イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「大人の恐竜図鑑 」読了

2018年11月08日 | 2018読書
北村雄一 「大人の恐竜図鑑 」読了

大人になってからも恐竜が大好きな人というのは大人になっても魚釣りが大好きな人と頭の構造はそれほど変わらないのだろうか?
魚釣りを研究する科学者はいないけれども恐竜を研究する科学者はいるのだからむこうの方がよい構造をしているのだろうか。
海面下も覗き見ることができないけれども化石だけ見ながら分類やましてやその生態を想像するというのもまあ、好き勝手にできて面白いのかもしれない。

僕がまだ科学と学習を読んでいた頃には、ステゴザウルスとブロントサウルス、ティラノサウルスや空を飛ぶやつ、海にいる首の長いやつくらいしか載っていなかったように思うけれども、最近は大きいやつから小さいやつまでやたらと数が多くなったものだ。
そういえば、トリケラトプスってかっこよかった。
恐竜の時代は三畳紀から白亜紀まで、地質時代でいえば中生代、2億5000万年前から6600万年前という約1億8500万年という長い期間だから恐竜も進化を繰り返してどんどん種類も増えてきたわけだ。

興味深いのは、鳥は恐竜から進化したということを大きくクローズアップしているところだ。
たいがいの想像図というのは象の皮膚のような感触で描かれているけれども、実はそこに羽毛をまとったものが多かったというかほとんどが多かれ少なかれ羽毛が生えていたのではないかと考えられている。
その羽根を使ってどのように行動していたかを時代ごとに解説を加えているのだ。最初の羽根の役割は陸上を早く走るための補助動力であった。そのうち、その補助動力を使って木の幹を上るものがでてきた。そこから滑走することを覚えて大空に飛び出した。最新の考察というのはこんな感じだそうだ。
以前の考えでは、鳥の祖先(始祖鳥なんか)は最初から木の上で生活していてそこから滑走することを覚えたと言われていたけれども、爪の形や、元々羽ばたく力を持っていたと思われる筋肉の付き方を総合すると新しい見解が出てくるらしい。

また、一応魚好きの僕にとっては魚の進化も気になる。魚は恐竜ではないのでこの本には直接的には書かれていないけれども、それを食べていたであろう翼竜のことが書かれている。(ちなみに翼竜や海を泳いでいた首長竜は恐竜ではない。)三畳紀の頃の初期の翼竜の奥歯には獲った獲物をすり潰して食べるための歯があったそうだ。それは当事の魚は甲冑のようなエナメル質の装甲で覆われていたのでそうするしかなかったのであるが、時代が下ってジュラ紀の時代になるとそれがなくなったのでただ魚を救い上げて食べるための機能をもった嘴に変わっていく。それは魚自体が今のような鱗に変わってきて飲み込みやすくなって翼竜の姿も変化してきた。魚も明らかに進化をしてきたのだ。

大人の・・・・。というタイトルはどういうところから付けられたのだろうか。今は「ブロントサウルス」という名前の恐竜は存在しないことになっている。ブロントサウルスはアバトサウルスという名前に改名されている。
なぜこういうことが起こるかというと、1800年代後半、化石が見つかると細かく分析することなく学者たちが勝手に名前をつけていたそうだ。ブロントサウルスと名付けられた個体はそれより前にアバトサウルスと名付けられていた個体と同じものだと結論付けられブロントサウルスという名前が消えてしまった。そしてこの二つの恐竜を命名したのは同じ人物だったというから面白い。発掘された1本の歯からでも命名されたものもあったそうだ。そういうことが分類、生態、復元図その他諸々においておこなわれていたということを批判的に書いている。
そんなところが「大人の・・」というタイトルにつながっているのかもしれないが、そこは著者が日本人であるから表現がやわらかだ。「ワンダフル・ライフ」を書いたスティーヴン・ジェイ・グールドなんかはライバルをもっとけちょんけちょんにこき下ろしているから、「大人・・」というにはまだまだ世間ずれしていないようにも思うのだ。著者もサイエンスライターという立場なので学者ほど権威がないという弱点を持っているからかもしれないけれども・・・。

トランプ大統領の大きな支持者であるキリスト教福音派は進化論を否定しているということで知られているが、これだけ精巧に作られてゆく生物を見ていると、確かに神様でなければお創りできないと考えても不思議ではないと思うのである。
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「動的平衡3 -チャンスは準備された心にのみ降り立つー」読了

2018年11月07日 | 2018読書
福岡伸一 「動的平衡3 -チャンスは準備された心にのみ降り立つー」読了

動的平衡のシリーズも3作目になってきた。少しずつ“動的平衡”からはずれて話題の幅が広くなってきたのでさらに面白くなってきた。特に芸術に関連した話題はなにやら神秘的な雰囲気もまとっていて面白い。著者はフェルメールだけを展示している美術館の館長もやっているということなのでそちらのほうへの造詣はそうとう深いようだ。

