みどりの野原

野原の便り

9月11日 ② 姫路城 天空の白鷺

2012年09月11日 | Weblog
次の見学場所 姫路城へ。

姫路城は南北朝に始まり、秀吉、池田輝政の時に大改修され広大な城郭となり、明治に藩籍奉還が行われるまで31人の城主によっておさめられた。

戦国の戦いもなく、明治の廃城も免れ、第2次世界大戦にも奇跡的に被害を免れ、(黒いネット?をかぶせたとか、不発弾もあったらしい)天守や櫓など主要建築が残り、国宝に指定され、1993年には世界文化遺産に登録された。
白い漆喰で塗られた美しい城で白鷺城とも言われる。

今までに明治の大修理、その後昭和の修理では大天守等の解体修理も行われたが、白漆喰は雨に弱く30年ぐらいしか持たないため2009年(平成21年)より平成の大修理が行われている。屋根瓦の葺き替えと白漆喰の塗り替え、耐震補強工事など2015年3月までの予定。
今は修理の様子を見学できる施設「天空の白鷺」が設けられている。

ガイド付きで城域の見学

二の丸 菱の門を入る。櫓門になっている。

攻め込んできた敵を惑わす坂や門、槍を使えない低い天井 戦いのためのいろんな策略が秘められている。

 
算木積みの角 石棺が転用されているところあり。 他にも石臼など転用石も所々に。
  右)野面積みの石垣、加工石を使った所、人面石、修理されたのがわかる所、石垣にもいろんな表情がある。
石垣のメンテに毎年800年の人が草刈りをするとのこと。

 
門の小屋根にも目地漆喰が施されている。目地漆喰は雨風から瓦を守る。右)雨水を落とす角度の付いた軒丸瓦もあった。
歴代城主の家紋の入った軒丸瓦も見られた。


雨水を受ける瓦を縦に並べた溝

「天空の白鷺」を見学。


今は覆屋の中で屋根や漆喰壁の修理工事が行われている。

ガラス張りのエレベーターで上へ。


最上階は海抜90mの高さ。下に千姫が暮らしたという西の丸跡の広場や百間廊下が見える。町の大通りのずっと向こうJR姫路駅の辺りが外堀の跡らしい。家島群島や小豆島も見えた。

 
最上層の屋根 葺き替えは終わり、目地の漆喰も出来上がっていた。屋根瓦は高温で焼かれた耐久性の高いもの 右)素屋根がすっぽりと大天守を覆っている。 
修理費用は28億円 その半分は覆屋・足場の費用だとか。


平成の鯱は奈良県の山本瓦工業の製作だという。 これは昭和の鯱 シャチは火事避け。大天守には大小11匹の鯱がいるそうだ。
屋根の周りには避雷針も取り付けられていた。

 
壁の塗り替え 骨組み(小舞)に取りつけた縄が隠れるくらいの厚さに土壁や漆喰を塗り重ねる。

天空の白鷺を出た後、西の丸の建物跡を見学して終了。


大天守を想像するシートの外側に描かれた大天守の線描き これは案内してくださったガイドさんの発案らしい。
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9月11日 ① 生野銀山 (姫路城は次へ)

2012年09月11日 | Weblog
6時前に家を出 8時新大阪出発 早い。眠い。

バスの中で説明があった。
銀の元素番号? え~っとAが付いたね。この程度の知識 正解はAg ああそうだった。
中世のヨーロッパで晩さん会に銀食器を使われたのは、科学変化に変色しやすい性質を利用して毒を感知するためだったことなどミニ知識を教えて頂いた。

播但連絡道路に入ると、播但線で2003年秋にミドリババヤスデが大量発生して線路を覆い、車輪が空転して進めなくなったお話があった。ミドリババヤスデの学名にtonomine(とうのみね)が付くことを初めて知った。

JR生野駅を過ぎて、生野銀山に到着。ここには初めて来た。(多田銀銅山には行ったことがある)
ガイドさんの案内で見学。

 
菊の紋章の入った門柱が両側にあった。   
       右)ヒカゲツツジの大群落 咲いたらさぞ見事だろう。

この門柱は明治元年に生野鉱山の責任者としてフランスから招かれたジャンフランコア コワニエ氏が工場正門として製造。後にここへ移されたもの。

生野銅山は大同2年(807年)に開抗され、信長・秀吉・徳川幕府のものとなり、明治には政府直轄になり、一時公室財産となった後、明治29年(1896年)三菱合資会社に払い下げられ、昭和48年に閉山。

資料館に入る。

 
銀鉱石 と言っても銀の他、銅、鉛、亜鉛なども含んでいる。鉱石1トンの中に金は0.2グラム・銀は30グラム?(聞き違い?)と言うほどの微量の含有。 

  
坑道の模型はアリの巣のよう。 働いている人の模型がたくさんあり様子がよくわかる。
坑道の長さは350㎞以上、深さは880mに達したというから驚く。

いよいよ金香瀬抗に入る。


入り口のアーチ型の坑口はフランス人の設計。

昔の坑道を見学しやすいように広く作ってある。
坑内の温度は年中13度という。ひんやり涼しい。中に酒・ワインの熟成庫として利用している所もあった。

 
タヌキ掘り 人が1人かがんで前進できるぐらいの坑道。灯りはサザエの貝殻に油を入れたもの。この灯りが消えるまで働く。
掘った岩石や鉱石は籠のようなものに入れ、背負ったり曳いたりして後ろ向けに出る。なんと過酷な労働。
所々にいろんな作業をしている様子を人形で再現してある。  右)岩盤の間に見える鉱石                 ノミで掘り進むのは1か月で50センチぐらいしか掘り進めないと聞いた。

時代が後になると、ダイナマイトで岩盤を爆破して鉱石を掘り出すようになり、大きい巻き上げ機械やエスカレーターなども使われるようになり作業も変る。

 
  出口から出て山の上へ。        江戸時代の露天掘りの跡

 
左)鉱脈の在り処を示すというシダ ヘビノネゴザかと思ったがソーラスの付き方を見ると違う(後日記)。(右)ハクサンハタザオが生えていた。これも指標植物と言われている。

ここで食事をして、バスで移動。次の姫路城へ。  次に続く。
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