CubとSRと

ただの日記

車もバイクもやめたらいいでしょ!?

2020年04月06日 | 心の持ち様
2017.06/22 (Thu)

 今年に入ってからSRのフロントフォークのサスペンションがおかしい。時々、小さな段差でも何だか底を打つような衝撃がある。
 そうは言っても大体自分の運転技術が「はあ?」みたいな程度だから、
 「勘違いかもしれない。今頃になって腕の未熟さが分かるようになった?…ということは上手になったのかも?」
 、なんて能天気なことを思って数ヶ月様子を見ていた。
 ゆっくり走っている分にはほとんど気にならない。
 バイク店に聞くと
 「バネがヘタって来てるんだと思います」。
 確かに、20年も経てばサスペンションも疲れてくるだろう。そうなると交換するしかないのだが・・・・。
 「まあ、いきなり駄目になる、なんてことはないわけだから・・・。だましだまし乗る、か」。

 先日、思いついて往復で200キロほどの日帰りツーリングに出た。
 帰りがけ、スピードメーターをちらっと見たら、針が小刻みに揺れている。
 以前、針が大暴れし始めた時は、スピードメーターのケーブルがいかれていた。今度はそれほどひどくはないけれど、まず直る(収まる)ことはないだろう。これは間違いなくもっと大きく揺れ始め、いずれは大暴れに発展する。ただし、そうなっても走り方がぎくしゃくするわけではない。速度がどのくらい出ているか分からなくなる、だけだ。(勿論、整備不良で、交通違反ということになる)

 ということで、仕方なく再びバイク店に連絡。やはり、メーターのケーブルが駄目になっているんでしょう、と言われる。
 一瞬迷ったけれど、「来年にでも」と言っていたフロントフォークのサスも、一緒に直してもらうよう、お願いした。
 幸い、部品はすぐに手に入るということで、実際、言葉通り、二日後には部品交換(修理)が終わる。
 20年間、7万7千キロ近い走行距離のSRは、取り敢えず健康状態になった。
 勿論、新車の時の性能には遠く及ばないのだけれど。

 ところで。
 「まあ、いきなり駄目になるなんてことはないわけだから。だましだまし乗ればいいじゃないか」
 そういう選択肢もあった。
 「まだ大丈夫。用心して乗っていれば。今がその時、というわけじゃない」って。
 あれ?何だかどこかで聞いたような科白だな・・・?

 「これまで大丈夫だったんだ。これからだって大丈夫だろう。どんな経緯だって、『良いものは良い。駄目なものはダメ』。下手に触って取り返しのつかないようなことになっては。どうしても直すというのなら十分に議論をして、それからでもいいだろう」・・・?
 「大体、どこの国が攻めてくるって言うんだ?諸国民には『公正と信義』があるんだぞ。それにミサイルだって一発だけなら誤射かもしれないじゃないか」・・・・ってね。

 でも、とにかく金がないんだから。四月には自分のミスで車のバッテリーを駄目にした。それが余計な出費となった。
 五月は固定資産税。今月は県・市民税。バイクの車検。
 だから、本来ならば
 「それに加えて緊急でもない部品交換?そんなの後回し!」
 ・・・・、となるのだけれど、決心して直してもらうことにした。2万数千円かかった。

 「一瞬迷った」と書いたけれど、我ながら「いつもに似合わず決断が早かった」のは、このショートツーリングに出てすぐに(10キロほど走ったあたり)、路面の横波のような亀裂(小波のように数メートル間隔で並んでいた。大げさに言えば波状路みたいな)で、ハンドルから両手が離れそうになったからだった。
 慌ててシートから腰を浮かし、ハンドルを抑えたのだが
 「これは早く交換した方がいいな。事故ってからじゃ遅い」。
 その時、そう思った。

 ニワトリだかカラスだか知らんが、三歩歩けば忘れてしまう我が鳥あたま。ツーリング初めのことだから、帰ってきた時には本当なら危機感なんてすっかり忘れているのが平常運転。
 それが、今回は帰路になって始まり、家に帰るまで続いたスピードメーターの異常、のせいで問題意識(危機意識)を持ち続けていた。

 「緊急の問題ではない。用心さえしていれば大丈夫」
 確かにミスをしなければバッテリー上がりなんてなかったわけだし、そうだったらバッテリー交換なんてする必要はなかった。
 けど、ミスしたんだから。猛省したってバッテリーが復活するわけはないんであって、結局、交換して安心を得るにはお金を使うしかなかった。