芸術と生命に関するエッセイは連続性について書かれていた。何か連続的に並んでいるものというものには心引かれるものがある。自然世界では空に浮かぶウロコ雲の連続であったり、シダの葉のひとつひとつ、人工的なものでは神社仏閣の屋根瓦。そういうものを見たときに何かもっと先へ続いてゆく未来への命のつながりを連想するからだろうか。今回はそんな感覚についてエッシャーを取り上げている。
エッシャーの絵画の中には鳥の連続した絵がしだいに魚や畑に変化してゆくようなものや水の流れが上下して永遠に流れ続ける水路のようなものがあるけれども、エッシャーはそこに留まることのない時間や空間の連鎖の意味を込めているというのだ。

そしてリズムについて、これはストラディバリウスを取り上げているけれども、それは古い楽器が奏でる音が持っている長い歴史に思いをはせているのであるけれども、やはり人間はリズムで生きている。心臓の鼓動も創であるけれども、脳の中もある一定の電気的なリズムで動いているそうだ。だから音楽を聴くとそのリズムと自身のリズムがシンクロして心地よさを呼び覚ますのだと思う。そこにもずっと続くものを見ているような気がする。

もうひとつ、記憶は遺伝するのか。これにはマウスを使った実験で、ある臭いをかがせたあとで電気ショックを与えられたマウスの子供はそうされなかった親から生まれたマウスよりもその電気ショックに対する反応が敏感になるということがわかったそうだ。
DNAの配列で突然変異するのではなく、DNAの働き方を調整する情報が隠れたかたちでDNAに書き込まれているというのだ。著者は音符でたとえているが、フォルテやピアニシモという演奏記号のようなものが遺伝されたように見える。
歌舞伎者なんてずっと世襲で、どんな大根でも回りが褒めそやしているだけだろうと思っていたけれども、やっぱりそういうことってあるんだなと、海老蔵を見直した。

なんだか脈絡のないテーマが並んでいるようのも思えるのだが、そこにはやはり“動的平衡”というものが通奏低音のように流れている。生物学者は細胞を観察するとき、標本をスライスしその中身を顕微鏡を通してみるのだけれども、それはその細胞の一瞬の姿を垣間見ているだけである。生きている細胞を構成している分子は常に入れ替わっている。
生命は止まっているように見えるけれども、物質的には常に入れ替わりを繰り返している。それでも生物として、また人として記憶や本能が失われないのはそれが物質としてではなく、DNAの情報、すなわち分子の配列として保存されているからである。
となると、やはり僕たちの本質は体ではなくて情報ということになるのだろうか。遠い将来、やはり人間はコンピューターの中の情報として生きてゆくことが可能になったりするのだろうかと、この手の本を読むとうなってしまうのだ。

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「アカガミ」読了

2018年11月01日 | 2018読書
窪美澄 「アカガミ」読了

説の舞台は2030年ごろの日本。数少ない若者たちは恋愛やセックスということに対して興味を失い少子高齢化が加速度的に進んでいる。
これを危惧した日本政府は、「アカガミ」という政策を発動する。
この政策は、志願した若者を政府が手厚い保護下で子作りを促そうとするものなのではあるけれども・・・。
という、一見デストピア小説のような書き出しで始まる。
しかし、物語が進んでゆくと、人を信じることができない女性が「アカガミ」政策の中で人を信じ、愛することを覚え、母となることで強くなってゆくというまったく異なったストーリーになってゆく。プロットがプロットだけに何か謎をはらませながら物語が進んでゆくことで生と性、そして死というものを浮かび上がらせようとしている。

ネットでの著者のインタビューを読んでいると、こんなコメントが出てくる。

「小説とは、何かが少し欠けている人の為のものではないかと思うんです。」

確かに主人公もそんな何かが少し欠けた女性だ。ただ、そこはあまり書き込まれていないような気がする。軽い。
窪美澄という作家はけっこう人気があるらしく、書架に残っていた本はこれ1冊だけであったほどだが、この本を読む限り読者は僕みたいなおじさんではなく、もっと若い女性のようだ。作家のデビューが、女による女のためのR-18文学賞という性描写を強調しているような作品が応募される中で大賞を取ったところからスタートしているのを見ると確かにそのようで、本を選ぶときはもっと作家のことを勉強してからでなければならないと改めて思うのだ。
(確かにそういうところは必要以上に書き込まれている・・・)

ただ、“何かが少し欠けている人の為のもの”という表現は確かに的を射ていると、小説ではなく、このインタビュー記事のほうに納得をしてしまったのである。
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「釣魚をめぐる博物誌」読了

