★Massy’sOpinion
僕は日刊スポーツを65年位読んでいる。この間2月4日の記事で「右投げ左打ち」論が大きな記事で出て居た。(差し込み参照)昔から僕が考えて居た事で面白かったと同時に旧友に聞いて見た。
Ⅰ、僕の生まれは1934年 巨人軍の長島世代である。東京の真中、芝(港区)で生まれた。
小学校の時はゴロベースで野球を覚え、群馬県桐生へ疎開をし、そこで空中ベースを覚えた。ゴロベースと違って投げるボールを板切れのバットで打つ空中ベースを初めて見た時の驚きは今でも鮮やかである。中学の時、オドウール監督の率いるサンフランシスコ・シールズが来日しその中に、スタインハウアーと言う左打ちの一塁手が居り、格好が良く、憧れて左打ちを始めた。アメリカの野球を見たのはこれが初めてである。以来、大学、社会人を経て、今日まで野球狂である。最近の日本人大リーガーの活躍を見ると全く夢のようである。TVで見ているが、どうしても日本人大リーガーの活躍を間近で見てみたい。
2、中学では、お昼休みにお弁当を掻き込んで、直ぐ校庭に行きソフトボールを始めた。遊び半分に左で打つと結構当たる。ライトの方に打てる。当時は良い当たりは、右バッターはレフト方面に打つこと、ライトに飛ぶのは振り遅れ...僕は骨も細いし、力もある方ではない。振り遅れ気味にライト方面に飛ぶのが多かった。そんなことで左打ちに成ったのである。
3、成蹊中学の野球部は当時、珍しく3人の右投げ左打ちが居た。気障なチームだった。サードの中川君、ピッチャーの伊丹君ピッチャーをやらない時はファスト、僕はファストとライト言うようなチームだった。チームの部員も14~5人当時は未だ旧制高校があり、高校の練習を手伝わされたりしていたので、硬球の練習もあったが、中学の試合は勿論、軟球だった。中学では武蔵野一中が強く、確か、3人位早実~早大に進んでいた筈だ。 後日談だが、武蔵野一中野球部、西高~早稲田、会社は僕と同じ東京日産、労働組合と言う経歴の親友が居る、僕が定年になる送別会の時、「中学当時のスコアブックが1冊あるが成蹊と良く試合をしたのでスコアブックが一冊残っている。確かの5番ファストでマッサンの名前が出て居たよ」と言って呉れた。「40年近く一緒に居たのに何故もっと早く言ってくれないのよ」当時の成蹊高校はいい選手が3人位居て、明治高校の監督が、あの島岡さん、練習試合で延長18回の試合をして負けた事が在った。未だによく覚えて居る。
4、振り返って見ると、いろんな六大学の大正時代の名選手の息子さん達と一緒に野球で出会いお付き合いをさせて頂いた。偶然にも右投げ、左打ちが多いのである。慶応高校に進んでからは又、右投げ左打ちの野々山君と山岡君が外野でライバルになった。時代も変わって来て、大学には入ったら、左打ちが多かったが、上級生では右投げ左打ちは桐生高校からの藤野さん(セカンド後日石)だけ、後は左打ちに多湖、花井(後プロ)、野村の強打者が多かった。僕より後輩では、富山、西辻、山田(後塾高監督)とみんなフアーストだった。
5、二神さん
一年上の人で野球部に入って来た。幼少時に小児麻痺を患って、後遺症でビッコを引いていた。右足に後遺症が残って居たのである。早く走れないので、ピッチャーをやって居た。指、肩は異状ないのでオーバースローで投げていた。練習の時、皆、相手をしない...僕は進んでキャッチボールの相手をしてあげた。ピッチングの時はキャッチャーをしてあげた。何か気が合った。或る時、「オイ、マスお前今日帰りに家へ来いよ。バッテイング、家の親父に見て貰え...」「何で?」「家の親父は立教大学のセンターだったんだ」そんなこと初めて聞いた話。驚いて帰りにお宅へ行った。応接間でスイングさせられてその時に、バックスイングは45度にバットを引け...(ヒッチをするなと言う事)」と言われた。大正時代の立教の中軸を打っていた人で、初めてコーチを受けた人だった。当時、ジェームススチュアートとジューンアリソンの「甦る熱球」雙脚の投手ストラットン物語と言う映画があった。右足、義足の人が大リーガーに復帰する話である。二神さんはストラットンと綽名を付けられていた。後日談がある。僕が慶応で野球をやりたいと言ったら、転校してから、「これ親父が使っていたバットだ」それとゴルフのドライバーと硬球とゴルフボールを持って我が家へ来てくれた。二人で三井のグランドへ行って、トスバッテイングを始めたら、バットが折れてしまった、ヒビが入ったのである。如何にせん大正時代のバットである。ルイスビルスラッガーでグリップの所にコルクが巻いてあるものだった。直ぐ家へ帰って、セメダインをヒビの所に塗り込んで、二神さんは「バレないかな?」と言って帰って行った。ゴルフのドライバーはヒッコリーのシャフト、パーシモンのヘッドでこれは貰った。僕が大学へ入って、野球部に入って神宮へ行くとよく二神さんの父上も立教の応援に来ていて、ネット裏で顔を合わせると「増田君、こんなところで何をして居るんだ?グラウンドへ行けよ」と言われて恥ずかしかった。バットの事は何も言われなかった。屹度、ストラットンがばれないように家の中に置いたのだろう。この時代は「前で打て」と言う時代で、バッターボックスで構えた所から、バットのヘッドが45度で上に引っ張られるようにとバックスイングの仕方を教わったのは忘れて居ない。
