2011.08/04 (Thu)
今度は九電の件、安全保安院の件から。
「反対派ばかりになるといけないから、と関係者に出席要請をした」
対して
「たった一週間しか応募期間がなかったのに、9割方埋まっていた。『あ、これは関係者だな』とすぐ分かった。」
「反対派の質問が想定問答としてあった例示と全く同じであった」
何を今更、です。
僅か一週間どころか、一日しかなくったって反対派は必ず聞きつけて参加するでしょう?そういう場合、黙っていたら、反対派ばかりになる。
こういう時、賛成派は納得しているわけだから、わざわざ、反対派と議論になるような場に行きます?無理をしてまで行こうとはしないでしょう?何も好き好んで喧嘩には行かない。
こんなの、原発だけでしょうか。
「一人くらい投票しなくたって」「どうせ、政治なんて変わりゃしない」
という気持ちの者を増やし、反対派は全員参加。
で、「ええっ?」と言ってる間に圧勝してしまう。これまた、ごく普通の駆け引き。そして、その結果が、とんでもない方向に政治を向かわせることを、マスメディアは、報じない。
デモや集会をする。警察発表と主催者側の発表とは大きく数字が違う。ひどい時には一桁違います。
主催者が一万人と言ったら、実際には千人余りと思った方がいい。
ただ、最近よく行われる「保守派のデモ」は、この差が、小さい。それは却って異常なんです。いかにも日本人のデモで、実数が発表と大差ないのは。
数字が一桁違うデモ(集会)。
理由は簡単。主催者発表というのは、当日カウントするのではなく、前日までに参加人数を各グループに聞いた集計でしかないからです。だから、幽霊参加がある。それも、とても多い。
「参加の意思はある。意思があれば、その場に居なくとも参加したと同じだ」
「やる気はあるんだ。事情があってできないんだけど」
「そうか!じゃ、参加したと一緒だ!」
日教組教育の在り方から、出てくる組合意識。
「デモに参加する意思はある。ただ、事情があって家を離れられない」
ポテトチップス食べながら、寝転がってテレビを見ていても、
「事情があって参加できない」
でしょう?
「テレビを見なければならない」。或いは「寝転がってポテトチップスを食べなければならない。でないと、死ぬかもしれない!」
それでも、「意志あり」、とメディアは報道する。
「そんなの意味ないじゃないか」とメディアは十分承知しながら、つまり、やらせと百も承知で、これまで記事を書き、テレビで流して来た。
それを今になってえらく深刻そうな顔して、「やらせだ」と報ずる。
「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人間が犬に噛み付いたらニュースになる」
当たり前のことを伝えても、「それがどうした?」だけれど、変わったことを伝えれば「へえ~っ!?」となる。
衆目を集めるのはメディアの一面。
だから、「見たくなきゃ見なければいい」と言い切り、
「伝えたくないから伝えないんだ」
と居直る。
或いは「見たくない人のことを考えて報道しない」
「当たり前のことなんだから」
と国旗掲揚シーンを流さないテレビ局も出て来る。
というわけで、私は報道の良心を疑います。
でも、これを、ね、
「そんなもん、今の報道が良心なんか、持ってませんよ。だから新聞もテレビもつぶれてしまえばいい。我々にはネットがある」
なんていったら、それこそ、テレビ的思考ですよ。
むざと彼らの網にかかってはならない。
今度は九電の件、安全保安院の件から。
「反対派ばかりになるといけないから、と関係者に出席要請をした」
対して
「たった一週間しか応募期間がなかったのに、9割方埋まっていた。『あ、これは関係者だな』とすぐ分かった。」
「反対派の質問が想定問答としてあった例示と全く同じであった」
何を今更、です。
僅か一週間どころか、一日しかなくったって反対派は必ず聞きつけて参加するでしょう?そういう場合、黙っていたら、反対派ばかりになる。
こういう時、賛成派は納得しているわけだから、わざわざ、反対派と議論になるような場に行きます?無理をしてまで行こうとはしないでしょう?何も好き好んで喧嘩には行かない。
こんなの、原発だけでしょうか。
「一人くらい投票しなくたって」「どうせ、政治なんて変わりゃしない」
という気持ちの者を増やし、反対派は全員参加。
で、「ええっ?」と言ってる間に圧勝してしまう。これまた、ごく普通の駆け引き。そして、その結果が、とんでもない方向に政治を向かわせることを、マスメディアは、報じない。
デモや集会をする。警察発表と主催者側の発表とは大きく数字が違う。ひどい時には一桁違います。
主催者が一万人と言ったら、実際には千人余りと思った方がいい。
ただ、最近よく行われる「保守派のデモ」は、この差が、小さい。それは却って異常なんです。いかにも日本人のデモで、実数が発表と大差ないのは。
数字が一桁違うデモ(集会)。
理由は簡単。主催者発表というのは、当日カウントするのではなく、前日までに参加人数を各グループに聞いた集計でしかないからです。だから、幽霊参加がある。それも、とても多い。
「参加の意思はある。意思があれば、その場に居なくとも参加したと同じだ」
「やる気はあるんだ。事情があってできないんだけど」
「そうか!じゃ、参加したと一緒だ!」
日教組教育の在り方から、出てくる組合意識。
「デモに参加する意思はある。ただ、事情があって家を離れられない」
ポテトチップス食べながら、寝転がってテレビを見ていても、
「事情があって参加できない」
でしょう?
「テレビを見なければならない」。或いは「寝転がってポテトチップスを食べなければならない。でないと、死ぬかもしれない!」
それでも、「意志あり」、とメディアは報道する。
「そんなの意味ないじゃないか」とメディアは十分承知しながら、つまり、やらせと百も承知で、これまで記事を書き、テレビで流して来た。
それを今になってえらく深刻そうな顔して、「やらせだ」と報ずる。
「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人間が犬に噛み付いたらニュースになる」
当たり前のことを伝えても、「それがどうした?」だけれど、変わったことを伝えれば「へえ~っ!?」となる。
衆目を集めるのはメディアの一面。
だから、「見たくなきゃ見なければいい」と言い切り、
「伝えたくないから伝えないんだ」
と居直る。
或いは「見たくない人のことを考えて報道しない」
「当たり前のことなんだから」
と国旗掲揚シーンを流さないテレビ局も出て来る。
というわけで、私は報道の良心を疑います。
でも、これを、ね、
「そんなもん、今の報道が良心なんか、持ってませんよ。だから新聞もテレビもつぶれてしまえばいい。我々にはネットがある」
なんていったら、それこそ、テレビ的思考ですよ。
むざと彼らの網にかかってはならない。