2013.05/03 (Fri)
「美しい国」というのは、何も安倍晋三首相の一手専売ではない。戦時の記憶も生々しい1948(昭和23)年、「美しい国」という詩集を世に出したのは、今も静かな人気のある詩人永瀬清子だった。本のタイトルにもなった詩をこう書き出す
▼〈はばかることなくよい思念(おもい)を 私らは語ってよいのですって。 美しいものを美しいと 私らはほめてよいのですって。 失ったものへの悲しみを 心のままに涙ながしてよいのですって。……〉。そして、〈私らは語りましょう語りましょう手をとりあって〉と詩は続く
▼永瀬はこの年42歳。夫は2度応召し、幸い帰還していた。口を縛り、思いを封じてきた時代。その天井が開(あ)き、青空を仰いだような高揚が言葉にこもる。前の年に、新憲法を戴(いただ)く「戦後」は始まった
▼以来66年、焦土から立ち上がって、日本は繁栄を築きあげてきた。背骨には平和憲法があった。読み直してみて、前文に古さは感じない。世界がこれに追いついてほしいと、むしろ思う
▼きのうの紙面に、「女性の61%が9条維持」という世論調査結果が載っていた。逆に「変える」は男性の50、60代で高かった。万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか。政権内の人も多くは同じ世代である
▼安倍さんは改憲手続きを定めた96条を緩めたがる。だがそうなれば、もののはずみや時代の気分で大切なものを失いかねない。誰にとって、どう「美しい」国なのか、守り伝えるべきものは何か、考えたい。
朝日新聞 5月3日朝刊 「天声人語」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
憲法記念日。
ニュースではちゃんとバランスを取る形で、改憲派、護憲派双方の主張を流していた。
この朝、朝日新聞はどうかというと、天声人語には上記の文章が載せられていた。
詩人永瀬清子の「誰はばかることなく心にある思いを口外していいのだ、もう何も我々を縛るものはないのだ!」というような思いを、「戦後世界万歳!」と、自由を謳歌しているのだ、と捉える。
戦後日本の繁栄は平和憲法のおかげであり、今になってもそれに古さはなく、むしろ世界がこれに追いつかなければならない、とする。
「万一戦争になっても、もう行くトシではない」50、60の男どもが無責任にも改憲に賛成し、「安倍さん」が改憲手続きを緩めれば
「もののはずみや時代の気分で大切なものを失いかねない」
と推測し、
「守り伝えるべきものは何か、考えたい」
と例によって、意見はなく終わる。
これだけ見れば、何だか会津の「什」の掟にある、
「ならぬことはならぬものです」
に似ている、と早合点する人がいるかもしれない。
いや、朝日新聞の長年の読者なら、間違いなくそうなるだろう。
しかし一呼吸してもう一度読むと、やっぱり妙なことに気が付く。
「什」の掟は、具体的なことをきちんとあげて、その上で、最後の最後になって、
「ならぬことはならぬものです」
で終わります。
つまり什の掟では、「考え方」がきちんと例示されてあって、その例示では、子供では対応できないような難問に遭った時、初めて「ならぬことはならぬものです」となっている。実に合理的な教え方になっているのです。
しかし、これは「子供には」合理的、なのであって、全ての人間に合理的だ、という事ではありません。
物事、「いつだってこれで良い」、なんてことはない。大人にだって「什」の掟は絶対合理的だ、とは言い切れません。
「平和憲法を背骨にして日本は繁栄を築き上げた」
事実だと思います。
「前文に古さは感じない」
事実だと思います。
けれど、
「世界がこれに追いついてほしいと、むしろ思う」
ん?何でそうなる?
日本が繁栄を築き上げて、憲法の前文は古くなくて、「だから」、世界が追いついて欲しい、というのは、日本の何に、ということなんだろうか。
繁栄は良いこと。
古く感じないことは良いこと。
では、世界を「後れている」、と捉えることは?