 「20年たってバネがヘタってきたから、って。大体、バネが破断する、なんてことはないんだから。大丈夫、だいじょうぶ」。
 でも、本当に「用心してゆっくり走っていれば大丈夫!」・・・?
 「他に走っているものが居なかったとしたら~」の話なんか、する意味がないだろう。
 「目の前で無駄にブレーキを踏む車」は、いないか?
 「追い上げて、時には煽ってくる車」は、いないのか?
 「ハンドルを切ると同時にウィンカーをつける車」は、いないのか?
 そんな時に急ブレーキをかけたら、フロントサスは沈み切って底を打ち、乗っている者は前方に放り出される。
 車だって同じことが起こる。助手席でシートベルトをして赤ん坊を抱えている母親なら、赤ん坊はフロントガラスを突き破って車外に放り出される。
 自分だけ「用心してゆっくり走っていれば安全」、なんてあり得ない。
 だから「金がない」、なんてブツブツ言ってないで「安全のために自分のできること」は、努めて、する。

 え?「それなら車もバイクもやめたらいいじゃないか」って?
 確かに、ね。やめたらぶつけることはなくなります。ぶつけられることは相変わらずだけど。
 加害者にはならないけど被害者にはなる。つまり、事故は無くならない。

 「車社会」も「国際社会」も同じみたいですね。
 「自国だけが用心していれば、戦争は言うまでもなく、紛争だって起こらない」?
 「平和を愛する諸国民の公正と信義に(を?)信頼してわれらの安全と生存を保持することを決意した」?
 これなんか、「自身で用心さえしない」ということですからね。「命、預けます」、って。
 で、言う。
 「大丈夫だ。1952年から現在まで、ずっと平和だったじゃないか!」

 車やバイクは「乗らない」という選択肢があるけど、国際社会は「参加しない」って言ったら、どうなるのかな?

 周辺の「平和を愛する諸国民」は、讃辞や拍手を送ってくるんだろうか?
 それとも「我が国の国民を守るために」、と自国の軍隊を送り込んで駐屯させるんだろうか?
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幹→枝→葉 「平等」の欺瞞

2020年04月06日 | 心の持ち様
2017.06/28 (Wed)

 初めて飛行機に乗ったのは、29か30の時。確かボーイング747。
 間近で見る飛行機はこれが初めてで、その大きさには驚いた。
 けど、何より驚いたのは大きさではなかった。

 搭乗時、その巨大な主翼が目に入ったのだが、何だか妙だった。
 何が妙なんだろうと能々見ると、その大きな翼が揺れているからだった。それで驚いた。
 アイドリング状態の極低回転のエンジンの振動でかなり大きく上下に揺れていたのだ。
 「こんな軟弱な翼で大丈夫なのか??」

 滑走路に向けて走行を始める。当然のことながら、もっと揺れる。
 滑走路に入り、一時停止する。当然翼はやっぱり小刻みに揺れている。
 エンジンの出力が上がり、「ぐおーっ」が「きぃーん」になる。同時に機体がそろそろと動き出し、それにつれてまたもや翼が上下に揺れる。今度はさっきよりはるかに大きく上下している。
 なのにエンジンの出力はさらに上がり、さらには補助翼までが引き出される。
 これまたグラグラと揺れながら、「それ以上引き出したら千切れる!」と心配になるくらい引き出して、何とも危うい姿になる。
 その走行速度が最大になった頃、急に体に圧力がかかる。
 飛行機の前部が浮き上がり、
 「前は浮き上がったけど、機体はいつ離陸するんだ」
 と思った時には、まるで緩やかな坂道を滑り上がる(?)ように離陸している。いつ離陸したか分からない。
 「ガタゴトいってた走行音がなくなった時なんだろうな」
 、と思いはするけど能く分からない。
 翼が目に見えて大きく反り上がり、離陸が始まり、次の瞬間にはあの巨体が、ほとんど強引に宙に浮べられている。

 浮いてしまうと翼の揺れは小さくなり、それに併せるように補助翼が翼に引き込まれ始める。振動は小さくなり、翼の揺れも小さくなる。それでも翼は確かに上に向けて、しなっている。 

 初めは、この「しなり」が気になってしょうがなかったのだが二回、三回と乗るうちに感じ方が変わってきた。というより、考え方が間違っていた、と気が付いた。
 全てを同じ強度(同じ翼幅)にしていれば、翼の付け根に一番大きな力がかかる。それでは翼は簡単に折れる。
 しかし翼をつけた辺りの強度を一番高く、翼端に向かうに従って翼そのものが小さくなるのに合わせて強度を小さくすれば、翼が「しなる」。しなることによって、翼の付け根にばかり大きな力がかかることがないようにする。
 翼端に力を流してしまう(逃がす)ことで「折れない翼」を作る。

