しみを分かち合えたような気持ちを、
ともに得ることになるのではないだろうか。
自分ひとりだけの苦しみじゃないことを知ることは、
その人の苦しみを和らげる効果があると思います。
それらのような意味で、
本書は、著者の鬱病体験記でありながらも、
著者と読者の間でこころのやりとりをしてお互いが弱く繋がる本である、
と位置づけることができます。
村上春樹さんが小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で述べた、
人と人との繋がりは、傷や痛みなどによってこそのもので、
そういうのこそ真の調和なんじゃないかっていうところをピックアップすれば、
本書は、ちょっと大げさかもしれないですが、
人々の調和に貢献するたぐいの本とも言えるのです。

最後に。
この本は著者の玉村さんから献本頂いたものでした、感謝いたします。
また、僕の感想にちょっと硬い感じを抱く方もいるかもしれないですが、
本書は非常に読みやすい文章で書かれていますので、邪推いたしませぬよう。


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『キレイゴトぬきの農業論』

2014-11-05 00:02:04 | 読書。
読書。
『キレイゴトぬきの農業論』 久松達央
を読んだ。

有機農法で年に50品目ほど栽培して、
契約した消費者や飲食店へじかに届けるかたちの農業をやっておられる著者の、
ロジカルでときにユーモアを交えた農業のいろいろな面を語る本です。

帯にあったんですが、

有機=美味で安全、
農家=清貧な弱者、
農業=体力が必要・・・・・すべて勘違い!

ということです。
それらがどういうことなのかを主軸に前半は語られます。

これからの時代の農業についての著者なりのヴィジョンも
語られるのですが、そういったことも含めて、社会学やビジネス書などにも
多く目を通しておられるなぁといった印象の語り口でした。

そして、肝心のその著者のヴィジョンですけれども、
それが一言でいうならば、ストーリー・マーケティングというものだそうです。
なんだろう、と思う人も多くいらっしゃるでしょうけれども、
このブログの記事をよく読んでくださっている方であれば、
こういえば通じると思います、それは『贈与論』の考え方であると。
つまりは、顔が見えて、商品に思いや生産者の人となりを感じられるような、
「あったかみ」であり「いとおしさ」です。
商品の背後に、そんなストーリーであり、ソウルがあって、
それらを消費者が感じとれるということなんですが、
この考え方には、社会的包摂の性質があるでしょう。

嬉しいですね、僕がこの考え方にたどり着く半年か1年か、それ以上かくらい前に
そういうことをしっかり考えている方がいた。
僕の考えも机上の空論ではないということです。

閑話休題。

ニッチ産業としての居場所をみつけた著者の農園だということですが、
ちゃんとニーズを生んでやっているので、単なる隙間産業ではないのではないか。
土地の力を活かし、旬を守り、品種を選び、鮮度を大切にするというこの三要素を
堅守することで、慣行農家の作物よりもおいしいものを作っていくというのが、
大きな方針で、はた目には、セレブという意味ではないけれど、
野菜による贅沢を提案するようなビジネスになっているように読みました。

また、農家は大変だと言われますが、参入障壁が高いということがありながら、
起業家よりも成功率が高いことがあげられていました。
固定資産税などが優遇されていて、
住居費などにかかる費用は都市生活者よりも低く済むことも語られていました。
それに、45歳までの新規就農者には、7年間にわたって、年間150万円の援助が
国からあるということも語られていて、
著者は甘やかすという意味においてそれには否定的な立場を表明しています。

まぁ、なんていうか、農業論といわれていますけれど、主軸はたぶん有機栽培なのですが、
それでもあまり中心軸を感じないいろいろなトピックを正面から紹介したり論じたり
という性格の本ではないかなと思いました。

マクロにもミクロにも農業を語っているのですが、
200ページに収まっているコンパクトな読み応えのある読みものでした。


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『弓と禅』

2014-11-03 00:07:55 | 読書。
読書。
『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル 稲富栄次郎・上田武 訳
を読んだ。

1956年に発行されたのが初版で、
僕が読んだのは1981年に改版されたものです。
大正期の終わりから昭和の初めまで日本に滞在し、
約6年間、弓道を学び、そこから禅の境地に繋がる精神を見出したことを
哲学者である著者が順序立てて論じていく本です。
あの、スティーブ・ジョブズの愛読書でもあったそうです。

現代の僕らが、スポーツとして考える弓っていうものは、
やったことのない人であれば、たぶん、
力いっぱいに弓を引いて狙いすまして矢を放ち、
うまく的に当てることだけを考えるようなものと
イメージしがちだと思います。