2018年10月30日 | 2018読書
長辻象平 「釣魚をめぐる博物誌」読了

魚と釣りに関する薀蓄がぎっしりと詰まっている。
著者は江戸から明治、昭和初期にかけての釣り文化に詳しい釣魚史研究家であり、魚類生態学というものを大学で学んでいたそうだ。

本書は、海の魚、川の魚、あまり食卓や話題(釣りの世界では)に上らない脇役の魚たち、そして怪奇談から古今東西の話題、そのこぼれ話。そんな章立てで編集されている。

へ~。と思ったり、なるほど!と思ったりしたことをいくつか。
・フグの毒はテトロドキシンという名前だけれども、テトロドは「4」という意味(テトラポッドのテトラと同じ)でオドンは「歯」トキシンは「毒」という意味。上下あわせて4枚の歯を持っている魚から分離された毒なのでこんな名前がついたそうだ。
「007 ロシアより愛をこめて」でジェームズボンドが瀕死の重傷を負わされるのが日本のフグから採った毒だったらしい。

・鮎という字は中国ではナマズのことを指すけれども、これは日本に入ってきたときに間違えたというのは知られた話だが、鮎の字を取られたナマズはどうして鯰という字が当てられたか。鮎の音読みは“ネン”だそうだ。そういえば粘液という字のつくりの部分は鮎と同じだ。で、鯰のつくりの部分も“ネン”と読める文字を当てて鯰になったとか。

・魚の訓読みは“さかな”だけれども、常用漢字としては昭和48年になってはじめて採用されたそうだ。それまでは“うお”もしくは“ぎょ”としか記載されていなかった。もともとの“さかな”は肴であるが、この文字の意味はお酒のおつまみに供される食材のこと。魚を使ったものが多かったのでいつしか魚も“さかな”と世ばれろ用になった。だから正しくは“さかなつり”ではなく“うおつり”なのだが、ここでふと思い直した。僕の場合、食べたくて魚を釣りに行ってるのだから、やっぱりここは“さかなつり”でいいのではないかと。キャッチアンドリリースの人たちはこれからは“うおつり”に行くと言ってもらいたい。(まあ、この人たちはそうは言わずに、フィッシングというのだろうね。)

・釣りと怪談話とはかなり縁があるそうだ。人気のない暗い場所でそれもひとりでという場面が多いから自ずとそうなってくる。また、水辺というのは死と隣り合わせの場所でもある。四谷怪談、牡丹灯篭などにも魚釣りの場面が出てくるらしい。
そしてこの本には和歌山市が舞台の怪談も紹介されている。場所は雑賀崎から田ノ浦にかけてのとある岩場での出来事。鈴木周徳という男がよく釣れる秘密の場所を見つけたということで夜な夜な釣りに出かけていた。しかしながらある夜は水を頭からかぶったようにずぶ濡れで帰ってきたけれどもどうしてそんなことになったのか当の本人は覚えていない。そしてとうとう、喉首をかき切られた状態で死体となって発見された。自殺のようだが、持っていた匕首は鞘に納められ、少し血がついていた。はて、自分で首を切ってそのあと鞘に納めたかという話になったが、発見された場所というのが、怖い出来事が起こると悪い噂のあるところで誰も近寄らなかったという場所だった。人が近寄らないから魚がよく釣れたというのだが、雑賀崎から田ノ浦ってしょっちゅう行ったり来たりをしているが、はたしてどの場所なのだろうか・・。

・忠臣蔵の話。あだ討ちに成功した赤穂浪士はその後、切腹するまで預かり先の大名屋敷ではヒーロー扱いで丁重なもてなしをされた。出てくる料理も豪華なものばかりだったらしいのだが、大石内蔵助はそれまでの1年間に食べ続けたイワシと黒い米が懐かしいと嘆いていたらしい。窮乏のなかで本懐をとげたというところだ。
 そして、吉良側の人には釣り好きのひとがいたそうだ。「何羨録」という本は日本最古の釣りの指南書と言われているそうだが、これを書いたのは津軽采女4千石の旗本であった。
采女の正妻は吉良上野介の次女であったことから、討ち入りの翌日には吉良邸に駆けつけたらしい。もともと暇な旗本であったうえに、吉良側だとなると、「世評的に出世の道が途絶えた」ということで余計に釣りにのめりこんだという説もあったそうだ。なんともうらやましい。この本は享保年間に書かれたということなので、そんな心境の中で書いたということになる。また、この人はあの、生類憐みの令を出していた五代将軍徳川綱吉の秘書官役という側小姓であったというのが驚きだ。そんな立場でも釣りが好きという一本芯が通っているところがかっこいいではないか。
序文にはこんな言葉が残っているそうだ。

