CubとSRと

ただの日記

例によって「事実は一つ」なんだけれど

2020年04月13日 | 心の持ち様
2013.05/03 (Fri)

 「美しい国」というのは、何も安倍晋三首相の一手専売ではない。戦時の記憶も生々しい1948(昭和23)年、「美しい国」という詩集を世に出したのは、今も静かな人気のある詩人永瀬清子だった。本のタイトルにもなった詩をこう書き出す
▼〈はばかることなくよい思念(おもい)を 私らは語ってよいのですって。 美しいものを美しいと 私らはほめてよいのですって。 失ったものへの悲しみを 心のままに涙ながしてよいのですって。……〉。そして、〈私らは語りましょう語りましょう手をとりあって〉と詩は続く
▼永瀬はこの年42歳。夫は2度応召し、幸い帰還していた。口を縛り、思いを封じてきた時代。その天井が開(あ)き、青空を仰いだような高揚が言葉にこもる。前の年に、新憲法を戴(いただ)く「戦後」は始まった
▼以来66年、焦土から立ち上がって、日本は繁栄を築きあげてきた。背骨には平和憲法があった。読み直してみて、前文に古さは感じない。世界がこれに追いついてほしいと、むしろ思う
▼きのうの紙面に、「女性の61%が9条維持」という世論調査結果が載っていた。逆に「変える」は男性の50、60代で高かった。万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか。政権内の人も多くは同じ世代である
▼安倍さんは改憲手続きを定めた96条を緩めたがる。だがそうなれば、もののはずみや時代の気分で大切なものを失いかねない。誰にとって、どう「美しい」国なのか、守り伝えるべきものは何か、考えたい。


    朝日新聞 5月3日朝刊    「天声人語」


  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 憲法記念日。
 ニュースではちゃんとバランスを取る形で、改憲派、護憲派双方の主張を流していた。
 この朝、朝日新聞はどうかというと、天声人語には上記の文章が載せられていた。

 詩人永瀬清子の「誰はばかることなく心にある思いを口外していいのだ、もう何も我々を縛るものはないのだ!」というような思いを、「戦後世界万歳!」と、自由を謳歌しているのだ、と捉える。
 戦後日本の繁栄は平和憲法のおかげであり、今になってもそれに古さはなく、むしろ世界がこれに追いつかなければならない、とする。
 「万一戦争になっても、もう行くトシではない」50、60の男どもが無責任にも改憲に賛成し、「安倍さん」が改憲手続きを緩めれば
 「もののはずみや時代の気分で大切なものを失いかねない」
 と推測し、
 「守り伝えるべきものは何か、考えたい」
 と例によって、意見はなく終わる。

 これだけ見れば、何だか会津の「什」の掟にある、
 「ならぬことはならぬものです」
 に似ている、と早合点する人がいるかもしれない。
 いや、朝日新聞の長年の読者なら、間違いなくそうなるだろう。

 しかし一呼吸してもう一度読むと、やっぱり妙なことに気が付く。
 「什」の掟は、具体的なことをきちんとあげて、その上で、最後の最後になって、
 「ならぬことはならぬものです」
 で終わります。

 つまり什の掟では、「考え方」がきちんと例示されてあって、その例示では、子供では対応できないような難問に遭った時、初めて「ならぬことはならぬものです」となっている。実に合理的な教え方になっているのです。

 しかし、これは「子供には」合理的、なのであって、全ての人間に合理的だ、という事ではありません。
 物事、「いつだってこれで良い」、なんてことはない。大人にだって「什」の掟は絶対合理的だ、とは言い切れません。

 「平和憲法を背骨にして日本は繁栄を築き上げた」
 事実だと思います。
 「前文に古さは感じない」
 事実だと思います。
 けれど、
 「世界がこれに追いついてほしいと、むしろ思う」
 ん?何でそうなる?

