CubとSRと

ただの日記

国の姿勢

2020年04月01日 | 心の持ち様
2016.05/26 (Thu)

 昨晩になって、このブログが更新されていたことに気づき、遅ればせながら例によって部分転載を。

 「西村眞悟の時事通信」 平成28年5月24日(火)
 
 「挙国一致体制・・・台湾と日本」、からです。

 西村氏は「小異を捨てて大道につく」と書いておられる。
 確か「小異を捨てて大同につく」、じゃないかな、と思って検索してみたら、やはり「大同につく」、とある。
 しかし氏は文中数回「大道」と書かれている。思い違いなのだろうけれど、文脈からすればこれが一番似つかわしい。
 「独立国家としての本当の道を歩む」ということに思えるからだ。

 台湾は日本が清国より割譲されたものだ。そして日本が敗戦で放棄させられた「どこの国でもない島」。だから国ではない。
 その「真空地帯」に、大陸から国民党軍が進駐という形で落ち延びてきた。そしてそのまま不法に居座って「中華民国」を名乗った。
 大陸は御存じの通り「中華人民共和国」という、「人民」と「共和国」の二つもの日本語(翻訳語)を採り入れた国名を名乗り、中華民国は消滅した。
 
 それが今、十数個の少数民族と昔から断続して移住してきた大陸のシナ人を総称する「内省人」と、国民党軍とともにやってきた「外省人」が協力して、初めて「あるべき独立国家」として、一歩を踏み出そうとしている。
 そうなると「小異を捨てて大道につく」。これ以上に見合った言葉はなかろうと思う。
 今の野党の野合、逆に愛国活動を行っている筈の日本国内の憂国の士の面々。民進党(民主進歩党)に相当先を行かれているのではなかろうか。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「挙国一致体制・・・台湾と日本」    平成28年5月24日(火)

 国家は国難に直面したときに、
 挙国一致体制を整える。
 これは、国難を前にして小異を捨てて大道につき
 一致団結して国難を克服するときに執られる体制である。

 何故、今になって挙国一致体制について語ろうとするのか。
 それは、台湾の蔡英文新体制を観て、
 「小異を捨てて大道につく」を思い起こしたからである。
           (略)
  国民教育が国家存亡に如何に切実に関わっているのかを理解する者ならば、
 蔡英文新総統が就任の翌日に、
 従来の馬時代の学習指導要領を廃止したことを以って
 蔡英文総統の決意が
 「脱中国」にあることを理解するであろう。

 まことに、蔡英文に率いられた台湾は今、
 百二十五万人の陸軍兵力、
 千七百機の戦闘機と四百機の爆撃機、
 二百基の中距離核弾道ミサイルと千基の短距離核弾道ミサイルを擁する
 内蔵から腐臭を発する虎の口から脱出しようとしている。

 就任から一日後に、間髪を入れずに学習指導要領廃止を発表した新体制が、
 如何に緊張状態にあるか、我が国政界はそれを察知する生物的能力を欠落させている。

 その新体制とは、
 蔡英文総統が民進党の総統でありながら、
 副総統には父親が国民党の有力者である陳建仁氏
 首相に当たる行政委員長に国民党の軍人を父にもつ林全行氏
 外交部長(外相)と国防部長(国防相)にも国民党籍、
 この体制で、間髪を入れずに学習指導要領を廃止したことを思えば、
 まさに、挙国一致体制ではないか。

  この蔡英文新体制が、
 我が国に京都大学出身で行政院長を務め
 八年前に総統選挙を戦って馬英九に敗れたあの謝長廷氏を
 「駐日大使」として送り込んできた。
 これで、蔡英文総統の意図が読める。
 台湾は、西の虎との強まる確執を覚悟して
 我が国との連携を深めようとしているのだ。

 台湾における新体制発足によって、東アジアに激変が起ころうとしている。
 我が国は、この変動に対処し得るのか?