「嗚呼、釣徒の楽しみは一に釣糸の外なり。
利名は軽く一に釣艇の内なり。
生涯淡括、しずかに無心、しばしば塵世を避くる。
すなわち仁者は静を、智者は水を楽しむ。
あにその他に有らんか」

口語訳では以下のとおり。

釣り人の楽しみはやはり“釣果”に尽きるだろう。
社会的名誉は重要ではない。いま、自分の世界はこの釣り船の中が全てであり、完結している。
だが生きていくとそれだけで、どうしてもなにかと煩わしい。難しいもので。
だから自分は時々、そんなことは忘れることにしている。
つまり
仁(慈悲や憐憫)の心を持つ者は心静かであることを楽しみ、
智恵のある者は水(釣り)に楽しむのだ。
これほどの楽しみがあるだろうか。

釣りはこうでなければ・・。

とまだまだたくさんの話のネタが山盛りなのだ。
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「10分後にうんこが出ます~ 排泄予知デバイス開発物語 」読了

2018年10月25日 | 2018読書
中西敦士 「10分後にうんこが出ます~ 排泄予知デバイス開発物語 」読了

排便というのは切実な問題だ。かなり太っていたころ、時間も所もかまわずであった。
だから、著者も書いているように、自分がよく立ち寄る場所のトイレの位置はほぼ頭に入っていた。
船で釣りに行くようになってからも船上で大きいほうをもよおすとやっかいなので、家を出るかなり前から何度もトイレに行って準備をする。いつ出てくるかも知れないという不安は今でも続いているのだ。
それでも年に何回かは船べりからお尻を突き出してウンコをすることがある。さすがに、ブログには「今日はウンコをしました。」とは書けないだけなのである。
しかしながら、お尻の表面をなぜてゆくそよ風は楡野鈴愛や萩尾律が語るまでもなくまことに心地よいのは言うまでもなくこれはこれでうれしいのである。
多かれ少なかれ人にはそんな経験があるのではないだろうか。(ないか・・)

そういう、人々が日頃から不便に思っていることを解決すべく起業家を目指した著者が、タイトルのとおり、便意をもよおすタイミングを知らせるウェアラブル端末を開発するため、ベンチャー企業を立ち上げて販売にこぎつける一歩手前までの物語だ。

経営の勉強をするためにアメリカに渡った著者は、引越しの日に路上でウンコを漏らしてしまうという失態を演じてしまう。そこから、事前に出そうな時間がわかればこういうことにならないのではないかとそういう機器を開発するために試行錯誤をするのである。
事前にフィルムのようなものを飲み込んでおいて排便したときはフィルムに包まれているようなシステムはできないかとも考えたようだが、起業家というのはやはりこんなありえない発想を持った人でなければなれないし、成功することもないのだろうと考えてしまう。
普通に考えたら、こんなことは実現することがない。しかし、実現しそうでもないことを考え続けてその中から実現できそうなものを考え出す。それこそがイノベーションなのだろう。
ウチのボスの言っていることも、いつもこの人はアホではないだろうか?と思えることがしばしばなのだが、多分、「この人はアホである。」と思ってはいけないのだ。紙一重でアウトではあるのだろうけれども・・・。

そして、周りの人を巻き込む力、これも必要だ。著者はまったくの文系の人だそうで、電子回路などというものにはまったく理解がなかったそうだが、自分の知識が無い部分は友人、何かの集まりや会議、それこそ合コンで名刺交換をしただけの人までも巻き込んで自分が実現したいことに突き進んで行く。投資を呼び込むこともしかりである。

はやり起業家、それも成功する人たち(著者はまだ成功したひととはいえないのかもしれないが。)というのは普通の人とはちょっと違うのかもしれない。普通という基準もあいまいではあるけれども。

この会社のホームページを見てみると、装置はかなり大きく、装着も難しそうだ。著者がかつて失敗した場面を救ってもらうにはどうなのかなと思うけれども、この装置は最初の意図からは少し離れて、介護の場面で活躍しているようだ。この装置が介護の場面で役に立つというアドバイスを得たのも、人と人のつながりであったと書かれている。

ファイナンスやアカウンティングの知識は持っていて当然。そのうえにとんでもないことを発想する頭の構造と、いろいろな人を巻き込むバイタリティというのもが必須であると、この夏、研修で聞いていたファイナンスやアカウンティングの内容がさっぱりわからなかった僕は、「当然」の部分から欠落しているから、まあ、違う世界の話であると最後は冷めてしまったのである。