 日本が繁栄を築き上げて、憲法の前文は古くなくて、「だから」、世界が追いついて欲しい、というのは、日本の何に、ということなんだろうか。
 繁栄は良いこと。
 古く感じないことは良いこと。
 では、世界を「後れている」、と捉えることは?

 何を以て繁栄と捉え、何を以て古く感じると捉え、何を以て世界を「後れている」と断定するのか。初めの二つは自国のことだから良いけれど、世界の評判は同じようにはできない。いつものことながら、なんとも傲慢な決めつけ方です。
 傲慢の証拠が次の一言。

 「万一戦争になっても、もう行くトシではない――からか」、50、60代の男性が
「9条を変える」、に多く賛成していた。
 これでは50、60代の男性が無責任である、と断じるのと同時に、それ以下の男性は怯懦(きょうだ)であるから「9条を変える」ことに反対している、と言っているのと同じことになるではないか。

 ここに書かれていることを見れば、
 「新憲法のおかげで日本は繁栄したが他の多くの国は繁栄していない。世界の国々よ、早く日本に追いついて来い」
 としか取れない。

 総理大臣を「さん」づけで呼び、
 「もののはずみで大切なものを失うかもしれないから」
 96条を変えてはならない、と憲法を「縛り」、としか見ない。

 敗戦後三年時の、一女性詩人の思いと、将来の日本の在り方を見据えて国政に与かる総理大臣の思いを同列にして眺め、
 「もののはずみで大切なものを失うかもしれないから」
 と批判する在り方を
 「同じ人間。人間はみな平等なんだから、いいんじゃない?」
 と右から左に受け流していていいんでしょうかね。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 思いついて永瀬清子の言葉をさがしてみました。

 《我々は女が強くなって離婚数が多くなったことを喜ぶのですか。
 教育ママが子供を支配しだしたことを喜ぶのですか。
 旦那よりよけいおしゃべりすることを喜ぶのですか。
 我々はいつも一歩高くなったら一歩新しい問題に直面していることを知らねばならないのですよ。》
 《民主主義というのは、自分の心を自分でちゃんと知ること、それが第一で、また、それをはっきり表現できることだと思うのです。
 第二には相手の心がわかること。
 第三に、共に協力し進歩していくこと。
 この3つが揃ってはじめて本当の民主主義なのではないかと思います。》

 ちゃんと、「謙虚」と、それから生ずる「思い遣り」があって、「共に生長しよう」という、昔からの日本人の生き方を述べているだけなのではないかと思いますが。
 編集子よりよっぽど真面目に物事を考えて居られるんじゃないかな、と感じたのは私だけでしょうか。
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「結局、元に戻る(?)」

2020年04月13日 | 心の持ち様
2013.05/09 (Thu)

(峠の太刀打ちではなく)からの続き

 工夫はしてみるものです。ゆっくり振ってみる。左拳を動かさず、とにかく右拳で打ち出してみる。スローモーションでやるから、手首が返る時の感触を、時間をかけてじっくり味わうことができます。
 やってみると、手首が返るというのは筋力の問題ではなく、(手首の強さなどではなく)、右手をどう押し出し、左手をどれだけ緩めずに、しかも力を入れないで同じ位置にとどめおくことができるか、が重要、と実感できます。
 返る感触が分かったら、そして右拳で打ち出して刀が前方に飛ぶような感触を感じたら、力んだって左拳からは出さないでいる感触、も近々に分かるようになるでしょう。

 そうやって、初めからそれなりに早く、強く振れるようになると、当然加速がつきますから、打点である、肩の高さ辺りでは、「力を抜いて、大きく振っ」ていた時以上に早くなっています。・・・・・という事は?
 結局、また新しい峠が出来てしまう。
 あれ?それでは工夫した意味がないではないか。

 どうでしょうか。工夫をしたら、手足を連動・連携させることができる。
 ・・・・と思ったのに、また高次元の同じ問題にぶち当たってしまった。
 「こんなことなら、やらない方が良かった」、のでしょうか。
 全体に早くなったとはいえ、結局は峠の太刀打ちになってしまった。
 「やらなかった方が良かった。だから元に戻そう」

