★Massy’s Opinion
・たまたま新聞の広告を見ていて「補欠のミカタ」と言う本を見つけた。
先ず、著者の、或るいわ出版社の販売戦略に引っ掛かったのかも知れない。“ミカタ”の意味が見方、味方、のどちらなのか?大変に興味があったので、早速、アマゾンで買ってみた。僕自身もブログで、「スコアブックの無い野球」と言う一文を書いている。僕も小学校に入る前から、生まれた芝御成門、の歩道の上でゴロベース、(三角ベース)を始めて小学校は愛宕小学校にはいり、運動場は屋上だったが、そこでもゴロベースを遣り、3年生で群馬県桐生市の伯母の嫁ぎ先へ疎開をした。桐生は当時、桐生中学が野球が強く、編入した昭和小学校も野球が盛んだった。お昼休みには校庭でテニスボールの軟球をバット位の板切れで打つ野球を夢中でやって居た。この時に「空中ベース」を始めてやっとボールに当てる事が出来て、嬉しかったものだ。その頃から桐生は太田にある中島飛行機を狙った空襲があり、危険だと言う事で東京に返されてしまった。丁度、親父は浜田山に引っ越していたので、都心の御成門に比べたら、全くの田舎で畑の中の神田川沿いに柏の宮公園がありそこで近所の子供たちが集まり、軟式野球をやって居た。毎日、毎日学校から帰ると直ぐ野球をやりに行って居た。中学は成蹊に入ったが、旧制の7年生高校で、丁度、学制改革があり中学3年と高校3年に別れ、中学は軟式、高校は硬式に野球部は別れた。それでもグランドは一つで高校の練習が終わると軟球に変えて中学の練習と云う様な野球部だった。中学は、結構強くて武蔵野市では武蔵野一中と言う強いチームが有ったが、何時も其処と好試合を演じていた。当時、珍しくも早実へ入った奴が二人いたチームである。僕らのチームには,右投げ、左打ちが僕の他に二人いた。9人のうち3人の右投げ左打ちのチームだった。このチームでは僕のポジションはライト、打順は5,6番だった。この時はスコアブックはマネジャーが付けていたが、保存はされて居ない。慶応高校でもマネジャーがスコアブックを付けていたが、保存はされて居ない。大学では確か17人一緒に入ったが、浪人生が3人、塾高出が6人、後は殆どが甲子園出と言う様な状態で、僕ら塾高出は先ず体の大きさが違うし、バッテイング練習もさせて貰えない状況だった。それでも、いっもボールに触れられるのは、バッテイングピッチャーとバッテイングキャッチャーである。今で言へばスタッフと言う事か?「早稲田、立教、明治の三校の練習を見て来い」と阪井監督に言われた。帰って来て、ブルペンキャッチャーを遣り、相手チームのメンバーを予想してサインを出してシュミレーションをしたのである。こんな事で野球が好きで4年間在部することが出来た。新人戦以外ユニホームを着た事がない。会社へ入ってからは野球部は有ったが、全くの草野球、余り面白くなかった。キャッチャーには、巧い奴が居たので、僕は、内外野どこでも言われるポジションをやって居た。硬式から軟式に成るとバッテイングは打てない。大学野球部の硬式経験者と言う事で見られるが、軟球はボアーンと言うスイングをしないと駄目なのである。
2年後に早稲田の野球部出が入って来た。内野手である。そいつも初めはバッテイングでは苦労していた。晩年ゴルフをやった時は280ヤード位凄く飛ばしていた。翌年、会社の上層部で「硬式野球部を作ろう」と言う話が出て、選手集めに入った。硬式野球部が出来ている訳ではないし、中々選手集めは出来なかった。殆どが、僕と同じ様な2軍半の部員である。早稲田4人、明治2人、立教バッテリー、高卒4名を集めてチームを作った。処がグランドを購入する話が折からの自動車ブームで車置き場に成ってしまった。さあ、サギみたいなものである。この連中を集めて、仕様が無いから港区の軟式野球連盟に入り軟式と準硬式と両方で兎に角試合をして文句を収めた。練習は神宮の軟式野球場で週3日2時間やったのである。僕が監督で早稲田から来た遠間君がキャプテン。立教のバッテリーは兎に角良かった。Ⅽクラスから出て、1年目が77勝4敗だった。その後、成績を認められてAクラスに入り、甲子園出の投手を早稲田と立教から取り、準硬式の大会で港区優勝、都大会で優勝、東京代表に成ったのである。全国大会では、3回戦で負けてしまった。
・東京六大学野球連盟に60歳以上のチームで「六球会」と言う会があり、毎年、秋に神宮球場で野球試合をしている。今から20年位前にこの東京日産の野球部の東京代表に成った時のメンバー8名がそれぞれの母校のユニフォームで出会ったのである。
さて、話がタイトルからそれてしまったが、「補欠のミカタ」の様に野球の世界以外でも信念をもってそれぞれが活躍している。「嫌煙権活動」をしている早稲田出の渡辺君(僕のチームの一人)など素晴らしい社会活動をしている。元プロ野球では、杉下さんを筆頭に色んな人が参加される。然し、大体3年位かな...ゴルフは参加者が多く、一校8名が制限である。其処では、大体、補欠のメンバーが活躍する。皆、その日の為に出来る範囲の練習はしてくる。皆、野球が好きで、没頭した野球生活の中で、何かを学んで、人生の中に生かしている。僕は、78歳まで六球会に参加していた。一試合7回戦なので、打席は3回位しか回ってこない。スコアブックが無いから自分でスコアを付けるが、4年間で、3,2、2,1と4年間連続安打した。最後は代打でレフト前ヒット、早稲田の故大久保君(早稲田学院)昔からの顔馴染み、(彼も右投げ、左打ち)が驚いていた。本当に快心のヒットだった。