みどりの野原

野原の便り

10月26日 ゴキヅルを食べてみた。

2018年10月28日 | Weblog

鵜殿でヨシに覆いかぶさっていたゴキヅル。(10月19日ブログ)
その時「食べれるよ」と言う人がいた。「本当?」「炒って食べるとアーモンドみたいよ」
へ~~。食べられるなんて思いもしなかった。試してみよう。

・・で、よく実った果実を少し採ってきたのだった。
よく実っているものは触れればパカッと割れて種がこぼれ落ちる。

遅くなったが試食の報告をしておこう。

 
食べたのはもう少し黄ばんだもの。1つの果実に、普通2個の種子が入っている。
  右)フライパンで炒りすぎに気を付けながら炒って、固い皮を半分取り去ったもの。

食べてみた感想は・・
う~~ん。アーモンドねえ。少し苦みがあり、香ばしさはあるが・・
食べる部分が薄くて、食べ応えがない。

正直、また次も採ってきて食べよう、というほどのものでもなかった。
でも、食べられることを知っておくのは悪くはない。
どんな世の中になるかもしれない。その時のために。生き残るぞ~。

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10月28日 平端周辺 鎌倉五輪塔 額田部窯跡 推古神社 額安寺

2018年10月28日 | Weblog

平端駅からファミリー公園駅まで、いにしえの歴史を探りながら史跡巡り。

 
五輪塔覆堂 戦国大名筒井順慶は郡山城で亡くなり奈良の円証寺に葬られた後ここに改葬された。  
覆堂の中にある五輪塔 下部・地輪に入滅年(天正12年)と年齢(36歳)が刻まれている。

この辺りは奈良時代の地形が残っていて、今歩いている道も昔からあった道らしい。

 
    ヒイラギモクセイ  奈良時代の溜池の名残。南側は埋め立てられ、残っているのは北側の3分の1。
地図によると、昭和38年頃までは南側も残っていたらしい。高度成長期に宅地や工場になった。

船墓山融通寺の本堂の裏手にあったという船墓古墳は道路を作る際に壊され原型はとどめないが、前方後円墳があったそうだ。額田部氏の墓?


鎌倉五輪塔(鎌倉墓とも) 大きいのが「忍性の五輪塔」高さ281㎝
写真には写ってないが、写真の4基を含む5基と、L字形に続く3基の8基が並ぶ。他のものは時代が新しい。
S57年? 8基全部解体して調査され、一番大きい五輪塔の地輪の下から銘文のある骨臓器が見つかり、西大寺の高僧で、額安寺の再建につくした僧 忍性の墓とわかった。
8基の五輪塔すべて鎌倉時代のものだそうだ。 
忍性の遺骨は生駒の竹林寺、鎌倉の極楽寺に分骨され、各々五輪塔が建っているらしい。  

 
近くには、額田部窯跡と言われる額安寺再建の時の瓦を焼いた窯跡がある。
全部で3基見つかっているそうだ。全長2m・幅1mの平窯 
燃焼室と焼成室の2つのくぼみには水が溜まっていた。

この後、推古天皇を祀ったという推古神社へ。本殿は前方後円墳の上に建っているそうだ。
額田部氏の先祖の墓かもしれない。

 
熊凝山 額安寺(「かくあんじ」と読む) 古名を額田寺 又 額寺といったそうだ。
『聖徳太子が学問修行の道場として創建した熊凝精舎の跡地に建立された。
時代とともに衰退し、鎌倉時代、僧 忍性などによって復興されたが、後、兵火によって講堂(今の本堂)を残すのみとなった。今の本堂は慶長11年に再建された』  
 右)本尊 11面観音菩薩 本堂に上がらせていただき拝観。お話も聞かせていただいた。
本堂の正面の屋根は古い瓦で葺かれている。

今回の資料の「額田寺並びに条理図」(原本は国宝)Ⅹ線で読み取った図には、額安寺の伽藍配置や、食堂 竈屋 務屋 酒屋 馬屋 蔵・・等、寺で働いていた人の生活空間まで記されている。
周辺には田畑やクリ畑などの領地や古墳などがある。

「額田寺並びに条理図」は、奈良時代の土地台帳で、各地にあったものだが、今は唯一これが残っているだけという貴重なものだ。原本は目視では読み取れないらしいが、現代の技術で読み解けるようになるなんてすごい。

佐保川を渡り浄化センターで屋上からの景色を見て、ファミリー公園駅で解散。

素晴らしい講師陣による企画を楽しみにしていたこの会は今回で最終回となるとのこと。
16年間も続けて下さったそうだ。ありがとうございました。

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