 百人のうち、何人くらいがそう言うでしょう。おそらく一人もいないでしょうね。
 「昨日の便利は今日の当たり前、今日の当たり前は明日の不便」です。
 自然な打ち方が、意図的な修練によって間違いなく速くなった。
 けれどもそれは全体の速さを高めたことで「しか」ない。決して高原のように初めから終わりまで、「いきなりの最高速」、にはならない。
 本当に「天井を掃く」、なんてあり得ない、という事です。

 それじゃ、意味はなかったのか???
 それはない。意味がないどころか、「初めから最速を!」と目指したことによって、以前の頂上の速さより、格段に早くなっている現実があるでしょう。

 これは、「考える」、だけじゃなく、実際にやってみて、初めて実感、それも痛感に近い感じで、「分かる」ことです。
 刀を振るのに、早いに越したことはない。
 けれど、速さに固執すると、肝腎な両手で「切る」ことが疎かになります。
 宮本武蔵は「早く振ることが大事なのではない、自然に無理なく振ることが大事なのだ」と言ったようなことを書き残しています。

 武蔵が天下の名人だったことは、日本人ならみんな知っているでしょう。
 けれど、武蔵以上の人は、天下に何十人、何百人もいたのであり、同時代にだって何人も居たのです。
 「できることなら早いに越したことはない」、と武蔵だって思っていたでしょう。
 勝負に勝つという事と、刀を振るう技術は同じではない、ということを忘れず、刀法について考えるべきです。

 「峠の太刀打ちでは駄目だ。初速から最速であるべきだ」
 それが工夫によって、初速も峠の頂上の速さになった。
 けれど、それは同時に峠の頂上の速さを、以前より格段に早くすることでもあった。これが「否定の否定」です。
 工夫する前と、構造は全く同じだけれど、(つまり、見た目は何も変わらないけれど)内容は質的に桁違いの向上を見せている。それを見取るか見取れないか。

 「何だ。全く同じじゃないか」と否定するだけなら誰にだってできます。でも、そこからは何も生まれない。
 否定したことを更に否定することによって、新境地が開けるということ。
 そして、それは見る目を持った者にしか分からない、ということ、事例はいくらでも周辺に転がっているでしょう。
 見る目があれば質的向上の有無は瞬時に分かります。
 師匠は当然のこと、見る目を持っている。
 修業者は一所懸命な修業のうちに、見る目を養っていく。
 ということは「何だ、何も変わってない。全く同じじゃないか」と言う人の目は??

 これはこのまま政治にも言えることですね。環境委長解任決議等はその好例でしょう。

 「長いこと引っ張ったわりに、何の役にも立ちそうにないことばかりだったなあ」
 と思われたら、ごめんなさい、と言うしかありません。
 しかし、言いたいことは結局、以前に書いた数稽古と同じことです。
 考えただけで、或いは僅かにやってみただけで、簡単に「役に立たない」と言うのはせっかち過ぎる、と。
 せめて、道理に合った稽古を、数万回は繰り返して、その上で「駄目だった。でもそれは自分だけかもしれない」と言うべきじゃないかと思うんです。
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峠の太刀打ちではなく

2020年04月13日 | 心の持ち様
2013.05/05 (Sun)

 (「刀を振る」からの続き)

 初め弱く遅く、切っ先が返ったあたりから強く速くなり、打った時が最大・最強になり、また弱く遅くなって、止まる。別段変わったことではありません。自然なことです。そして、それが両手刀法の特徴です。