           (略)

  思い返せば、悔しくもあるが、
 我が国は大東亜戦争においても、挙国一致ではなく、それが敗因となった。
 第一に、陸海軍の統帥が分裂していた。それ故、陸海軍に情報の共有がなかった。
 人事においても、蔡英文総統の決断はなく、
 意見の違う者との小異を捨てて大道につくことはなかった。

           (以下略)

       http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1202

 ~~~~~~~~~~~~~~~
 
 「就任から一日後に、間髪を入れずに学習指導要領廃止を発表した新体制」。
 就任の翌日、学習指導要領を廃止する。
 水際立っている、と思います。どこかの大統領候補のように煽りにあおって神輿に乗って、というのではない。
 「風」や「勢い」ではなく、「断じて行えば鬼神も之を避く」、でしょうか。「義気の果断」にも似ています。さらには「敵は身近に置け」という金言も教科書通りに実行されているみたいです。
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これは目を通して置くべきでしょう。

2020年04月01日 | 心の持ち様
2016.05/20 (Fri)

 昨、5月19日の「西村眞悟の時事通信」を部分転載します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 憲法改正論について        平成28年5月19日(木)

          (略)
 この数日間、私の頭に浮かんだことを書き込んでおく。
 それは、憲法の改正についてである。
 以下述べる。

 まず第一に、人々は、憲法改正について議論するようになったが、「何に基づいて改正するのか」考えたことがあるのか。

 「日本国憲法」は、
 大日本帝国憲法第七十三条の改正規定に基づいて、
 「大日本帝国憲法改正案」として帝国議会に提出され、
 その改正案は、昭和二十一年十月二十九日、貴族院と衆議院において可決されて帝国議会を可決通過し、引き続き、枢密院の審議にかけられ承認を受けて成立したものである。
 よって、
 日本国憲法と大日本帝国憲法は、両者の内容の整合性はともかく、
 論理的には、大日本帝国憲法は、
 その改正案である日本国憲法の成立によって廃棄されたのではなく、
 改正案を生み出した母体として現在も存在している。
 つまり、大日本帝国憲法と日本国憲法は併存しているのだ。

 これは、アメリカ合衆国憲法(一七八八年)と、その改正規定(第五条)によって改正された合衆国憲法修正箇条(一七九一年)が論理的に併存しているのと同じである。

 しからば、憲法を改正するとは、どの条項で改正するべきなのか。
 大日本帝国憲法第七十三条によってか、 
 日本国憲法第九十六条によってか、
 確か、
 改正規定の改正はできない、というのが東京帝国大学から東京大学に至るまで一貫して法学部教授でありつづけた権威ある憲法学者の見解であったと記憶しているが。
 そうであるならば、憲法の改正は、大日本帝国憲法第七十三条によって為さねばならない。

 第二に、憲法制定権力とは何か。それは、国家の主権である。
 では、国家に主権が無いとき、即ち、憲法制定権力が無いときに、国家は憲法を公布し施行できるのか。
 護憲派も改憲派も、この根本問題について答えてから議論をしたらどうか。
 そもそも、「日本国憲法」を書いたのは誰か、果たして日本人なのか。
 日本人が書いたと、義務教育で子どもにウソを教えてはならない。
 この論理で言えば、憲法の改正とは大日本帝国憲法の改正となる。
 何故なら、主権が剥奪されたときの「憲法制定」などあり得ないからだ。

 従って、第三に、「毒の樹の果実」の論理を思い起こすべきである。
 それは、毒の樹の果実を食べてはならない、何故なら、毒の樹を認め受け入れることになるからだという論理である。
 同様に、日本国憲法を改正することは、日本国憲法を認め受け入れることになる。
 
 自信をもって言う。
