タクシ―中古車350台輸出の思い出
★ Massy’sOpinion
・輸出中古車概況
僕が、東京日産の中古車部長を命じられたのは、1984年で、今から約40年位前の事である。海外旅行に始めて行ったのが、香港、マカオ、広州でこれが1981年、決して早い時期に行った訳ではない。然し、日本車の評判が海外にも知れ渡り、旅行中に船のボーイに「三菱の部品は手に入らないか?」と聞かれたことがあった。「何年式?どの部品?」と聞いても、「解らない...ただ友人が自動車屋をやって居てそれがあると儲かる...」と言うような話で、人づての話である。この種の話が、自動車の素人が聞いて帰国して、話を持って歩く。そして、話は針小棒大に伝わって来る。こんな時代から今では中古車輸出が年間150万台にもなろうとして居る訳で、特にIT化の著しい発展で人づての話がダイレクトに接触できる時代に成ったので、余計に大きなビジネスになって来ている。主たる市場は、発展途上国、要するにお金のない国であり、一方,中古車の発生は業界用語である「裾物」と呼ばれる年式の古い車でこの車を幾らかでも高く売れれば経営上大きなメリットに成る。これは、本当にあった話だが、僕の直接の上司はメーカーから来た人で、当時、アメリカ日産の社長に成った、有名人片山さんから国内の部品商でこういう部品は手に入らないか?という要望があった。そして、僕の親父がまだ部品商をして居たのを知っているので、「お前の所で、こういう部品手に入らなか?」と聞かれた。「えっおかしな話だな、片山さんが要望しても手に入らない部品が手に入る訳けは有りませんよ」メーカーは生産計画を3ケ月単位で組むので、緊急には在庫が無いので、急ぐアメリカのデイ―ラー間に合わないが、日本の部品商で在庫があればその方が少しでも早く間に合わせられると言う事だったのである。この様な経験が僕の中古車輸出に関する知識を人より豊富に持てた一因かもしれない。今朝、中古車の輸出を起業した慶応卒の若い人が書いているブログに「起業したけれど、儲からないので1年で辞めた」と言う記事が載っていたが、中々素人には馴染まない業界である。
・このミヤンマーへのタクシーの中古車を350台も纏めてこなせるところは、先ずないだろう。又、自動車業界で2度と出来ないことだと思う。当時の僕の中古車輸出の経緯を記録してみよう。実は、’91年に僕が日産特販の社長を任命された時にある条件を付けた。それは、日産自動車の中で中古車部に居た人、他にも日産と三井物産の合弁会社の立ち上げに関わった人、の2名を部下に付けて貰う事をお願いした。僕と専務の永田さん(鉄山の息子)皆、日産オークションを手掛けたメンバーである。‘93年には、此のスタッフが揃った。当時のミヤンマーは、ガッチリとした軍事政権、一応民主主義の形も取って、スー・チーさんが、抵抗運動を続けていたが、多民族国家で安定はして居るものの東南アジア周辺国とは可成り経済格差が生じていた。基本的には豊かな自然に恵まれた仏教国で対日感情は素晴らしくいい国である。当時のミヤンマー政権は’97年に経済振興のために「Visits Myanmar」と言う観光客誘致を計ることを決めたのである。其の為の交通手段として、「ヤンゴン市内にタクシーが必要だ」と言う事になったのだ。情報も乏しいし、予算も解らない。話はタクシー会社、芸能事務所等自動車素人の人からも飛んでくる。ミヤンマーの人には直接は、接触が出来ない。その内に個人でミヤンマーのコンサルチングをやって居るT氏と出会い話を進めることに成った。その人は、オリベッテイの香港所長を経験して成蹊大学出だった。永田専務とk君が話を詰めて呉れた。僕の東日時代の中古車部長の経験から輸出の商売は金銭の取引が一番のポイントである。増してや350台解体寸前の車でも在庫する場所、仕様の選択、整備の状況等細部に亙り決めねばならない事が有る。この過程の中で、T氏の顔を立てるようにセドリックのハイヤー上がりのストレッチリムジンを1台寄付させた。金額的には10万程度の簿価の物である。勿論、定期整備はキチンとやったがショックアブソバ―はさんざん考えたがコスト面で限度もあり、交換しないで出した。
・さて、次は輸送の問題だ。御存じのように輸出の取引には、CiF(=Cost,InsuranceAnd Freight)とFob(=Free On Board)と言う方法がある。又、為替の問題もある。僕は、東日時代から・日本円決済・FOBの取引を絶対条件としている。厳密に言えば、Free on board (甲板の上、渡し)ではなく、埠頭渡しである。Cifでやった場合、現地の何処の港ヘ搗けるのか?先方での荷揚げ後の保管は?と言うような事が起こる。そして、輸出に伴う通関業務は所謂「乙仲」業者に依頼をする方が安全である。この仕事も、全く同じ方法を取った。毎月、200台位のタクシー車を売って居ても下取り車は一台一台走行キロも使った年数も異なるし当然下取り価格も異なる。もう一つネックになった事は、ミヤンマーは「左ハンドル」である。前回のレポートに書いたように改造は出来るが、納期、価格面で先方の要望に合わない。
この点は一番交渉の中で時間が掛かった問題だった。最終的には政府が特認事項とすることに成った。次はミッションの問題だ。国内では殆どがオートマである。先方の希望は道路事情等からマニュアル・ミッションである。
・当時、僕は「経過損益計算書」と名付けた東京、神奈川のタクシーの時系列でのお客様の簿価の推移が解る様なプログラムを作り、お客様の使っている車両の管理をしていた。リースをしたのと同じ様なものである。そこで、350台の価格、仕様等の車両の代替を促進させたのである。輸送は、結局ミャンマーの政府がその他の物資を輸出入に使っている船を使う事にした。そんなに大きな船ではなく一回で30台位しか詰めない大きさである。船賃は新車でも、中古車でも変わらない。混載であるから、ダンプの中古車の荷台にまで、載せたりした。燃料はLPGの儘、使うと言う事にした。当時、ヤンゴン市内に2ケ所位LPGスタンドがあった。
・最終仕様は、右ハンドル、LPG、タイヤバッテリーは新品、整備は6ケ月点検済み 鈑金の必要のない車。塗色はその儘、会社名は消す、「右ハンドル」と言う事にした。
勿論、シートの破れ等は無いもの輸出検査の基準には合格する様に仕上げた。
(次回続く)