6、伊丹君 彼の父上も確か殿堂入りしている早稲田の監督もされた、大先輩でありアマチュア―野球の功労者である。いろんな会で伊丹君と会うのだが余り野球の事は話す機会が無かった。一度、彼が右投げ左打ちに成ったのは、「親父さんにいわれたの?」と言う事をジックリ話したかった。昨年末、久しぶりで会う機会があり、ジックリと聞いて見た。親父さんは「野球をやれとは言ったが左で打てとは言わなかった」そうだ。「善福寺池でトンボを取る時も自然と時計回りにアミを回していたよ」と言う事だった。自然に左打ちだったそうだ。
7、山岡君 高校2年の秋、野球部長の長尾先生から、教員室に来るように呼び出された。「さて、何だろう?お叱りを受ける様な事はして居ないし...」恐る恐る教員室の先生の所へ行くと、一人のご婦人がいらっしゃる。先生がそのご婦人の傍へ呼んで、「こちら三田倶楽部会長の山岡さんお奥様だ。君と同級生の息子さんがいらっしゃるのだけれど、今度、野球部へ入り、外野を遣りたいそうだ。君が友達に成って呉れ...」と言われた。
そして、次の日から練習に出て来た。初めての出会いである。「何と右投げ左打ち」の外野で全くのライバルが増えた訳だ。彼は非常に大人しく、寡黙である。「おい山岡君キャッチボールしようぜ...」と言う事で付き合いが始まった。其の頃、「左打ちの方が一塁へ早く行ける」と言う話が結構あったが、野々山君も一人っ子で右投げ、左打ちだった。夏の大会は法政二高に負けて割合と早く終わってしまった。さて、大学で何をやろうかな?と考えてアメリカンフットボールを誘われるままに12月位迄やって居た。山岡君とは付き合っていたが、ある日、彼のお宅へ呼ばれて、父上の三田倶楽部会長から、塾高から大学の野球部へ入らないと選手が足りなくなってしまう。野球部へ入れと言われた。当然、山岡君も入ると言う事でそれならと野々山君、早川君とマネージャーの酒井君と5人で入ることに成った。
先日伊丹君に「右投げ左打ち」に成ったプロセスを聞いたので、山岡君にもう一度、趣旨を話し親父さんから「左打ちにしろ」と言われたか?聞いて見た。「一塁まで早く行けるぞ」とは言われたがそんなに強くは云われなかったと言う事だった。
8、これで僕のかねてから考えた疑問の結論が解けた様な気がして来た。僕のナガーイ野球人生の中で、僕は左打ちに成ってよかったのか?と言う疑問が残る。最近では、左利きの人は平気で左で箸を使い、左で字を書く。昔は、左利きは箸の持ち方は、右利きに直されたものだ。 天性の利き腕と言うのがあるが、僕は大学の時、ボクシング部のフライ級の友人と「お前はディフェンスだけだぞ」と言って2ラウンド練習をした事が在る。「ディフェンス」だけと言っても 打たれれば撃ち返してくる。結構本職のパンチは痛かった。その時、僕は、右手を前に構えていた、「おい、お前 ギッチョかよ?」と言われた。サッカーボールをけるのも右足。右利き、左利きは良く解らない。
9、さて、思い出話はこの位にして、昨今の「右投げ左打ち」を考えて見ると、筒香がMLB入りして、祥平と筒香が今年の注目の的になるだろう。勿論、福留も未だNPBで頑張っているが、僕自身は如何しても、祥平と筒香にポイントを絞って見る積りだ。高校時代から筒香を見ているしプロで凄く成長した。意外に守備の適応能力も高い。色んなポジションを守れる。右投げ左打ちのスーパーは、イチローだ。祥平が二刀流でどれだけの成績を上げられるか?興味と期待深々である。僕は、当然ピッチャーと指名打者と思っていたが、イチローは、「一年毎にピッチャー、バッターとやれば良い」と言って居たので、驚いてしまった。
イチローの様に長い期間働けないと記録は生まれないだろう。もう一つ僕の野球見物の経験では、イチローの様にレフト方向にキチンと打てないと高い打率は残せないだろう。右投げ左打ちはレフト方向に打つのは、如何しても天性の左効きに劣る様な気がする。事実、経験からすれば、流し打ちで強い打球を飛ばすのには、凄い練習が必要だ。果たして、イチローの様にストイックに練習できるだろうか?増して、一年毎にピッチャー、バッターでは大変だ。筒香はパワーは、あると思うがレフト方向への打ち方はそれほど上手くないと思う。僕の大学時代、一年下の右投げ左打ちはみんな引っ張るのは凄かったが、流し打ちは余り巧くなかったと思う。当時の坂井監督は右投げ左打ちは余り好まなかった。最近の選手は、リトルの時から左打ちをして居るし、何の抵抗もなく左打ちに成って居る。但し、右投げ左打ちは右肘への負担は多く掛かる。祥平は投手だから、余計に大変だ。これからは、小さい時から右左差がなく使えるように子育てをすることが必要だ。でも、面白い事に右投げ左打ちの選手が、野球をやめて、ゴルフをやる時に皆、右打ちでゴルフをやる、その理由は、左のクラブは、あまり売って居ないとか...しかし、右投げ左打ちのプレーヤ-でも、ゴルフをやっても打球は左打ちの打球と同じ様な軌道で飛ぶ。面白い物だ。