この内容から考えると、この本は図書館の「介護・看護」の書架に並んでいたのだが、実はビジネス書の書架のほうがふさわしいのではないかと思う。
そして、この図書館であるが、本屋もしかりなのだが、僕は本の前に立つと必ず便意をもよおす。ほぼいつもだ。
テレビでだれかもそういうことを言っていたのだが、便意と本棚というのは何か関係があったりするのだろうか・・・。
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「もし文豪たちがカップ焼きそばの 作り方を書いたら 青のりMAX」読了

2018年10月24日 | 2018読書
神田 桂一、菊池 良 「もし文豪たちがカップ焼きそばの 作り方を書いたら 青のりMAX」読了

焼そばシリーズの第2弾だ。そうとう人気があったのか、すぐに第2弾が出版されたようだ。今回は120人の作家やアーティストがカップ焼きそばの作り方を書いている。

しかしながら、その中で僕が読んだことがある作家はわずか9人ほど。それぞれのパロディの元本となるともっと少ない。しかし、今回は師の著作もでてきた。タイトルは、「輝けるフタ」。ベンキャット砦でのウェイン大佐とのやり取りの場面だが、よくできているなと感心してしまうのである。

どこかの国のことわざに、「書物は書かれすぎた。」というものがあるそうだが、世の中には本当にたくさんの作家と本があふれている。
このことわざは、本来、「もう、書くことがない。」という意味なのが、僕にとっては読みきれるものではない・・。と取れてしまうのだ。

そしてまた、続編が出版されるとまたきっと読んでしまうのだろうか・・・。
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「ぼくの生物学講義―人間を知る手がかり読了

2018年10月20日 | 2018読書
日高敏隆 「ぼくの生物学講義―人間を知る手がかり読了

著者は以前に読んだ、「ソロモンの指輪」の翻訳者だった。そして日本でも有名な動物行動学者だったそうだ。
その著者が動物行動学的に見た、「人間とは何ぞや。」という講義を精華大学でおこなった内容を本にまとめている。

人間と他の動物の決定的な違いや言語とは、人が作る社会とはといったことを講義している。

人間と他の動物との決定的な違いは2足歩行することと、毛がないことだ。2足歩行するようになるためには骨の構造から、内臓の固定方法(4足歩行の動物がそのまま直立歩行をし始めると、内蔵は重力で全部下のほうまで落ちてしまうそうだ。)まで変化をさせなければならなかったのだが、そんなにしてまでどうして2足歩行に進化したか・・・。草原では隠れる場所がないから背伸びして周りを警戒しているうちに2足歩行になったのではないかというけれども、本当だろうか?

そして、毛がないこと。これは森から草原に進出したとき、森にいたときよりも体をはるかに動かす必要があった。それは天敵から逃げるためであったり、獲物を捜し求めるためであったりするのだが、そのときに体の熱を逃すためには毛が邪魔だったというのだ。NHKスペシャルでも同じようなことをやっていたが、人間は最初、草原に降り立った直後はハイエナのように死肉をあさっていたそうだ。それが槍なんかの狩猟道具を発明するようになると獲物をとことんまで追い詰めて傷を負わせて弱りきるまで追いかけていたそうだが、そのためには体から発する熱を効率よく逃さなければならない。そのときに毛が邪魔になって抜けてしまったというのだ。頭に残ったのは脳を守るため?だそうだ。そこで問題になるのは、大体、狩猟をするのは男の仕事であったそうだからわかるのだが、狩りをしない女性までも毛が無い(むしろ少ない)のはどうしてか。これが面白い。オスのお猿さんが性的に興奮するのは、メスのお尻を見るからだそうだ。だから発情期になるとメスのお尻は赤くなる。これは4足歩行している動物だと、こう、後ろからやっちゃうからお尻を見ればいいのだが、2足歩行をするようになると前同士を向いたときにはお尻が見えない。その代わりをしたのがオッパイだったというのだ。人間は確かにオッパイを見ると興奮する。で、オッパイを相手によく見せるために毛が邪魔になったというのだ。そして陰毛が残ったのもココがアソコですよ!とよくわかるように残した・・・。というのだ。ちなみに毛が多い人間以外の動物はその逆でアソコには毛があまりないらしい。
それでも髪の毛が伸び続けるのはどうしてなのかということはいまだに理由やメリットがわからいそうだ。

言葉についても興味深い見解がある。人は言葉をどうやって覚えるか。なんとなくは生まれてから周りの人が話す言葉を聞きながら覚えるのが言葉のように思うけれども、その前に、言語という構造というか、骨格のようなもの、現在では人間が言葉を使って物事を考えるとき、必ず主語と述語に分解して考えているのだと解されているそうだが、そういうものは遺伝子の中に組み込まれているがごとくに生まれながらにして持っている能力であるらしい。僕にもそんな高等な能力が備わっていたのだろうか・・・。

