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“よく動いてくれた人に感謝 Ⅲ”  ‘17-7-11

2017-07-11 06:25:47 | Massy's Opinion

★Massy’s Opinion

・この時代になると、労働組合でも「東京第一地区委員長」と言うことで、上司が側にいるわけではなく(本部は場所が離れていたし)ある意味自分の自由に仕事を進めた。しかし、貴重な凝縮したリーダーとしての体験をしたと思う。

 ・労働組合時代に学んだこと:

専従になる時の決意。‘60年に僕の下に慶応2人、青山1人の新人が配属されて来た。既に同じ年で、青山の夜間を卒業した者がいた。当時、会社は「学歴別年齢別賃金体系」を取っていたので、経験者の夜間卒業で給料は高卒並み扱いで低い。仕事はベテラン。これでは、職場がスムースに動かない。日産の歴史的労働争議の終了と新しい「労使相互信頼」を基調とした時代である。職場会で色々意見を言っているうちに組合専従になれと言われた。野球の監督も遣っているし、僕の職場の上司は、「お前が居ないと困る、だけど俺が断ると不当労働行為になる。君が断りなさい」人事部含めて一月位揉めた。勿論自分でも考えたが、何時も野球部の石川君がって言って居た、「後ろの7人は敵だ...」と言うことを思い出し、会社の中で「一人だけ反対の方向を向いてホームベースを守るキャッチャーの役割だ」「僕の生きている内に共産主義社会にはならない」「販売業ではストライキは出来ない正に人権と公平を守るキャッチャーだ」と割り切りをつけて当時の組合上層部に自分の考えを話して了解を得て、専従になって野球部監督は遠間君に譲った。当時の組合費は販労本部に全部納めて組合人数分で還付され、それが活動費になる。東京日産は当時1200人位の組合員を擁し、約28位の職場から成り立っていた全国一の支部である。仕事が終わって腹が減って組合会議に出てくる人たちに「すず新」のかつ弁当を食べさせるには、どうしてもお金が足りない。支部の独立財政が必要と考えて、組合員に対して斡旋物資の販売を始め支部独自の資金造りを考えた。蜂蜜、ストッキング、オンワードの仮縫い付きスーツ等だ。3年間で15万円の繰越を作ったが、これは職場との連帯感を作るには大きな成果があった。労使の馴れ合いでなく、労働組合の独立性を考えると、先ず財政の確立が必要だ。そして、賃金問題は専務と人事のみが解っていて、ほかの10数名の役員は実態を知らない。今の時期は、労使に実態を解らせる時だと考えた。そこで、賃上げの団体交渉に始めて「東京日産の賃金の現状と問題点」と言う資料を作り団体交渉に臨んだ。確か、今でも同じやり方だろう。団交の後で、平取締役の数人の人から「増田君、僕の職場のS君から、給料が安いとよく言われるが、彼は中卒だもんな...これで良く解ったよ...」と感謝されたことが思い出される。この時、約1200名の賃金調査から、団交資料を作るのは一人で遣った。翌年からは3役クラスの人間にも参加さてホテルに泊りがけで資料造りを遣った。「同一労働、同一賃金」なんて、この時に教えられ、教えたものである。

活動費の繰越金15万円は、その後地区委員長が3人くらい替わって、メガバンクの統合が始まった時、銀行で取引先の棚卸しをしたんだろう、その時の委員長が「増田先輩、三菱に先輩の名前の普通預金の口座があるんですけれど、ご存知ですか?」と問い合わせがあった。引継ぎ引継ぎの内に忘れられてしまった様だ。大体組織なんてそんなもの...僕は会社の文章でも、自分が起案した物は殆ど全部控えを我が家に保存してある。

或る年の春闘で前記の「学歴別差別」をなくすために、強烈に頑張って団交を繰り返し、もう妥結だなと考えて、支部委員会に計ろうとした。可なり職場の組合員たちとギャップがあり、その日の支部委員会には、いつも作らない原稿を書いて臨んだ。話している内に聞いているメンバーの顔つきが変わってくる。話し終わったら、水面が凍りつくようにシーンとしてしまった。余りにも僕の原稿が突っ込みの余地も無いので、その言うに言いわれぬ不満が会場を凍りつかせてしまったのだ。それから、しわ伸ばしに休憩を取って、再開後、ボツボツ発言も出てきて、可なり夜遅くまで掛かって妥結の了承を「満場一致」で取り付けた。この時の教訓は、「余りにも完璧に遣りすぎると、かへって、不満が残る」「人に理解させるには、隙間を残して置かないと駄目」

そして、「納得をさせる」と言うリードの仕方だ。組合幹部になると会社へ復帰後昇進が早いと言うことを言われるが、正直、専従になる前から、「資本主義者」だと言いながら専従になったのは僕位だろう。当時、日産の販売系労組は、全国単一化されていた、京都日産出身のM氏が組合長だったが、専従を辞める時の送別会で、「増田君の組織を見ろ、生き生きと動いている」と言って呉れた。どちらかと言うと批判分子だった僕を褒めてくれたのは嬉しかった。京都日産の社長で復帰されたが、会社はご他聞にもれず、メーカー資本になってしまった。労働組合で批判していた事と会社の経営実務では違うのである。東京第一地区の事務所は僕、榎元、中島、福地、渡辺の男子と女子2名特に女子の書記さんは良く働いて呉れた。特に、斡旋物資を始めた頃から、職場からの電話が増えると書記さん達が、見る見る成長して来て、表情が明るく替わってきた。その内に「仁吉会」と言う組合内組織が立ち上がり、「増田を倒せ...」と言う声が出始めた。その中心人物は、野球部のマネージャーで結局彼は定年まで組合専従で全労災の専務までやって定年を迎えた。ある種の信頼関係があっての上での「増田を倒せ...」だった。

 Ps 自動車労連(当時) の賃金についての考え方

1.最低賃金の原則

2.同一労働、同一賃金の原則

3.異質労働、異質賃金の原則

4.最高賃金の原則(高生産性高賃金の原則)