 特徴と書いたのは、長所でもあり短所でもある、独特な使い方だからです。
 切る、という事に関しては、片手刀法では決してできない精妙な技を、両手刀法は持っています。けれども、そうであればあるだけ、制約も多くなる。
 (体捌きや流儀独自の廻剣法等で、それらの制約から解放されることに関しては、今回の題ではないので、また別の機会に、としておきます)
 初めから早く振り出せば(切り出せば)、足運びとも合わさって、より確実に、早く強い切り付けができる。そうすることが刀に対する礼でもある。
 けれどそれがそう簡単にはできないのが、両手刀法の特徴でもある。

 そんなことを書いて来たんですが、その解決法は既に書いたんでした。
 ただ、「理論と実践は違う。どうせできないのなら教えられた練習法を~」、と言われるだろうと。
 「できもしない、そんな甘っちょろいこと言っているより、『慌てず、切り付ける位置で最高速になれば』」、と大方は、なってしまう。

 でも、ここが工夫なんじゃないでしょうか。
 力むとどうしても左拳から出てしまう。左拳を停めて置いて、右拳から打ち出せば良いのだけれど、それができない。
 ならば、力まないでやれば良い。初めはスローモーションのようにやれば良い。習字の練習を先生の筆遣いを見よう見まねでやるように、右から打ち出すことをゆっくり自分に教え込むように。
 刀(木刀)が重いのならば、それこそ桐の木刀でも持って、カタツムリの前進の如くにゆっくりゆっくりやれば良い。その過程で理想の軌跡を身体に覚えさせれば良い。
 そうして、桐の木刀の重さ(切っ先の重さ)を感じるようになる頃には手の返りも早くなっていることだろう。

 ・・・・・・・なんて書くと、きっと言われるんですよ、「何だ、バカバカしい。そんなことなら疾っくの昔にやっておるわい!」って。
 そんなこと言わない?言ってほしいんですけど。
 私が知らないだけかもしれないけど、刀の振り方で、その「手の返し」を「ゆっくりと」、最低でも数百回、稽古時には必ずやっている、なんて聞いたことありません。

 健康体操としての太極拳は、とてもゆっくりやっているので何とも思わないでしょうけど、武術としての太極拳もまた、とてもゆっくりした動作です。中には素早く行う動作もあるけれど、大半の技はゆっくり修練します。鍛錬の「鍛」える方でなく、「錬」る方といった感じですか。
 勿論、実戦であんなにゆっくり動くことはありません。時代劇の殺陣のように、相手が攻撃をしてきたら、あの動作を、まるで早回しのように行います。
 太極拳の修練の様子を見た合気道の修業者が
 「でも、あれを十年以上続けていれば、『あのまま』を素早くできるようになるんでしょうね」
 と言った、というのを読んだことがあります。

 ゆっくりやることで軌跡を身体に覚えさせる。その際、意識もつくっていくので、戦いという非常時に慌てふためくことなく、覚え込んだ身体の動かし方を実践できるようになる。
 健康体操としてのそれなら、「命のやり取り」などは考えず、気持ちを落ち着けてということに終始するわけですから、武術としては使えません。

 手を返すことをゆっくりと繰り返してみる。
 その際に常に「敵もこれを持ち来(きた)るよ」という意識を持ちながらも、ゆっくりと一回ずつ、振りの初めから手を返すように、切り付けた時も同じ、切り終わる時も同じというつもりで、毎回数百回程度でもやってみれば、自分の描いていた理想の形と、現実の身体の遣い方とのずれが少しずつ小さくなっていくのではないでしょうか。

 「そんなこと、とっくの昔にやっていた」「そんなこと知ってるよ」「そんなの時代遅れだ」「そんなの無駄が多過ぎる」等々、言うのは簡単ですけど、本当にやってみたんでしょうか。

 「やってみたよ。やってみたけどダメだったんだ。」
 「専門家でもないのに。エラそうなこと言わんで黙っとれ!」
 でも繰り返しますけど、本当にやってみたんでしょうか。
 技を手に入れるには、最低でも数千回から数万回、正しい形で繰り返さなければならない。普通は数十万回、でしょう?
 一日千回の素振りなら、僅か十日で一万回、なんですから。三月余りで十万回、ですよ?
 カタツムリみたいなノロノロ練習、実際にやろうと思えば相当な忍耐力が必要です。

 唐突ですが、経済回復のために、現政権は矢継ぎ早に色んなことをしていますが、結果が出るのはいつごろになるでしょうか?
 周到な準備をして、信じてこれに真剣に取り組んだって、結果がすぐ出る、なんてことはまずないでしょう。
 「手の返し」の習練だって同じことです。
 結果がすぐ出ないから、そんな練習、意味がない?