そして、人間がつくる社会というもの。
人間ほど多くの複数の家族が集まって大きな社会を形成する動物はいないそうだ。
ゴリラやチンパンジーなら2、3のつがいかオスが1匹のハーレムを作る規模だが、人間はかつて巨大な洞窟に数百人規模で共同生活を始め、それが現代の社会につながっている。
脳が発達し、それだけの個人を識別できる能力ができ相手の性格を読めるようになりそれが可能になった。そこから新たな社会性とまた、技術の伝達が効率よくおこなわれたのだけれども、それが本当に幸福に結びついているのか・・。
「利己的な遺伝子」という本があってこの本も著者が翻訳したそうだが、一時期ベストセラーになったので僕も読んだことがあるのだけれども、その観点からみると、社会というのもの効率よく自分の遺伝子を残すために利用されるべきものであるというのだ。人々が幸せに生きていくためのシステムではない。
結婚もしかり、男と女が愛し合った結果ではなく、この混雑してきた社会の中で財産の所有権とその継承権を認識するためのものでしかないというのである。そういえば、人によるけれども、結婚相手だけと交わってるわけではなく、また、同性との結婚その間に養子縁組か人工授精でもしていればもそういう意味では認められて当然なのかもしれない。

そう読んでくると、なかなか社会の中で生きてゆくというのは過酷だ。自分で自分の遺伝子を残すために社会の中で戦ってゆかねばならない。
人の顔を覚えるのがまったく苦手な僕にとっては現代社会はあまりにも大きすぎるし、財産の所有権といっても何も残るものがない。

下手をすればすでに淘汰されている身だったのではないかと背筋がゾッとするのである。
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「隠し包丁」読了

2018年10月16日 | 2018読書
田村隆 「隠し包丁」読了

筆者は、「つきじ田村」という料亭の3代目。ホームページで検索してみると、コース料理のお値段が、八千円から五万円となっていたから相当な料亭のようで、僕にはまったく縁がない世界だが本は読める。

そこの亭主である著者が、創業者である祖父との思い出を織り交ぜながら料理に対する姿勢みたいなものを綴っている。

最初のほうに、祖父が著者にこういう質問をする。「人は生きるために食べるのか、それとも食べるために生きるのか。」 著者は、「それはきっと、人は食べないと死ぬからやっぱり生きるために食べるのではないか。」と答えるが、それに対して、「生きるために食べるのならそれは動物と同じじゃないか、寂しくなった時、うまいもん食べたいと思うんや。うれしい時、おいしいもん食べよと思うんや。だから人は食べるために生きるんやとわしは思うがな。」と答える。

この本のすべてはここから始まっている。料理はどうすれば美味しく食べられるのか、それを食べる側、作る側、両方からさりげなく書いている。料亭と家庭はまた違うだろうけれども、暖かいものは暖かいままで、冷たいものは冷たく。甘いものは甘く、辛いものは辛く。また素材をどう生かすか、食べてもらいやすい配置や雰囲気、タイミング、食べる側でもその作法や作る側への思いやりなどなど。すべてはお互いの呼吸の合わせ方なのである。

よく考えるとこれは料理だけに限ったことではない。人との関係のなかではすべてにおいてそういえるのではないだろうか。
ともすると、食べる側が偉くて食べてもらう側がいつもこびへつらっていなくてはならないのだみたいな風潮がある。食べることだけではない。僕は小売の世界で生きているけれども、そこにでも同じことが言えるのだと思うのは不遜なことだろうか。まあ、僕の立場も変なところにあるのでよけいにそう見えるのだが、僕が相手にするような人というのは、100%、「カッテヤッテルヒトサマニムカッテオマエタチハハムカウコトナノデキナイノダ。」的な態度の人たちばかりだ。
その祖父は、「料理人ほどよい仕事はない。好きな料理を作ってお金をもらえて、おまけに美味しかった、ありがとうとお礼まで言ってくれるのだから。」ともいっているけれども、僕はそんなことを一度も思ったことがない。今度、こういう人に聞いてみようかしら、「あなたはひょっとして生きるために食べる人なのですか?」と。「食事は燃料補給だ。」というような答えが返ってくるのだろうか?
人は悲しい生き物だ、多分に、他人を思いどおりにしたい。そうじゃないと自分がないがしろにされている気がするというような気持ちを持っている。じつはそういう気持ちを溶かしてくれるのが食べるということなのであろうが、悲しいかな、セ○ンイレ○ンの惣菜が家庭料理だと勘違いされている時代だ。唯一の望みも消えてしまったというところか。
しかし、あの会社のCMはいつ見ても違和感がある。