 考えてみれば、何てことはない。幹はしっかりと主枝を支え、枝は端に行くにしたがって細く弱くなる。釣り竿がそうだ。しなるからこそ、折れず、大物を釣り上げることができる。木でも草でも、いや、我々人間だって同じだ。

 車の乗り心地の良さはどこから来るのか。
 日々の快適な暮らしに必要なものは何か。
 国政、如何にあるべきか。
 車の乗り心地はフレームの堅牢さよりもフレーム、サスペンション、タイヤが、「強から弱」、「堅さから柔らかさ」へと緩やかに変わっていくことが大事だろう。
 日々の暮らしは一分一秒に追われるのではなく、日が昇り、沈む間の無理のない変遷が大事だろう。頭に血が上って、というのは本末が転倒している。
 国政に関してはもはや言うまでもない。国家の存続が第一義だ。

 幹から強く発せられた力は枝を通り、葉に至る。ここでしなやかさ(自然な強から弱への流れ)があれば、枝の端まで流れた力は竹の鞭のように、小さくとも強い力を発揮することができる。
 それもこれも幹がしっかりして、枝葉へつながっていく自然な流れがあってこそ、の話。それぞれの部位毎に硬直し、力が流れなければ簡単に破断する。

 部署毎に澱んでしまう「たらい回し」では目的は達成できないから、「特別区をつくろう」「バーチャルカンパニーを」、ということが考えられるようになる。

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ガツンと一発やれば

2020年04月06日 | 心の持ち様
2017.06/15 (Thu)

 昔、松田隆智氏が、師である劉雲樵に、他流の技法について何度か聞いたことがあるという。
 劉雲樵と言えば、「神槍李」と称された八極拳の李書文の一番弟子で、その業前も性格も師にそっくりだったそうだから、その返答も李書文をほうふつとさせるものだったんだろう。
 他流の、精緻な技法や巧妙な駆け引きを多用する拳技に比べ、八極拳というのは、良く言えば強猛な、悪く言えばあか抜けない田舎風の拳法なんだそうだ。
 松田氏は台湾から始まり大陸にまで行って色々な拳法を調べ、学んできているから、太極拳、八卦掌、詠春拳などの拳術と、野暮ったく見える八極拳とがどうわたりあうのか純粋に知りたかったらしい。

 それで師である劉雲樵に「こう来たらどうするのか」「このようにしてこられたら、応対の仕方は?」等々、色々と聞いたらしい。
 劉師は能弁な方ではなかったのか、それとも、多言を用いる要はない、と考えたのか。
 技術的に「それについては、こうする」と説明したり、手を取ってやって見せる、ということはあまりなかったらしく、ほとんどの場合、 「そんなものはガツンと一発やれば終わりだ」
 、と答えていたらしい。

  拳法の経験がないから分からないけど、剣術でも同じことが言えそうだ。
 一刀流には「切り落とし」という根幹になる技法がある。陰流系の剣術には「受け流し」の業がある。
 相手が真っ向から正中線に切り込んでくるのを、僅かに遅く切り出す。しかし切り合った時にはこちらが相手の正中線を取って切り込んでおり、相手の切っ先は外へ流されている、という「切り落とし」。
 遮二無二切り込んでくる相手の刀を、刀身を返して背負うようにした刀の棟で受け流し、その拍子のままに切り出して相手の「中心」を奪う「受け流し」。
 二大剣術とでも言えそうな、一刀流・陰流の業だけれど、これにもまた「そんなものはガツンと一発やれば終わりだ」という部分がある。
 つまり、切り落としも受け流しも全く使えないことがある。
 あの田原坂での「十字刀傷」というのが一番分かり易いかもしれない。
 真っ向から切り込んでくる西郷軍の刀を横一文字に構えて額の前で受ける。激烈な刀勢に弾かれた自分の刀の棟が額に打ち込まれる。同時に体重の載った切っ先が打ち込まれる。
 「切り込まれる」のではなく、全体重のかかった切っ先が「打ち込まれる」のだから、これは決して「力づくで押し込んでいる」のではない。「十字刀傷」のことを、何だか腕力だけの強引な力技もしくはプレス機でしかありえないような説明をする人もあるが、人間がやっているのだから、これは初発刀の切っ先の速さと強さが尋常でないから起こるものだ。

