鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉市内で古墳時代の石棺墓発掘 8

2016年06月17日 | 鎌倉の古代

  上は、見学会パンフレット。
長谷小路遺跡の現在の標高は、11m です。
その4~5m下に石棺墓が出土した訳です。
その標高は 11m-4m=7m っとなります。
台風の高潮等も考慮に居れれば、海水面より7mの高さは妥当な設置高度と思えます。
それでも、海の砂は墓から2mの高さに堆積した訳です。
堆積した砂の内訳は、、、
風に運ばれた!
津波で海岸の砂が運ばれた!等が考えられます。
その砂の高さが墓から2mで、平安後期~鎌倉初期の地表のレベルです。
それから上の地層は、人工的に土砂が盛られた!

パンフレットに紹介された写真。
平安後期~鎌倉初期の砂地の上に2mの高さの土砂が この周囲全体に盛られたのですが、
一個人が家を建てる為にその様な事をやるか?
藤沢市の海岸より内陸へ4㎞は、別荘地で有名ですが、皆砂地の上に家を建てます。
何の目的の盛り土か?
土木工事としても一個人のやる土木として、規模が大きすぎます。
畠が造られている様子が明治の絵地図に有りますが、
畠の為には、1mも土を載せれば十分ですし、この土は畠を造るには、不向きな土砂です。
それでも、砂地よりは良いだろう、、、と言う事で畠の時期も有った。
明治以降、誰がこの様な土木工事を何の為にやったのか?
当時の大規模土木工事は、震災後の稲村ヶ崎の埋め立て工事ですが、、
長谷小路でもやったなら、石碑の一つも立っていると思います。

その様な訳で、
昔、、周囲の山を加工した残土を捨てたと解釈するのが、私の憶測です。
コメント
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