みどりの野原

野原の便り

3月8日 富雄 添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)

2017年03月08日 | Weblog
「富雄」という地名は、神日本磐余彦命(後の神武天皇)が長髄彦(ながすねひこ)との戦いに苦戦している時、弓先に止まり神通力で磐余彦に勝利をもたらした「金色の鵄(とび)」に由来して、鵄邑(とびむら)から鳥見郷へそれが富雄村になったそうだ。

富雄川に沿って南へ歩く。


してんのうじはし(写真)・ごせんどうはし‥といくつもの橋が架かっている。

昔は南も東も山であったが、四天王寺が別院を建てるのに土地を購入し、開発が始まったらしい。

 
富雄川は昔は川幅も細く、夏には蛍の姿も見られたという。
  右)向こうの山に今から行く添御縣坐神社があるらしい。大きい避雷針が見えた。

橋を渡って、添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)に向かう。
神社手前のあたりはまだ田畑が広がっているが、その向こうには阪奈道路が通る。
この道路で地域が分断された形になったらしい。


神社の道標を過ぎると鳥居があり参道に入る。参道は住民の生活道であり、村の人たちの拠出により昔より幅も広げられ車も通るという。
鳥居には神域を示すしめ縄がかけられていた。


階段を上がると添御縣坐神社 この建物は拝殿 奥に本殿がある。

本殿は南北朝時代末期の造営となる5間社流造。重要文化財に指定されている。
本殿のすぐ近くまで入らせてくださった。

 
近すぎて全体像がわかりにくいが、本殿の屋根は檜皮葺で、正面3か所に千鳥破風がついた立派なもの。覆い屋があるためきれいに保たれている。彩色修復もされて鮮やかだ。
解体修理の際に発見された墨書により永徳3年11月に完成したことが判明した。

神社のある三碓は小さい村だが歴史のある村であること、この小さい村に立派な神社があることはすばらしいと話された。


拝殿の前にある「舞台」は祭りの時に使用されるらしい。本来は4本の柱だけであったが補強のために枠を付けてあると宮司さんの説明。

 
恵美須神社 社(やしろ)の屋根に合わせて覆い屋の屋根も反った形にしてあり美しい。
費用もかかるし珍しいらしい。


緩やかな階段。秋祭りの時にはここを山車?神輿?が通る。その時中央の手すりは取り外せるようにしてあるとのこと。

階段下にある鳥見山 根聖院 神仏習合時代には添御縣坐神社の別当寺(神社を管理するために置かれた寺)だったそうだが、今は生駒山 宝山寺の末寺となっている。

 
境内に(神社のある)三碓(みつがらす)の地名の由来となった石臼がある。

見学の後、地域の集会所で昼食
その後宮司さんから歴史の見方や神社を中心とした民衆の生活共同体などのお話を聞いた。


終了後、大阪の豪商鴻池邸表屋を移築復元したという「みやけ」でお茶をして帰った。  
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