昨日の記事の続きになりますが、近年、児童虐待の深刻な状況がよく報道される世相を受け、家庭教育への支援が必要だと、政府内で主張されています。
政府は家庭教育支援法案を国会に提出する動きになっています。
その論の基盤になる考えは、子どもを育てる家庭の役割が弱体化し、子どもに関する問題が起きている。
親が子育ての責任を十分に果たしていないので、たとえば、立派な親になりましょうという「親学」なるものを、国や自治体が推進するというものです。
私は、こういった考えには、多いに疑問を感じます。
そもそも、家庭教育は、親がそれぞれの実情に合わせ行う自主的な営みであり、国から「こうするべき」といわれる性質のものではない。
また、子どもの課題に向き合うためには、子どもをとりまく社会状況を見るべきであり、親にだけ責任を問うのは、筋違いだからです。
さまざまな社会状況により、子どもにかかわる問題が起きているのであり、家庭が機能を果たしていないから起きているのではないと考えます。
地域で行われている子育てサークルや子育て支援は、「立派な親になりましょう」ではなく、親の悩みに寄り添い、親を励ますために行われています。
児童虐待にしても、貧困の問題にしても、子どもにかかわる問題の多くは、社会のしくみ矛盾が生み出しています。
不登校の生徒の問題一つとってみても、家庭教育に問題があるから起こっているのではないと考えています。
事実、三中の子どもの保護者は、子育てに一生懸命で、私は家庭の力が衰えているとは認識していません。
ひとり親家庭やシングルマザーも増えていますが、それは家族のスタイルの多様化の一つです。家族の形態はさまざまになってきています。
しかし、「親学」や文科省による「早寝早起き朝ごはん」運動などは、両親がいて、父は父、母は母の役割を果たすという「あるべき家族像」を画一的に求めているように思えます。
いま、ほんとうに必要なのは、さまざまな家庭があるという現実を見据え、「あるべき家族像」に当てはめるなではなく、家族の多様性が熟成するように、家庭支援を行うことだと考えます。