 切り落としの業を使おうとしたのに、鍔越しに両の拳を打たれてしまった。受け流しの業を使おうとしたのに、背負う形の自らの剣が背中に叩きつけられ、息が止まった。自分の業前を「過信」しているとこういうことが起こる。
 「精緻な技法」も「巧妙な駆け引きを多用する」ことも、そういうわけで「そんなものはガツンと一発やれば終わりだ」、ということは確かにある。

 ということで、ここで終わるところだけれど、これからが本題。(でも、本題は短いですから。いつものことだけど)

 「そんなものはガツンと一発やれば終わりだ」。
 だから本当はこれはウソなのだ。というより、本当は、本当じゃない。
 相手が堅固に構えている、守りが万全になっている、そんなところに「ガツンと」強大な一撃、というのは、「押さば押せ、引かば押せ」、の相撲の世界。観客はその「力と力」「技と技」の衝突を見にやってくる。プロレスも同じだろう。
 脱線するけど、同じ相撲でも相手が神様ならば、「正心誠意、全力でぶつかる」のは当然のこと。神様相手に駆け引き、では罰が当たる。
(逆に正心誠意でぶつかれば、神様は三番勝負ならば一度は負けてくれる。)繰り返すけれど、それは相撲の世界。

 こちらが「ガツンと一発」やる実力を持っていても、相手が己の実力を過信してない、冷静に判断して堅固に構えている場合。
 こんな時は「ガツンと一発」のつもりで繰り出した手が全く通用しない。どんなことだって、長い年月、工夫を重ねて案出した、或いは鍛錬してきたものは、そう簡単に「ガツンと一発」なんてことはできない。
 そうしてみると、隙に向けて自然に切り込んでいくのが本当の姿だということになる。これは決して狡猾とか卑怯とかいうたぐいのものではない。

 お互いに「ガツンと一発やる」実力、強みを持っている。互いがその実力を認めているから、堅固な守り(守りに徹しているの)を打ち破ろうとするのは無駄骨にしかならない、と感覚的に分かっている。だから、全力で相手の隙に切り込む。
 構えているところに力づくで打ち込むのではない。かといって隙を探して小手先の業を使うのでもない。ごく自然に「全力で」隙に打ち込む。

 憲法学者は憲法を絶対の典範と考える。だからともすれば「憲法の目的」を失念する。
 憲法の目的は「こんな風な社会を実現させ、維持しよう」ということであって、憲法はそのための決め事(きまり・約束)を記したものだ。目的のために決め事があるのに、現実の決め事に執着して目的を失念する。憲法を定規にして全てを裁断するから、目的までも他人事のように切り捨てる。
 憲法無効論者は反対に憲法の目的を決して忘れない。が、「無効論」の名の通り、徹頭徹尾否定するのみで、決め事を廃し、新たな決め事を採用するための行程を描けず、工程(実施するための具体策)も持ち合わせていない。
 「ガツンと一発やる」だけの実力は持ちながら、けれど、それを使わないで置く。
 そうして置くからこそ、生ぬるいようなへなちょこパンチが活きてくる。



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「補う」か。「研ぎ上げる」か。

2020年04月06日 | 心の持ち様
 ダイハツにおける従来の新型車開発方法では、ミライースの開発は不可能と上田は考えた。それまでの開発プロジェクトは、各部門からスタッフが集まって構成されるもので、開発プロジェクトをつかさどるチーフエンジニアに絶対的な決定権がなかった。各部門から集まってきたスタッフそれぞれが所属する部門の決定に従うからだ。
 開発予算についても同じだった。従来の方法は各部門から要求される予算を積み上げて総予算とするもので、最初に開発プロジェクトで総予算をたてて逆算し、各部門に予算を配分するというわけにはいかなかった。
 こういう従来の方法では、短期間に一点突破の全面展開をしなければならないミライース開発は、べらぼうな開発予算がかかることになり、実現できないと思った。
 そこで発想されたのが「社内にバーチャル・カンパニーを設立して、従来の開発方法と手を切る」というアイデアだった。
 従来の方法を否定するのは、構造改革では当然の手法である。