しかし、古くからの日本の精神に基づいた――心の科学とも言われる
仏教の教えが根底にありますが――この弓道というものには、
そういった現代のロジカルなやり方とは正反対のやり方が正道とされている。
師範も、著者が哲学をしていることをしって、
そんな人は弓を極められるわけがないと、
一度は教えるのを辞めようかとしたくらいだそうで、
それくらい、頭を使ってどうこうしようというのは否定されるんです。
じゃ、どうするんだよ、なんて馬鹿にするように言う人も
なかにはいそうですが、きっと、この『弓と禅』を精読すると、
そうともいえないことがわかるでしょう。

無心・無我っていうのが最終目標。
それに照らして、今でいえば、自分探しだとかやっているのは、
道を誤っているということになります。
自分を無くして、文中では「それ」と言われていますが、
「それ」に弓を引かせて矢を放たせて的にあたらせるんです。
また、呼吸法も大事で、これは精神集中でそうだし、
無駄に筋力を使わないためのもの、
筋肉が弱くても弓を引くことができるようにするためのものでした。

自分を自由にするというのは、
自分を見つけたり無理に個性を作り出そうとすることではなく、
自分を失くしてしくことだと言われる。
そして、それは禅の精神だということです。

このあたりは、本の著述で読んだ方が面白いし、
なによりもっとわかると思います。
言葉ではっきりわかったかのように書くと、
損なわれるような、感覚的なものがそこにはあります。

僕はこの間、従兄のうるささに負けて、
引退したはずのボウリングに8カ月ぶりに復帰したのですが、
たぶんに、ボウリングにもこの弓道のやりかたは
応用できるように思います。

さて、ここまで読んだ方で、
「なんだ、精神論の復権を説いているようで時代遅れだし害悪だ」
と思われた方もいらっしゃるかもしれない。
そこは、なんでも根性の精神論とは違うように僕は読みました。
精神を鍛えて強くすれば何にでも耐えられる、みたいなのが精神論だとすると、
弓道の精神はまず呼吸法という今でいえばもう科学の領域のものをまず学び、
それから、意志を捨てることの練習をするので、
精神を強くするといういわゆる「パワー型のマッチョな精神」とは
一線を画しています。
本書の言葉にはないですが、きっと素朴でリラックスしていてギラギラしてなくて
というような精神状態を、弓道や禅では追い求めます。
そういう感覚的な脳の使い方って、現代人ではあまりしないようになっているかもしれない。
著者のヘリゲルさんは、「日本人の頭脳はすごい」と驚いたといいます。
ヨーロッパの論理的思考偏重の生き方を超えたものがあったのに
驚いたのでしょう。そして、そういう古き日本の中に通底していたような感覚的な
頭の使い方は、欧米の考え方が勢いに乗って日本に入って来たこともあって、
そして、それらが主流になったこともあって失われてきているもののように感じます。

今一度、見直されてもいい考え方なんじゃないだろうか。
スティーブ・ジョブズみたいな一握りのエリートだけがまるでマニアックに
考える領域みたいになっていますが、みんながそういうのに気付いて、
自分の人生に取り入れると面白いと思いました。
僕は自分のボウリングのやりかたに取り入れてみようと考えています。


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『夜にはずっと深い夜を』

2014-11-01 00:02:47 | 読書。
読書。
『夜にはずっと深い夜を』 鳥居みゆき
を読んだ。

女性ピン芸人・鳥居みゆきさんの連作短編小説集です。
ときに、詩的だったりもする散文たち。

ブレインストーミング的に自由で壊れた想像を彼女らしい言葉で
紡いでいくような感覚に感じるんですけれど、
その、表面には出てこない深いところには、
ちゃんと彼女なりのしっかりした計算があるんだろうなぁと、
解説も読んでそう思いました。
計算というか様式美を持っているんじゃないかって気になりました。

そして、ぎりぎりの精神で、それは病むか病まないかを意識していて、
そういう「場」から物語を作っています。
そこには彼女の挑戦があるのか、精神を病むことの怖れがあるのかは
わかりませんが、彼女の芸風としてそういうのを扱っているようです。

物語の一編一編は短くて、すぐに改行もされる文章なので、
文字数はさほど多くなくて、読書慣れしていない人たちでも、
一冊200ページ弱を、苦労なく読み終えることができると思います。

ギミックといって良いのかわかりませんが、
いろいろと、物語と物語の間に仕掛けというか、
繋がりを持たせていたりもしますので、
さらーっと読み飛ばしながら読むようなことをしたら、
この本の面白みには気付けなくなります。
そこは注意して読んで、深い夜を楽しむといいのではないかな。

僕は鳥居みゆきさんのDVDを持っていたりして、
興味を持っていることもあって、
面白く読めました。
芸人さんのひょろっとした表面の裏をうっすらと感じさせられたりします。


Comments (2)
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