 日本国憲法をハーバード大学やオックスフォードやケンブリッジ大学の憲法学と国際法学者が合同してその成立過程を審査すれば、彼らは、明確に日本国の憲法としては無効であるという結論を出す。
 かつて韓国が、朝から晩まで、日韓併合条約は無効であると騒いでいたときに、ハーバード大学が「有効である」という結論を出したように。

 無効なものを「改正」してどうする。

 無効なものを無効であるという勇気が無く、ずるずると改正する改正する、また反対に、護憲、護憲と言いながら、時の経過に身を委ね、自分の国を自分で守る体制構築から目を逸らし続けるのは国際社会における日本の恥ではないか。

 平らだと信じていても、地球は丸いのだ。
 憲法だと信じていても、無効なものは無効だ。

 以上、思うままに。乱文失礼。

 http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1200

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「憲法制定権力とは何か。それは、国家の主権である。」

 →主権者たる日本国民が書いたものだけを「日本国憲法」という。他国民が書いたものは「日本国憲法」ではない。主権者ではないのだから。

 →「毒の樹の果実を食べてはならない、何故なら、毒の樹を認め受け入れることになるからだ」
 同様に、
 「日本国憲法を改正することは、日本国憲法を認め受け入れることになる。
 その成立過程を審査すれば、明確に日本国の憲法としては無効であるという結論」が出てくる。

 →「改正する改正する、また反対に、護憲、護憲と言いながら、時の経過に身を委ね、自分の国を自分で守る体制構築から目を逸らし続けるのは国際社会における日本の恥ではないか。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 一々、道理だと思うんですが、昨年大騒ぎになった安保法制の件、常に「憲法に基づいて考えると~」と言ってきたマスメディア、憲法学者、共に金科玉条とする現行の「憲法」の成立に関しては見事に(その出自に関して)何も言わなかった。「成立に関しては本題ではないから」、ということだったんでしょうか?
 そのことについて「何故、言わないのか。言わなかったのか。言えなかったのか」、なんてことを素人の意見(=一般国民の意見)として口にすることもなく、ただただマスメディアのいうことをおうむ返しのように饒舌に繰り返すだけの人の、何と多いことでしょう。(ん?どこかで聞いたような言い回し・・・) 
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背筋周辺(柱とか中心とか)

2020年04月01日 | 重箱の隅
2016.05/19 (Thu)

 二年程前の話。
 台所で洗い物をしていると腰が痛くなってきた。ちょうど、前屈みで野良仕事をしている時のように、眉間に皺を寄せ、背中を反らしてみる。痛いけれど気持ちがいい。
 「流しが低過ぎるのだろう」、と思った。 
 けれど次に「あれ?流しの低いのは今に始まったことじゃないぞ。前は腰が痛くなることなんかなかったのに」、と気づく。

 昨春、こっちに戻ってきて台所仕事をしていると、やっぱり腰が痛くなってくる。流しはこちらの方が低いくらいだ。

 先日来、一週間から十日に一回くらいの割合で、山歩きをしている。
 何回目かの山歩きから帰って来て、腰の痛みと何かの拍子で腰が辷るような感じを経験した。初めて経験した種類の痛みだった。
 この歳になるまで「腰痛」なんて感じたこともなかったし、「激痛で苦しくて死にたくなるくらい」なんて言われても宇宙の彼方の話みたいにしか思えなかった。それが今回の痛みでホンの少~し分かったような気がした。
 以前の両膝の痛みと違って、楽天的になれない。何しろ腰は「要(かなめ)」なわけだから、ここが文句を言わず十分に機能しなければ何も動かない。

 山歩きの補助として再開していたスクワットを、足の指先より膝が前にいかないように、背を反らして尻を思いっきり後ろに突き出すやり方にしたら、百回を越えたあたりから徐々に腰が痛くなった。