 さっそくダイハツ社内に架空会社を設立した。ミライース担当の役員が社長となり、上田は副社長のチーフエンジニアになった。
 バーチャル・カンパニーに〈入社〉するスタッフは、移動申請書を出したのちに人事が発令された。技術系では各部門の次長クラスが異動してバーチャル・カンパニーの主査を主務とし、もとの部署を兼務とした。
 こうすることでバーチャル・カンパニーで決定したことが優先され、その決定事項をもとの部署へ命令し実行させることが可能になった。従来の方法とは全く逆の仕事の流れである。
 開発予算はバーチャル・カンパニーが管理する独立した予算になった。共通固定費や工場負担費もバーチャル・カンパニーに一元化された。
 こうすると予算総額がふえるので、予算をやりくりする自由度が大幅に増して、予算の効果的な使い方が可能になった。
      (略)

 「ミライースは、新しい特別な技術を採用していないのです。それでいてハイブリッドカー並みの燃費を実現できたのは、効率のいいマネジメントができたからです。
 各部門が、いま手にしている技術を燃費向上のために徹底して磨く。エンジンならば、ちょっとでも燃焼効率を向上させる。車体部品だったら一グラムでも軽くする。もちろん、それまでも燃焼効率向上とか軽量化はやっているのですが、さらに踏み込んで、もう半歩でも一歩でもやってもらう。そうやって各部門がちょっとずつかせいでくれたものを集めて一台の車にまとめてみると、ハイブリッドカー並みの燃費が、廉価で実現できたのです。
 これは新しい技術開発の方法を発見することにもなった。新技術ではなく、いまある技術を集めてきても、マネジメントしだいで新しい価値をつくることができるという方法の発見です。」

  ~(ダイハツコペン開発物語 中部勉)~

・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな話を思い出した。
 昔見たNHKの「プロジェクトX」で新幹線について採り上げられた時のことだ。
 新幹線構想自体は戦前からあった。昭和二十年。戦争に敗れ、焦土の中から立ち上がった日本は、それから僅か二十年足らずで、あの世界に誇る新幹線を走らせた。
 世界に誇れる話でもあり、実際、世界は驚異の目で日本を見たことと思う。何しろ「フジヤマ、ゲイシャガール」に続けて「シンカンセン」、とくるのが当たり前になったのだから。
 しかし、繰り返すけれど、ゼロから始まったわけではない。はるか戦前より構想はあり、構想があったから計画が立てられ、「人材」という歯車が用意され始め、組み合わされ始めていたのであり、だからこそ動き始め、一見は短期間に見える焦土からの「僅か十九年」で実際に走らせることができたのだ。
 そして、その時の決して見逃してはならない考え方。
 「新しい技術は使わない。今ある技術だけで作り上げる」

 新しい技術を使うためには各種の実験を重ね、厖大なデータを集め、分析して安全であることが確認されることが必要だ。しかし、それをしている時間はない。(新しい技術は新幹線を走らせてから、少しずつ実験と並行しながら改良という形で採り入れる)
 日本発のジェットエンジンによる中型旅客機の実生産が何度も延期されていることや、戦闘機「制作」のための「検証機」が「飽く迄も検証のため。製造予定は、未定」、と強調されることも納得できる。

 新幹線に関して言えば、いつも思い出すのはあのテールライトが「赤いランプではない」ということだ。往路では赤だが、復路では先頭車両になるのだから白でなければならない。二つ付けて切り替えれば何の問題もないのだが、複雑になる分、故障の可能性が出てくる。だからランプの前に赤いプラスチック板を出す。
 原始的とも言えそうな単純な仕組みだが、「新しい技術は使わない。今ある技術でやる」ことで、却っていざという時の応対手段も増える。

 「枠の中で一点に集中して向上を目指す」
 ヨシムラも、ヤマハもスズキもやってきた「全ての部品を一グラムでも軽くする」というやり方は、バイクや車に限らない。どんな分野でもできることなんじゃないだろうか(勿論、単位はグラムじゃないだろうけど)。
 そうやって、研ぎ上げることで「作り上げよう」とする姿勢が、「新しい技術開発の方法を発見する」ことに繋がっていくのではないかと思う。

 「岩盤規制を打ち破る」ということについても、この「バーチャル・カンパニー」という考え方で見ると、核心は文部科学省の中にある、というのが能く見えてくる。打ち破ろうとしている者は誰か。阻止しようとしていたのは誰か。
 総理も官邸も外野席ですよね、実際は。
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枠の中でできること

2020年04月06日 | 心の持ち様
2017.06/07 (Wed

 前回の文章には「軽自動車開発の苦悩」について書いてあったので、今度は「軽自動車」と「ハイブリッドカー」。
 何だか木箱の中で育てられた西瓜と、思う存分、肥料と水を与えられた爆発する西瓜が頭に浮かんできてしまった。