 習い事に関しては、「やってみたけどダメだった」、と断言できるほど「やってみた」人って、いないんです。
 いるのは今でもやり続けている人と、やめた人、だけなんですから。


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刀を振る

2020年04月13日 | 心の持ち様
2013.05/02 (Thu)
 
 刀を振る、その振りの早さについて書こうと思ったのが、枕から「枕詞は大事だ!」になってしまって。或る意味、とんでもなく歴史のある支線に踏み込んで終わりました。

 さて、今回は真剣に(縁語?)、刀の振りの早さについて、です。
 続き物なのにカテゴリーを換えて、今回は脱線せぬよう。

 以前に居合を習った時、「天井を掃くように振りなさい」、と教えられたと書きました。そうすれば、感覚的にはともかく実際には切っ先が大きな円を描くように振ることになる、と。
 きれいな円形は見た目にも美しいけれど、何より「切れる」居合になると言われます。その理由(切れる)は簡単で、きれいな円形を描く時の刀の切っ先は、そうでないものに比べると段違いに早く移動しており、当然切れ味は格段に上がるからです。

 加えて一寸長ければ、振りの半径が一寸長くなるわけですから、切っ先の速度はそれだけ早くなる。その「当たり」は想像以上に強くなります。
 幕末、尊王の志士達が争って寸延びの刀を差そうとしたのもそれが故です。
 薙刀で、本気で正面から打ち込まれたら受け切れず、倭寇が長柄の刀で切り付けてくるのを明兵が留められないのには、ちゃんとした理由がある、ということになります。切っ先までの半径が大きければ、それだけ早く、重くなる。

 次に、居合では、全く足を止めずほとんど歩きながらの状態で切り通す、という型はどこの流儀にもないのでは、と思います。
 試し切りをする時にも、一歩踏み込むという場合はあるでしょうが、数歩足を進めて、そのまま切り付けるという事はしません。
 前進することと、切り付けることを同時にすれば、立ち止まって切り付けるより、早く、強くなります。けれど、書いたように、それをする人はいないし、実際、それをやろうとするとなかなか上手くいかない。足の運びは等速に近いのに、刀の振りは、初めと切り付けの段階で速さが変わってしまうからです。
 等速の足運びと、峠のある振りとのバランスを取る、というのは至難の業です。それに加えて両手刀法の難しさがその前に大きく横たわっています。

 それで理想は最初から峠の頂上。初めから早ければ、素早い足の運び(=身体の移動)との相乗作用により、思いもよらない速さと強さを得ることができる筈です。
 ゆっくり、天井を掃くくらいの気持ちで切り出すと、振りかぶった刀の切っ先は大きな円を描いて移動し、当たる位置(普通は相手の首筋くらいの高さ)で容易く最高速にできます。
 しかしこれを初めから最高速にしようとすると・・・・・・?