 そしてとうとう痛みは激痛になり、百五十回で降参するしかなかった。一分ほど休憩して再挑戦したのだけれど、今度は百回が限度だった。

 ここに至って、やっと、台所仕事で腰が痛くなったのは運動不足だったんだ、と気が付いた。散歩だけでは腰周辺の筋肉は十分には回復しない。例えばテレビ体操のようなちゃんとした背筋「周辺」のトレーニングもしなければならない。
 ここからは私個人の悪癖だろうと思うので「気がついても『そのためのトレーニング』をやらなければ何にもならない」、と言い聞かせてみる。

 「知って」「そのためのトレーニングを」と言っても、いつも「直接のトレーニング」とは限らない。また「即、効果があらわれる」とは限らない。
 いや、大方は目的に向かう目標立ての段階で、具体的に挙げられるべき方策は多岐、多方面にわたるだろう。
 古人も「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」と教えている。
 正しいやり方というのは得てして即効を期待できないものだ。それにはちゃんと理由がある、と多くの人は薄々気が付いている。
 でも、即効性を求め、裏技に惹かれ、「短期間で効果があった」、「容易に目標を達成できた」という情報に振り回される。

 敢えて回りくどいようでも「正しいやり方」をやらねばならない。けれど、上述のいろんな情報で、つい焦ってしまう。後がない、とじりじりしてしまう。自暴自棄になってしまう。そして、失敗し、挫折する。

 例えば(マッチョマンになろうというのならいざ知らず)「背筋を鍛える」というので一番大事なのは、普段の生活で姿勢を「正し続ける」ということで、それがそのまま筋力強化に繋がっているはずなのだが、「トレーニング」、というと、つい、この基本・根本的なことを軽視する。
 「普段の生活で姿勢を正す」というのは背筋強化の具体策であると同時に、「心の持ち様を正しくしようと努める」ことでもある。
 そして実はこれこそが全ての根本となる具体的な目標なのではないか。
 「物の見方」「物の考え方」というものは初めからあるわけではない。まずは周囲の人の言動に倣い、その先に自身で習い、学び、深めていく。
 「立派な日本人」とか「日本人の考え方」が生まれた時からあるわけではないのと同じで、周囲からの働きかけ、それにより、自身の周囲への働きかけの中で、育まれ、長じては自ら鍛え上げていくように。

 「覚醒した」後で何をするのか。知識を収集することだけか。それも必要だろうが十分条件ではあるまい。
 やはり必要なのは考え続けることだろう。


 ・・・・山歩き、まだ、ほんの数回なのに、またまたエラそうなことを書きました。
 でも、大言壮語しなきゃ、ボケます!
 
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散歩のことばかり書いてる・・・・。

2020年04月01日 | 重箱の隅
2016.05/16 (Mon)

 また散歩のことを書こうとして、ふと、これまで何回書いたろうか、と気になった。
 で、検索をかけてみると、なんとこれまでに二十回以上、関連の日記を書いている。
 これなら「散歩」という項目を作った方がいいんじゃないか、と思うくらい。

 ・・・・・というのは冗談です。読んでくださった方はお分かりでしょうが、「散歩」は実は口実で、本題はほとんどの場合他にある。
 言ってみれば「散歩」は枕です。いつも通りの長~い枕ですが。

 「単純なことへの取り組み方」、「注目すべきところ」、「目的は何か」、「目的と目標の混同」等々。

 今回は「続かない理由」について、なんですが。
 先日、書店で立ち読みした本に、「早朝のウォーキングは良くない」、「一万歩は多過ぎる。八千歩を一日分とすべきだ。そのうち20分を少し強めの運動にすべき」などとあった。
 こういうのを読むと「ああ、これまで間違っていたのか。間違った努力をして却って身体を傷めていたのか」と思う。
 それで言われた通り修正するのか、というと、そうじゃない。
 まずは上に書いた通り、やってきたことは無駄骨折りだったのか、と挫折感を味わう。