 「枠の中で何ができるか」
 対して
 「好き勝手できるなら何をするか」

 考えてみれば、「枠の中では、これしかできない」ということは、ない。
 存在する隙間は僅かではあっても、「一つしかない」「これしかない」というわけではない。「あれもこれもできるけど、残念ながら隙間が小さ過ぎる」というだけのことだ。
 色んな方面に少しずつ隙間、余白は存在する。ということは、僅かだけど出来ることは色々あるということだ。
 逆に、
 「何をやってもいい」と言われたら、何でもできるわけだが、隙間、余白どころか、ほとんど白紙の状態、ということでもある。
 つまり焦点が定まらないから却って「何をしていいか分からない」。言い換えれば「何もできない」、とも言える。

 「枠の中」なら、目を凝らせば、色々なことができるのが僅かながらでも見える。その中の「何か」に焦点を絞って、「それを研ぎあげる」という取り組み方がある。これなら隙は僅かであっても、それこそ量より質で、思いもよらない発展が見えてくるかもしれない。

 「何をやってもいい」と言われたら全く手掛かりがないわけで途方に暮れるしかない。
 だからと言ってきょろきょろしているだけではしょうがない。それで、敢えて意識上の枠をこしらえ、その枠の中であれこれ欲張らず一点集中をしてみる、という取り組み方もある。見た目はともかく、中身は「枠の中」、のやり方と同じだ。

 これで思い出したのはバイクの部品メーカーである「ヨシムラ」という会社のことだった。バイクに乗っている人で知らない人はないというこの技術者の会社は、四大バイクメーカーに負けずレースに参加し続け、その調整の見事さで、常に上位に入っていた。
 バイクをつくっているのではない。徹底して調整する。部品の質、耐久力を落とさず、徹底した軽量化を図る。
 具体的に何をしたかというと、軽くするためにそこら中に穴をあけた。ヨシムラの調整したバイクはいたるところに穴が開けられていた。例えば、鉄板をそのまま使うと重い。だから無駄を捨てて、軽量化を図る。変形するぎりぎりのところまで穴をあける。
 ぎりぎりまで穴を大きく開けたら、当然軽くなる。軽くなれば加速も良くなり、逆にブレーキの効きも良くなる。前回書いた通り、「慣性が低くなる」からだ。
 予期せぬ効果も表れた。穴をあけた部品の方が、軽いだけでなく、変形にも強くなった。まさかの一石二鳥だ。
 市販車よりも軽く、市販車よりも強靭でしなやかなバイクができた。
 「とにかく軽くすること」と、一点に集中して調整をした。
 しかし、これはヨシムラの発案ではなく、戦時中の日本軍の戦闘機の軽量化技術にヒントを得たものだという。
 飛行機のフレームの金属が穴だらけにしてあることから、だった。

 同じように、ヤマハのXJR1300というのは元々1200ccのバイクだったのだが、そのエンジンに対応するためにフレーム等も同じく丈夫で、当然重い。これを1300ccにして、もっと機能性を高めようとした。当然操縦性の向上も含まれている。今の機能を確保したうえで、軽量化を図る。穴こそ開けなかったけれど、完成された各部品を全て軽量化のために見直すことにした。そうすることで、軽量化を実現させる。ほんの数グラムからの各部の軽量化の取り組みは、最終的に10㎏の減量となる。

 軽自動車は、その大きさの枠組み、その排気量の枠組みから逃れられない。その枠より小さくすれば、積載量が減るわけだから小さくはできない。かといって排気量の枠があるから、発生する馬力も抑えなければならない。その中で「燃費」が問われる。
 ハイブリッドカーは低燃費ありき、で、開発される。
 燃費のために、フレームを小さくする。燃費のために小さなエンジンにする。燃費のために大きなバッテリーを積む。燃費のために強力なモーターを組み込む。
 以下、ひろし、じゃないけれど「燃費のために・・燃費のために・・・燃費のために・・・・・・」

 ということで、両者、「燃費向上」に関する取り組み方が、全く違う。
 しかし、人々は言う。
 「軽自動車を生産販売する自動車メーカーとその技術者が燃費向上の努力をおこたっている」
 
 ここにも、社会の発展に関する大きなヒントが隠されているようです。

 京都産業大学と加計学園の話は条件も経緯も全く違う。事務次官の話に至っては、それこそ次元が違う。

 
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