 その感じ、経験のない人だって「ああ、こりゃだめだ」とすぐ気が付かれるんじゃないでしょうか。
 
 頭上に、刀を持ってるつもりで拳を構えてみる。そして、刀を切り出すつもりで両拳を勢いよく打ち出してみると、「アキレスと亀」の話じゃないけれど、絶対に「左拳」が先に動くでしょう?
 「左拳」が先に動き、右拳が同時か、少し遅れるくらいか、して、動く。
 それでも、肩の高さくらいを切りつけようとすると、両拳が返っていつの間にか切っ先が当たっている。

 これが自然にできる「峠のある切り付け」、です。
 そうならないようにしようとすると、振りかぶった左拳は全く動かさず、右拳だけで打ち出して、両拳が返ったところから、当たり前に切りつけるという形しかない。
 口で言うだけなら簡単なことです。別にどうってことない。やってみりゃいいじゃないか。けど、これは力めば力むほど左拳が先に出てしまう。
 当然、そんなだから切っ先は最後の最後になって返ることになる。
 「理屈ではこうだから」、と力めば力むほど遅くなり、手元にばかり力が入って、打ちも弱くなる。

 「理屈ではこうだから」「正しいことだから」「これが究極の形だから」、「分かったからできる筈だ」。
 で、その通り、やる。上手くいかない。
 自分が考えた場合は「やはり理論と実践は違うんだな」。
 他人から教えられた場合は「ウソを教えられた!」

 「正しいことだから」上手くいく?
 「究極の形だから」できて当然?
 これ、肝腎なことが抜けています。
 「円安株高で、給料が増える・・・・増えないじゃないか!もう三ヶ月『も(!)』経ったのに!!」
 これと同じです。物事には順序というものがある。
 「理屈ではこうだから」と、「できる(筈)」の間に、「大いなる修練」があることを失念している。

 「切っ先を早く返そうとして、反対のことに『なるくらいなら』、初めから最高速を目指す、なんてこと、きっぱり諦めて、ゆったりと上段に取り、振り出した方が却って早く、強く打ち出せるようになる」

 確かにそうでしょう。
 けれども、その考え方はほとんど敵前逃亡です。
 「健康体操としての太極拳と同じでいい。健康居合だ」
 というのは刀に失礼です。
 布津主の神の宿るのが刀です。刀を道具として扱うわけにはいきません。
 「刀を抜き、中段に構へて『敵もこれを持ち来るよ』と思ひてはたと見るべし」
 、です。早く振るのが刀に対する礼です。

 敵があり、白刃を構え、いつ切込んで来るか分からない。
 そんな状態の中で「ゆったりと上段にとって天井を掃くように振り出」せるものだろうか。「生死を明らめる」場で、本当に切り付ける位置で最速・最強の打ちになるような切り出しができるのだろうか。
 そう考えると、やはりこれは、切り出しから最速・最強の状態をつくる工夫はしてみるべきであろうということになります。

 そんなわけで、高弟に教えられたことを何とか実現させなければ、と工夫を始めました。


    (またもや、続きます)
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例大祭を振り返る

2020年04月13日 | 重箱の隅
2013.04/24 (Wed)

 昨日、朝日新聞の社説を読んで、感想を書きました。

 「自身が参拝しなければ乗り切れると思っていたとすれば、甘すぎると言わざるを得ない。」という説得力のない展開の末に、「このところ気になる言動が目立ち始めている」として「高い支持率で、緊張感が薄れているのではないか。閣僚の言動も含め、自制を求めたい」と結んでいる。

 大新聞に申し訳ないが噴飯ものの社説だ。
 「自身が参拝しなければ乗り切れると思っ」て、「閣僚の参拝は自由意思」だなどとするような浅墓な総理と、この三か月余りの政権運営をしてきた総理とが同じ総理に見えるのだろうか? その見方の方が甘過ぎるのではないか?
 