 この時点で、「修正するよりは他の方法を」、となるのが大半。
 「ウォーキングよりジョギングのほうが良いかな」、とか「プールでウォーキングのほうが」、とか。
 「いや、ここで挫けてなるものか。修正して続けるぞ」と思うものが一部。けれど、その一部でさえ、大半は修正しようとして失敗する。
 そりゃそうだろう。早朝の散歩、という生活サイクルをやっと作ったのに。
 「20分を少し強めの運動に」、って「少し強め」って何なんだ!?

 間違っている、と指摘されても、「正しいもの」というのが本に書いてあるだけじゃ簡潔過ぎて分からない。
 僅かな知識だけで、具体的な注意事項がほとんどないので応用が全くできない。
 これで、またやってるうちに我流になってまたぞろ「それじゃだめだ」、なんていわれた日にゃ目も当てられない。
 早い話が何かに機嫌よく取り組んでいて、自身、それなりの手ごたえを感じている時に、必ずと言っていいほど「それ、間違ってるよ」と言われたら?
 素人が言ってくるのなら「何、言ってやがる」と余裕で一蹴できるけど、その道では名の知れた人だったら?

 間違いは間違いなりに、試行錯誤の結果、それなりの成果を出してきた、手ごたえも感じている。それを身もふたもない形で否定される。それも悪意は全くない、好意のみで「それ、間違ってるよ」。

 少なくとも悪意からの言なら敵愾心を以て反発し、怒りのエネルギーで再度取り組めるのだけれど。
 「間違っている」と言われて手に入れるものはただの知識で、「間違っているから手放さねばならない」工夫・対応技術に関する代替策は一つもない。
 そうなると当然、、ゼロからの再スタートを余儀なくされたような気になってしまう。そしてまずは講習などを何時間か受けて実習もしなければ、と暗澹たる気持ちになる。はっきりした理由なく、何となく散歩に出るのが億劫になる。

 こんな程度の高い理由もあれば、私のように「そんな早朝から外に出たら不審者にしか見えない」、と小言を言われて、「ああ、めんどくさい。しばらくやめとこう」と休んでずるずると・・・という者もある。
 それで、今回、私は「どうしたもんだろう」と思ったわけです。これではまた「続かない」ことになってしまう。

 ところが私にとってはグッドな抜け道があった。
 「土曜だけ飲酒OK」という自分だけの約束が、いつの間にか、また週に二回になり、三回になり、していたんです。これでは元の木阿弥になるのは時間の問題。
 それで本に書いてあった通り、夕食の一時間後に歩くことにすれば、まさか飲んでから歩くわけにもいかないだろう、と。
 アホな話ですが、それで一日が動くようになりました。これで「酒は土曜日」から「酒は雨天時の夜のみ」に方向「修正」ではなく方向「転換」。

 ということで、ここまでが枕、といってもいいでしょう。

 言いたいのは何か。
 どんなに立派なことでも、何かをやろうとするとなかなか周囲には受け入れてはもらえない。受け入れてはもらえないどころか、理もないのに頭ごなしに否定して来られたり、全くの下衆の勘繰りで足を引っ張られたりする。
 酷い場合にはわざと曲解して、こちらの意図とは正反対のことを、あたかも言っているかのように声高に叫び、非難し続ける。

 (散歩の)目的は何だったのか。与党の、政府の目的は何だったのか。
 国民はどうすべきか。

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切り捨てることに「理」はない(能天気の続き)

2020年04月01日 | 重箱の隅
2016.04/19 (Tue)

 腸内環境を決定するのは、七割を占めると言われる日和見菌で、他のそれぞれ1~2割を占めるという善玉菌、悪玉菌は、必死の努力で、この日和見菌を味方につける戦いを日夜繰り広げている。
 日和見菌とは鉄人28号なのであって、善玉菌、悪玉菌はそのリモコンの奪い合いをしているのだ。 
 ・・・・なんて喩えは還暦爺が自分一人、「上手いこと言った」と思ってるだけか。

 善玉、悪玉が、それぞれ涙ぐましい努力をしていたって、大多数である肝腎の日和見菌は余裕をかましている。気分次第であっちへフラフラ、こっちへフラフラしている。非常に身勝手で、努力、なんて気持ちはかけらもない。「日和見」たる所以だ。それが七割。これが大勢を決める。