対極として著者は、土産土法がいいのだと書いている。意味はそのままで、その土地でとれたものはその土地で、そこの伝来の調理法で食するのがいちばんいいという意味だけれども、どこの誰が獲ってきてくれて、誰が作ってくれたかがわかるもの、それが人と人とのきれいな間合いを作っていくように思うのだ。

外食で美味しいものをたべることなどはめったにないけれども、まあ、釣ってきた魚と叔父さんの家からもらう野菜をいつも食べることができるというのはまさしく土産土法である。春には山菜も食べることができる。これはこれでいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、休日にはなんだか食べるための行動しかしていないような感じがしてくる。スポーツをするでもなく、観光地に行くでもなく、心の安らぎのために芸術に浸るわけでもない・・・。
たしかに食べるために生きている・・・・。

「隠し包丁」というタイトルであるけれども料理のコツのようなものはほぼ出てこない。その心はきっと、隠し包丁を入れるように相手に気遣いをしながら生きなさいということなのであろう。
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「知ってるつもり―無知の科学」読了

2018年10月10日 | 2018読書
スティーブン スローマン、フィリップ ファーンバック/著 土方 奈美/訳

この本の核心は、「なぜ人は薄っぺらな主張に流され、浅はかな判断をするのか。」ということである。それだけわずかな知識しかなくてもそこそこ普通に生きてゆけるがその生き方は周りからの影響を限りなく受けているのだというのだ。

人間の記憶している内容を文字数に換算するとなんと0.5ギガバイトほどしかないそうだ。まあ、頭の中に画像として保存されているものもあるだろうから、そんなに少ないこともないだろうけれども、僕の500ギガバイトのハードディスクのパソコンに比べるとはるかに記憶している内容は少ないようだ。

しかしながら、普通の人たちはそんな少ない情報しか持っていないにもかかわらずそれなりに生活を維持できている。それはいろいろなものごとを知ったふりをしてやり過ごしていられるからだというのが著者のひとつの主張になっている。

たとえば、水道の蛇口をひねると水がでてくるけれども、どんな仕組みで出てくるかを知らない。そんなことが身の回りに膨大にあるというのだ。
まあ、こんなことは知っていても知らなくてもそれはどうでもいいかと思うのだが、確かに、けっこう知っていると思っていることでもいざ人に説明しようとするとまったくそれができないということというのは山のようにある。受験生時代によく塾の先生からも、他人に教えることができるようにならないと本当に理解したのだとは言えない。とよく怒られた。きっとそういうことだと思う。

ではどうしてひとはそんなに知ったかぶりをするのだというと、思考方法にあるという。コンピューターというのは蓄積された膨大なデータをひとつひとつ照合しながら、説明しなければならないもしくは解決しなければならない問題の回答を求めるが、人間は前後左右の因果関係をもとにしながら回答を求める。だからすべてのデータを蓄積していなくてもそこそこの答えを導き出せるのだ。(それが本当に正しいかどうかは別として。)相当な部分を想像しながら判断しているのである。

そして、著者たちは人間の知能のもうひとつの特性はコミュニティ、人間関係などのなかから他の人が持っている記憶や認知とつながりながら巨大な知能体を作り上げているということも書いている。自分はこのことは知らないけれどもあの人はそれを知っている。そういうことをつなげながら巨大な文明が出来上がってきたのだというのだ。知性には人と人の境界がないという。

似たようなものに、トランザクティブ・メモリーということばがあったことを思い出した。これは、「組織に重要なのは、組織の全員が同じことを知っていることではなく、『組織の誰が何を知っているか』を組織の全員が知っていることである」というものであるけれども、それが極端に同化してしまうとあたかも自分がなんでも知っていると錯覚してしまうのだろうか。
う~ん、なんだか人類補完計画に似てきたような気がする。ネット社会というのは人の手が届く小さなコミュニティの枠を大きく飛び越えて他人の知識と自分の知識を同化させていくもののようにも思えるけれども知性の究極の姿というのはそういうすべての人間が一体化してしまったものになるのだろうか?
それはそれでちょっとおぞましいような気がする。

そして他人の知性を引き込みながらそれを自分の知性だと知ったかぶりをする危険性を政治にたいするリテラシーを例に取り上げている。
今でも沖縄の基地問題や消費税率の引き上げ、社会保障、様々な賛否に関する意見がテレビや新聞に掲載されているけれども、専門家ではない一般人ははたしてどれだけそれぞれのことを論じているのか、投票しているのか。お昼のワイドショーに出てくる一般人のインタビューなんかをみているとそれが如実にわかることがある。