何を以て繁栄と捉え、何を以て古く感じると捉え、何を以て世界を「後れている」と断定するのか。初めの二つは自国のことだから良いけれど、世界の評判は同じようにはできない。いつものことながら、なんとも傲慢な決めつけ方です。
傲慢の証拠が次の一言。
「万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか」、50、60代の男性が
「9条を変える」、に多く賛成していた。
これでは50、60代の男性が無責任である、と断じるのと同時に、それ以下の男性は怯懦(きょうだ)であるから「9条を変える」ことに反対している、と言っているのと同じことになるではないか。
ここに書かれていることを見れば、
「新憲法のおかげで日本は繁栄したが他の多くの国は繁栄していない。世界の国々よ、早く日本に追いついて来い」
としか取れない。
総理大臣を「さん」づけで呼び、
「もののはずみで大切なものを失うかもしれないから」
96条を変えてはならない、と憲法を「縛り」、としか見ない。
敗戦後三年時の、一女性詩人の思いと、将来の日本の在り方を見据えて国政に与かる総理大臣の思いを同列にして眺め、
「もののはずみで大切なものを失うかもしれないから」
と批判する在り方を
「同じ人間。人間はみな平等なんだから、いいんじゃない?」
と右から左に受け流していていいんでしょうかね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思いついて永瀬清子の言葉をさがしてみました。
《我々は女が強くなって離婚数が多くなったことを喜ぶのですか。
教育ママが子供を支配しだしたことを喜ぶのですか。
旦那よりよけいおしゃべりすることを喜ぶのですか。
我々はいつも一歩高くなったら一歩新しい問題に直面していることを知らねばならないのですよ。》
《民主主義というのは、自分の心を自分でちゃんと知ること、それが第一で、また、それをはっきり表現できることだと思うのです。
第二には相手の心がわかること。
第三に、共に協力し進歩していくこと。
この3つが揃ってはじめて本当の民主主義なのではないかと思います。》
ちゃんと、「謙虚」と、それから生ずる「思い遣り」があって、「共に生長しよう」という、昔からの日本人の生き方を述べているだけなのではないかと思いますが。
編集子よりよっぽど真面目に物事を考えて居られるんじゃないかな、と感じたのは私だけでしょうか。
「美しい国」というのは、何も安倍晋三首相の一手専売ではない。戦時の記憶も生々しい1948(昭和23)年、「美しい国」という詩集を世に出したのは、今も静かな人気のある詩人永瀬清子だった。本のタイトルにもなった詩をこう書き出す
▼〈はばかることなくよい思念(おもい)を 私らは語ってよいのですって。 美しいものを美しいと 私らはほめてよいのですって。 失ったものへの悲しみを 心のままに涙ながしてよいのですって。……〉。そして、〈私らは語りましょう語りましょう手をとりあって〉と詩は続く
▼永瀬はこの年42歳。夫は2度応召し、幸い帰還していた。口を縛り、思いを封じてきた時代。その天井が開(あ)き、青空を仰いだような高揚が言葉にこもる。前の年に、新憲法を戴(いただ)く「戦後」は始まった
▼以来66年、焦土から立ち上がって、日本は繁栄を築きあげてきた。背骨には平和憲法があった。読み直してみて、前文に古さは感じない。世界がこれに追いついてほしいと、むしろ思う
▼きのうの紙面に、「女性の61%が9条維持」という世論調査結果が載っていた。逆に「変える」は男性の50、60代で高かった。万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか。政権内の人も多くは同じ世代である
▼安倍さんは改憲手続きを定めた96条を緩めたがる。だがそうなれば、もののはずみや時代の気分で大切なものを失いかねない。誰にとって、どう「美しい」国なのか、守り伝えるべきものは何か、考えたい。
朝日新聞 5月3日朝刊 「天声人語」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
憲法記念日。
ニュースではちゃんとバランスを取る形で、改憲派、護憲派双方の主張を流していた。
この朝、朝日新聞はどうかというと、天声人語には上記の文章が載せられていた。