 何のことはない、腸内環境のみならず、これはこのまま全ての「自然界の在り方」ではないか。
 あの「アリの行列」だってそうだ。真面目に働くアリの行列の中に在って、
 「何してよいか分からない」「おっ、何だか面白いものが!」
 、とでも言いたそうに、あっちへウロウロ、こっちへ逆戻り、時には行列から外れて何もしないでじっとしている。そんな奴が結構いる。で、突然取り残されたことに気が付き、大慌てで行列に戻ろうとする。
 腸内フローラでいえば悪玉菌にあたりそうだ。一所懸命何かを咥えて運んでいるのは善玉菌に該当するんだろう。
 けど、能々見ると日和見菌にあたる多くのアリは、ただ行列をつくって忙しそうに進んでいるだけで、手ぶら(?)だ。実は何もしていない。雰囲気づくり、枯れ木も山の賑わい、賑やかし。

 大衆というより衆愚という方が似合いそうなこの日和見アリに関しては「雰囲気づくり」、「邪魔はしてない」ということで取り敢えずは大目に見るとする。
 けど、この遊び呆けている怠け者(?)共、悪玉菌蟻を除去してしまうと、あろうことか、日和見アリからまた同じように「あっちへウロウロ」蟻が出現する。「ええい!こいつめ」と、その度に除去を繰り返すと、・・・「そして誰もいなくなった」・・・。

 我々の社会も根源的には自然界に存するのだから、理屈は同じだ。足を引っ張るやつを単純に除去していけば、大衆の中から、負けじと無政府主義者や反国家主義者、革命論者などが次々に湧いてくる。・・・「そして誰もいなくなった」・・・・?

 自然界と社会は根っこは同じでも明らかに違う。あれだけ粛清の嵐が吹き荒れたって、シナ民族は滅びない。え?生命力が半端じゃないから?かもしれない。けどスターリンの暴政でソ連が滅びたわけではない。ホロコーストがあったとしても、ユダヤ民族は今でも大きな力を持っている。

 自然界では「絶滅」ということがある。でも人間界・社会では「滅びる」ことはあっても、「滅ぼされる」ことはない。「大衆・民衆」は「衆愚」に見えても、「日和見」菌ではない。意志を持っている「日和見」者だから、「滅びる」ことを望んで自ら命を絶つことはあっても、「滅ぼされる」ことには抗う。「滅ぼされた」かのように見えても、実は内部崩壊が主因だったりする。

 脱線した。
 自然界では「遊び呆けている蟻」や「悪玉菌」を除去すれば新しいそれらが出現し、結局は全体の体力が低下、「そして誰もいなくな」り、「絶滅する」らしいと書いたのだけれど。
 ということは
 「遊び呆けていると言われた蟻はホントに遊び呆けていたのか」
 「悪玉菌ってホントに悪玉なのか」
 など、一度は考えてみなければならないのではないか。
 そして、その延長線上ながら、質的に飛躍的な発展を遂げてきた我々の「社会」では、例えば無政府主義者や共産主義者に代表される革命思想の持主・国家破壊論者等をとっつかまえて牢屋にぶちこんでしまう、又は処刑してしまうと、それで万々歳となるのだろうか、と考えてみなければならないのではないか。

 やらなければならないのは彼らを投獄することではなく、七割を占める、余裕をかましている日和見者に
 「ね?彼等の言ってること、変だろ?あれで『国民の幸せ』って実現すると思う??」
 、と話し続けることではないだろうか。
 反国家、反政府の考えをなくすことよりも、それらを「『現実』に対立するもの」としていつも意識し考え続けることの方が大切なのではないか。
 我々はナマモノ。生き続ける間にどんどん変わる(変質する、劣化する、忘却する)。同じ変わるなら劣化より進歩の方が良いに決まっている。
 自公の「一強」、それに対する寄せ集めの野党が「多弱」。
 この状態が危険だと言われるのは、「多弱」であるがゆえに、共産党などの単純な主張が多弱を囲い込んだとき、一気に七割の日和見者が雪崩をうって共産党側になってしまう恐れが出てきたからだ。

 「考え続ける」ということは、切り捨てるための物差しの精度を高めることではない。
 
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