しかしながら、著者たちは、それだからどこが問題であるかとか、こういう風にただしていかなければならないとか、そういうことはまったく論じていない。それはきっとこの世の中に、“これが正しい”というようなものなんてないのだということをよくわかっているからだろが、ただ、そのスタンスとして、「自分はそれほど物事を知っているわけではない。」ということを十分に理解したうえですべてのことに対して知見を持たなければならないのだと結論付けている。

結局、そんなことはみんな心の中ではわかっているんだよというような結論であるように思えるがそこはやっぱり、自分のことを無知あり薄っぺらな主張に流され、浅はかな判断をする傾向があるのだとは思いたくない。
そこが悩みどころなのである・・。
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「魚と日本人―食と職の経済学」読了

2018年09月30日 | 2018読書
濱田武士 「魚と日本人―食と職の経済学」読了

この本は食材としての魚が日本の中でどのような状況になっているかということを、消費者、流通過程、生産者の三つの視点から分析をしている。

2000年以降、魚介類の国民一人当たりの年間供給量というのは急激に減少しているそうだ。乳製品や肉類以外の食材もやはり減少傾向なので魚だけが敬遠されているというわけではないそうだが、魚介類について著者は、その消費の減少の理由を、都市の空洞化と景気の後退による接待需要の減少というふたつの要因に求めている。
しかし、日本人は食がどんどん細っていたとは驚きだ。けっこう太った人をよく見るのだが、それはけっこう絶滅危惧種だったりするのだろうか・・・?

かつて、駅前や都市の中心には商店街があり、魚屋にかぎらず青果も肉も個人商店が販売していた。しかし、郊外に大きなスーパーやショッピングセンターができると商店街は衰退し、また、景気の後退で接待で使われていた料亭が少なくなり、そこに魚を納めていた業者は商店街の個人商店が多かったことからそれに拍車がかかった。
商店街の魚屋では消費者は店主とのやりとりで魚の調理の仕方やあまり見たことのない魚にもなじむことができたけれども、郊外のスーパーでは販売効率が優先されるので多種多様な魚を取り扱うことがなくなった。お肉なんかよりももっと素材や調理に関する知識が必要なのが魚ということだろう。

そんな状況は当然流通にも影響を及ぼす。本来、魚の流通というのは、卸売市場で仲買業者が競り落とした鮮魚が小売店へと流れていくというのが決まりとなっているのだが、ここでも効率と原価が優先され、仲買業者に行く前に荷受業者は直接大規模小売店へ魚をおろしてしまう。2013年ではセリを通して売買される魚介類は全体の30%しかないそうだ。冷凍で商品を流通させるコールドチェーンもそれに一役買い、そして商店街の魚屋は価格競争にも敗れてゆくという図式だ。

しかし、今では店主に料理法を聞かなくてもククッパッドを検索すればいくらでも調理法は見つかる。だから魚の消費が減った理由というのはもっと別にあるのではないかと僕は思うのだ。これは消費者の手先の不器用さと、もともとの人間の味覚に魚が負けてしまったのではないかと。

人間の脳をいちばん刺激して味覚をさせるのは脂質だそうだ。肉が高価なら魚もと思うかもしれないが、肉が安く手に入るこの時代、脂肪分の多い肉のほうが人間にとってはやっぱり美味しい。この歳になると肉は体にもたれるなんて思うこともあるけれども、それは人より魚を食っているからであって、ずっと肉を食べなれている人たちはそんなことを思わないのであろう。僕も多分、自分で魚を釣ってこなければ魚をこんなに食べなかったと思うのだ。
そして、今、どれくらいの人たちが一匹丸まるの魚を捌けるだろうか。そして食べる側も骨をより分けてうまく食べることができると自信をもって言える人はどれだけいるだろうか。
まず、出刃包丁を持っている人がいない。うちの奥さんの実家にも出刃包丁がなく、ぼくの奥さんの嫁入り荷物の中にもそれはなかった。多分これが標準的な家庭の台所になっているのだろうし、箸を上手に使える子供も少ないのではないだろうか。
そしてまた、魚は値段が高い。品質と鮮度がよいものはなおさらだ。うちの奥さんも言うけれども、魚を買うなら肉を買った方が安いというのが今の食品スーパーの現実なのだ。

しかし、自分で料理をせずに出来合いの者ばかりを食べるというのはなんだか人間が家畜化しているようで恐ろしい。香取君が「これがおふくろの味だ!」と喜んでいる次のシーンがセ〇ンイレブンでパック入りの総菜を買っているおふくろさんだったという落ちのコマーシャルなんかが成立するのがふつうであるということが恐ろしい。

生産者、獲る側の人たちの現在はどうであろうか。漁師の人口が減少するなかで、漁協のありかた、新規参入そして僕たちのような一般の釣り人との関係についてはそれぞれの立場や言い分があると思うのだが、それは次の機会に・・・。
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