詩人永瀬清子の「誰はばかることなく心にある思いを口外していいのだ、もう何も我々を縛るものはないのだ!」というような思いを、「戦後世界万歳!」と、自由を謳歌しているのだ、と捉える。
戦後日本の繁栄は平和憲法のおかげであり、今になってもそれに古さはなく、むしろ世界がこれに追いつかなければならない、とする。
「万一戦争になっても、もう行くトシではない」50、60の男どもが無責任にも改憲に賛成し、「安倍さん」が改憲手続きを緩めれば
「もののはずみや時代の気分で大切なものを失いかねない」
と推測し、
「守り伝えるべきものは何か、考えたい」
と例によって、意見はなく終わる。
これだけ見れば、何だか会津の「什」の掟にある、
「ならぬことはならぬものです」
に似ている、と早合点する人がいるかもしれない。
いや、朝日新聞の長年の読者なら、間違いなくそうなるだろう。
しかし一呼吸してもう一度読むと、やっぱり妙なことに気が付く。
「什」の掟は、具体的なことをきちんとあげて、その上で、最後の最後になって、
「ならぬことはならぬものです」
で終わります。
つまり什の掟では、「考え方」がきちんと例示されてあって、その例示では、子供では対応できないような難問に遭った時、初めて「ならぬことはならぬものです」となっている。実に合理的な教え方になっているのです。
しかし、これは「子供には」合理的、なのであって、全ての人間に合理的だ、という事ではありません。
物事、「いつだってこれで良い」、なんてことはない。大人にだって「什」の掟は絶対合理的だ、とは言い切れません。
「平和憲法を背骨にして日本は繁栄を築き上げた」
事実だと思います。
「前文に古さは感じない」
事実だと思います。
けれど、
「世界がこれに追いついてほしいと、むしろ思う」
ん?何でそうなる?
日本が繁栄を築き上げて、憲法の前文は古くなくて、「だから」、世界が追いついて欲しい、というのは、日本の何に、ということなんだろうか。
繁栄は良いこと。
古く感じないことは良いこと。
では、世界を「後れている」、と捉えることは?
何を以て繁栄と捉え、何を以て古く感じると捉え、何を以て世界を「後れている」と断定するのか。初めの二つは自国のことだから良いけれど、世界の評判は同じようにはできない。いつものことながら、なんとも傲慢な決めつけ方です。
傲慢の証拠が次の一言。
「万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか」、50、60代の男性が
「9条を変える」、に多く賛成していた。
これでは50、60代の男性が無責任である、と断じるのと同時に、それ以下の男性は怯懦(きょうだ)であるから「9条を変える」ことに反対している、と言っているのと同じことになるではないか。
ここに書かれていることを見れば、
「新憲法のおかげで日本は繁栄したが他の多くの国は繁栄していない。世界の国々よ、早く日本に追いついて来い」
としか取れない。
総理大臣を「さん」づけで呼び、
「もののはずみで大切なものを失うかもしれないから」
96条を変えてはならない、と憲法を「縛り」、としか見ない。
敗戦後三年時の、一女性詩人の思いと、将来の日本の在り方を見据えて国政に与かる総理大臣の思いを同列にして眺め、
「もののはずみで大切なものを失うかもしれないから」
と批判する在り方を
「同じ人間。人間はみな平等なんだから、いいんじゃない?」
と右から左に受け流していていいんでしょうかね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思いついて永瀬清子の言葉をさがしてみました。
《我々は女が強くなって離婚数が多くなったことを喜ぶのですか。
教育ママが子供を支配しだしたことを喜ぶのですか。
旦那よりよけいおしゃべりすることを喜ぶのですか。
我々はいつも一歩高くなったら一歩新しい問題に直面していることを知らねばならないのですよ。》
《民主主義というのは、自分の心を自分でちゃんと知ること、それが第一で、また、それをはっきり表現できることだと思うのです。
第二には相手の心がわかること。
第三に、共に協力し進歩していくこと。
この3つが揃ってはじめて本当の民主主義なのではないかと思います。》
ちゃんと、「謙虚」と、それから生ずる「思い遣り」があって、「共に生長しよう」という、昔からの日本人の生き方を述べているだけなのではないかと思いますが。
編集子よりよっぽど真面目に物事を考えて居られるんじゃないかな、と感じたのは私だけでしょうか。