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2014.07.10 「あじさい荘」へおよばれ

(門の外です。)

(庭に入ったところです。)

(満開です。)

(玄関から門への道です。)
 

先日、明石の友人宅「あじさい荘」へおよばれしました。
小学校時代の同級生の一人があじさいが大好きで、庭に見事なあじさい畑があって、毎年あじさい
が咲く頃招いてくれます。およばれと言っても、実は同級生仲間の麻雀会なのです。^^

以前、小学校時代の同級生達が、麻雀を始めようと、勤めていた私の定年を待ってくれていたこと
があります。他の友人は全員主婦で、私だけが勤めていました。
彼女達は、私が定年退職したら毎日が日曜日になるのだろうと思っていたのですが、どっこい私は、
忙しくてそれどころではなかったのです。
私は退職後、初めて出会ったパソコンのマッキントッシュに魅せられ一念発起何かをやろうと思い、
それを探す為にすべての時間を投げ打っても足りず、明け方までパソコンと格闘する日々でした。

その為1年間待って貰いましたが、それ以上待たせるに忍びず、60の手習い麻雀を始めました。
元々子供の頃、トランプのセブンブリッジの遊びをしながら「これの複雑なのが多分麻雀なんだ。
大人になったら、ぜひ麻雀をやりたい。」と麻雀に強いあこがれを持っていたこともありました。

ご主人から鍛えられていた麻雀上手な友人が、麻雀初めての3人を教えてくれることになっていた
のですが、実際やってみると、とてつもなく大変だと言い出したので、私たち初心者3人はカルチ
ャーセンターの麻雀教室へ通って教えてもらいました。
そこで、大体理解してから、4人は合流し麻雀を開始したのです。
その時4人は、誰が特に上手とも言えない程実力は拮抗していました。
お金を掛けたことは一度も無く、掛けなくてもこんなに楽しいのにと思いました。

パソコンの前で毎日明け方まで格闘していた私は、脚の筋肉をすっかり落としてしまい、ひどい足
の痛みと闘いながらも麻雀に参加していたので、毎月1回各人の家を回り持ちしながらの麻雀会は、
楽しくてたまらない反面、足の痛みが半端ではなく地獄そのものでした。(毎日のストレスからか、
両手も激痛でマージャン牌を並べることが出来ず、かろうじて使える左手だけを使っていました。)

その後、時間がないのと、足の悪化とで、私だけ麻雀から遠のきました。
友人達は、その後も今に至るまで、毎月廻り持ちで麻雀会を続けているそうです。
私は、この「あじさい荘」の麻雀だけ参加しているので、1年に1回の麻雀です。あじさい荘も
ご主人のご病気などで麻雀が出来ないこともあり、私が麻雀をしたのは数年振りです。
久しぶりに麻雀の牌を触ってやり始めたとたん、あ~!忘れたな~と思いました。
それで、モタモタして必要な牌を捨ててしまったりして後悔していると、その日はとてもツイテ
いて、すぐまた良い牌がやってくるので、何度も満貫で上がることができて大勝ちしました。

久しぶりに会ったので、皆テンションが高く、笑い転げる一日でした。
何故か私の、ここ半年以上悩んでいるひどい咳込みが、この日は嘘の様に出ないので驚きました。

なお、このお宅は「あじさい荘」ですが、7月7日の七夕の日に生まれた友人の家は「かささぎ荘」
です。(七夕の夜にかささぎが羽根を拡げた橋を渡って織り姫と牽牛は会う。)
そして茨木在住の友人(私の元職場の同僚)の家は、茨木の地名の元となった「のいばら」に因ん
で「のばら荘」です。そして、桜が大好きな友人の家は、「さくら荘」でした。
ある日、私が一人勝ちした時、親友が両手を挙げて「甲南リリーさん、万歳!」と叫びました。
私は、その頃神戸の甲南山手に住んでいて、その日、百合の花の模様のセーターを着ていたのです。
それから、私の名前は「甲南リリー」となり、当時の神戸の私の家は「リリー荘」となりました。
美しい名前の「雀荘」達でしょう?^^;;

 

ところで、その日最初に明石駅で集合した時、私がスイスイ歩いているので、皆はびっくり!
そう言えば、足の悪い時、明石駅の広さは地獄で、私の大の苦手な駅でした。
「え~?治るんやね!」「以前は、バスの停留所1つでもタクシーに乗ってたよね。」と大騒ぎ。

そうです。私は歩ける様になったのです。
…と言っても、本当に治った訳ではないのですが、でも歩ける様になったのです。
(前日に、この日の為に整形外科で右足の水を 105cc抜いて貰っていました。)

次回は、私の「足の回復法」をお知らせしたいと思います。

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