 これで、「閣僚を抑え付ける気はない」、という事を、また、真榊を奉納することで「退く気はない」という姿勢であることを、明らかにした、ととれないのだろうか。
 チャイナの申し立てに、即刻、訪支を取りやめた、ということで、あちらは完全に切り返されたことになるのだが。

      4月23日の日記 「『感謝したらダメ』、らしい」より

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 で、今日のMSN産経ニュースの記事。

 《靖国参拝批判に首相「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」》
               2013.4.24 14:27 [安倍首相]

 安倍晋三首相は24日の参院予算委員会で、安倍内閣の閣僚らの靖国神社参拝に中国や韓国が反発していることに関し「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ。わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保している。当然だろう」と述べた。

 首相は韓国が反発していることに「靖国の抗議を始めたのは盧武鉉(政権)時代が顕著になったが、それ以前はほとんどない。なぜ急に態度が変わったかも調べる必要がある」と強調。
 中国に対しても「A級戦犯が合祀(ごうし)されたとき、時の首相の参拝に抗議せず、ある日突然抗議をしはじめた」と不快感を示した。
 また「歴史や伝統の上に立った私たちの誇りを守ることも私の仕事だ。それを削れば(中国や韓国との)関係がうまくいくとの考えは間違っている」とも語った。

 靖国神社を参拝した麻生太郎副総理は「世界中で、祖国のために尊い命を投げ出した人たちに対し、政府が最高の栄誉をもって敬することを禁じている国はない」と指摘。古屋圭司国家公安委員長は「国のために命をささげた英霊に哀悼の誠をささげるのは当然だ」と述べた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130424/plc13042414...

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「自身が参拝しなければ乗り切れると思っていたとすれば、甘すぎると」
 いう見方の方が甘過ぎる、という事が明らかになったのではないかと思います。
 文句をつけさせないように諸事準備をしてきた。
 それでも文句をつけてくるだろうことは織り込み済みだったと思います。

 ただし、こちらが準備を抜かりなくやっておいた上に、文句をつけてくるのですから、どうしても力技、そして横道、横車な形にならざるを得ない。
 無理な注文だから、国内はともかく対外的には、「チャイナは変だぞ?」という印象を与えてしまう。
 だから、これは安倍総理の作戦勝ち、と思って見ています。

 尖閣の、水島氏等の乗った漁船を、八隻もの監視船で追い回したというのは、参拝問題へのあてつけではなく、あらかじめ入手していた情報に合わせて、できることならば拿捕するつもりで、だったと思われます。
 テレビ局によっては参拝問題に結び付けようとしているような雰囲気の番組作りをしていたところもあるようですが、これよりも領土の主張を強めることが効果的、とみている可能性大だと思います。

 結局、「『総理の言う事を聞かない議員』が、百七十名近く参拝した。それも、八月十五日ではないのに」、というのは、我々日本人が思う以上に、一党独裁の国の上層部には恐怖なんじゃないでしょうか。
 あの国が怖がっているのは、日本の政府ではない。総理大臣でもない。
 日本人が一致団結した時の集団の力が何よりも怖い筈です。
 閣僚が参拝するより、国会議員の大勢が参拝する方が怖い。
 国会議員の大勢が参拝するより、年々一般参拝者数が増大する方が怖い。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 最後に「夕刻の備忘録」を一部転載します。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 何度も何度も書いてきた。靖國参拝は「政治問題」ではない。国民の心の問題である。
 従って、政治家の参拝するしないは、全く考えるに値しないものである。
 一国民として参拝するもよし、それを政治利用しようとする輩に「その無効性を知らしめるため」ならば、参拝せずともよしである。

 政治家の参拝の有無とは無関係に、靖國を一億国民で充たせばいいのだ。それで「参拝問題」は直ちに解決する。
           (略)
 隣国の横暴を封じる最強の第一手は

 「初詣は靖國神社へ!」

 これをツイッター等で拡散することである。そして、自ら足を運ぶことである。
 靖國参拝は国民の心の問題である。
 政治家の参拝云々を声高に主張する者は敵である。
 敵の思う壺に嵌ってなお得意気な、こうした自己陶酔者にかまうことなく、我々は我々の心の声に従って靖國へ行く。
 そこに期待する政治家が居れば、「やあやあ」と声を掛け、居なければ「宜しくお伝え下さい」と伝言を頼むだけの話である。
          (略)


 「靖國参拝は政治問題ではない」   2012.12.22

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