2017.09/09 (Sat)
「過程に着目する」
からの続きです。
「過程に着目する」
からの続きです。
社報「靖國」9月号巻頭言「靖濤」 (転載)
終戦より七十二回目の八月十五日、靖國神社の社頭は開門と同時に多くの参拝者が訪れ、九万人の感謝と平和の祈りに包まれた。
▼過日、十八・十九歳を対象とした調査で十四%もの人数が〝日本が終戦を迎えた日を知らない〟と回答したと報道されていた。
対象年齢が限定された調査とはいえ、その世代が更に歳を重ねた将来、先の大戦に対する意識がどうなってゆくのか考えさせられる。
それと同時に「授業が近代に達する前に卒業を迎えてしまうことが原因の一つ」という使い古された解説に、未だ知識を優先した年表暗記教育の延長線上にある意識が根付いている印象を受けた。
▼靖國神社では在職中に出征し、戦没された方は四名おり、全員が二、三十代の若さであった。
そうした方々を含めた職員物故者の慰霊祭が、関係者参列のもと行われてきた。
初めての斎行は、七十年前の昭和二十二年九月の秋季皇霊祭遙拝式後であった。
その伝統を引き継ぎ、今日でも毎年春分の日と秋分の日に行われる。
だがこうした慰霊祭は、一般には信仰の問題もあり、地域共同体や団体、企業等では近年聞くことは少ない。
▼終戦は、当時を知る人の感じ方と戦後生まれが人口の八割を超えている現代のそれとは全く異なるであろう。
しかし〝慰霊〟となると経験の有無ではなく心の向きを疎かにしないことが当然重要であり、主義主張や知識のみにとらわれず、そうした心を醸成する教育の方が先決なのではなかろうか。
加えて学校教育は厭くまで補完であり、家庭をはじめとする最も身近なコミュニティが主体であることを忘れてはならない。
断つことなく、日本人が古来より持ち得た美しい魂を取り戻したいものである。
(転載了)
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・「授業が近代に達する前に卒業を迎えてしまうことが原因の一つ」という(使い古された)解説
→知識優先教育(心の持ち方を重視しない=人づくりの意識の欠如)から一歩も抜け出せていないのではないか。
この調査につけられていた解説が、「使い古された」、つまり、これまでにも度々言われてきた、通り一遍の何の変哲も新味もない、もっと言えば「心のない解釈」でしかなかった、というところに目をつけられています。
これ、結構、保守派と言われる論客の中にもおられます。
実は「時間切れで教えられない」ということには、二つの理由があります。
一つは時系列で学ぶのが歴史だから、「実際にそうなり易いという時間的な問題」。教育課程の時間配分です。
もう一つは「教えたくないから敢えて引き延ばして時間切れに」という苦心(?)の結果、です。
「教えたくないから?そんな馬鹿な!」と思いますよね、普通。教えている教師だって、馬鹿なことを言うな!と怒る人が大半でしょう。いや、そうであってほしい。怒ってほしい。「教えたいんだけど、時間がないんだ!」、と。
けど、本当は教えたくないから残してしまう。事実です。
本来、卒業までに教えられるように教育課程は設定されている筈なんです。なのに教えられない。それは何故か。
歴史の授業というのは、歴史的事実から「物事の道理」を読み取り、読み取った道理から「考え方」を学び、その考え方を参考に自らの「考え」を形成し、その考えで以て社会に参加する。そうすることで社会の発展に寄与する人材、をつくるためにあります。
だから教える方は、「知識優先の、心の持ち方は重視しない教育」を採るのでなければ、どうしても重要視する歴史的事実と、つい軽視してしまう歴史的事実をつくってしまいます。でも、そういうことをやっちゃいけない、という良心から、手抜きをせず、丁寧に「物の道理を読み取り~」古い出来事から順に、とやっていくと、結局時間が無くなってしまう。
「じゃ、『良心』からじゃないか。『教えたくない』、は違うだろう」
これが「心の問題」です。
南京事件や慰安婦問題を見れば分かるように、新しい事柄がどんどん出てくる、それどころか確定された筈の事柄でもどんどんその「定説」が引っ繰り返されるのが現代史です。当然、そんなところから「物事の道理」を読み取り、読み取った道理から「考え方を学び、~」なんてことをやるには桁外れの困難さが伴います。折角やっても、「あれ、違ってたという説が今は主流だ」、なんて。
そして、そんな半ば流動的な解釈が成立するようなことを、「道理」を教えるべき学校が自信をもって教えたって、まず、入試にゃ出ない。
「試験に出ない物を教えたって」・・・、という心の裡。
これ、「先生、それ、試験に出るの?」と残酷な一言を浴びせられ続けた結果、ですよ。
(「はい!これ、テストに出ます!」ってCM、よくあるでしょ?言われたら生徒は慌ててノートに書く、ってやつ)
子供はそう言うものです。子供なんだから。「自分の思いを表現する。それがジャズだ」、って言われたら、後先考えず周囲のことも見えなくなってスティック分捕られてもドラムをたたき続け、叩かれる。そして先生「が」叱られる・・・。
知識優先教育が主因ではない。勿論、それを招いた子供の至らなさのせいでもない。子供なんだから。
本当の原因は、
・「心の向き(心の在り方)」に留意していないこと、
・学校教育は厭くまで補完であるということ、
・「教育の主体」は家庭をはじめとする最も身近なコミュニティであること
等を失念しているからではないのか。
・・・・ですよね。
八月十五日、靖國神社の九万人の参拝者の中に、「この日は靖國神社に参拝すること。何故ならば、~」、って歴史の授業(社会科なら猶更です)で習った人はないでしょうからね。