CubとSRと

ただの日記

このエントリーは繰り返し読む価値あり

2020年04月15日 | 日々の暮らし
2013.05/30 (Thu)

 この阿比留記者のエントリーは2007年のものです。
 でも、一読の価値、いやいや、数回は読むべきもの、と思います。
 その上で、関係の語句を、是非とも今一度Wikiで調べて下さい。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 お薦めの書「『慰安婦問題』の問いかけているもの」

         ~「 国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」より~

 安倍政権は今後、自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の調査・研究と呼応しながら、官憲による慰安婦募集の強制性を認めた「河野官房長官談話」の見直し(修正、訂正、加筆など)を検討する方針です。

 その際に、ぜひ参考にしてほしいと思う本があるので、きょうはそれを紹介したいと思います。天児都さんという女医さんが5年半前に出版した「『慰安婦問題』の問いかけているもの」(石風社)がそれです。私は天児氏と面識はないのですが、祖父の知人という関係で以前からそのご主張は聞いていました(福岡県では発行されていない産経新聞を読みたがっていらっしゃったとか)。

 天児氏の父でやはり医師だった麻生徹男氏は、作家、千田夏光氏の著書「従軍慰安婦」の中で、慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかされた人物です。「従軍慰安婦」という言葉自体が千田氏の造語であることは、よく知られていますね。

 千田氏自身はこの点について、平成8年4月に手紙で天児氏に謝罪したそうですが、千田氏が謝罪した後も出版元の三一書房と講談社はその部分を改訂しなかったそうです。天児氏はこう書いています。

 《私は、慰安婦問題は千田夏光氏の誤りを何ら検証せず、そのまま事実として平成三、四年頃「慰安婦問題」に関連する著作を出版した人たちが誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して日本叩きの材料とされた事件だと思っています。》

 また、天児氏によると、千田氏の著書「従軍慰安婦」には、正篇には63カ所、続篇には23カ所問題のある記述があるそうです。特に考察部分に裏付けのない記述や矛盾が多いとのことでした。天児氏は問題点について次のように記しています。

 《(1)従軍と慰安婦を結んで造語をしたこと-
 従軍看護婦など軍属の身分を表す用語と並べて「従軍慰安婦」という造語をしたため、従軍には強制の意味が含まれるので、これが容易に強制連行と結びつき、強制連行が性的奴隷を想像させ、現在の混乱のもととなっています。
 (2)根拠なしに強制連行と結びつけたこと-
 支度金1000円を払って連れて来たと記述しているのに、強制連行されたと書く矛盾があります。
 (3)娼婦連れで戦った唯一の軍隊として品位を落としたこと-
 植民地に軍隊を出したヨーロッパ各国やアメリカにも慰安婦はいました。麻生論文(巻末資料)の中にそれらの慰安所管理のデータが含まれています。
 (4)麻生軍医が朝鮮人慰安婦強制連行の責任者のようにほのめかして書いたこと-
 韓国から責任者の処罰などの要求が政府に届いた頃に私は多くの人たちから謝罪しろと言われ叩かれました。(後略)
 (5)麻生の論文は娼楼でない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)設立を希望しているのに、千田氏は娼婦は不可欠のものとして読み違えられたこと。》

 天児氏はまた、ジョージ・ヒックス著の「慰安婦」(日本語版は三一書房刊)についても、次のように批判しています。いや、実際、この通りだとすると批判されてしかるべきだと思います。

 《ヒックスは日本語はできないと言い、この本はゴーストライターの韓国人Hey Kyung Leeが書いたと言いますが、私はこの人の取材を受けたことはありません。文献が沢山並んでいて索引もついて立派な学術書のようですが、文献は千田夏光の本とそれをマゴ引きした著書のものばかりです。》

 《ちょうどその時に国連人権委員会でクマラスワミ報告がtake noteとなったニュースを聞いて驚きました。クマラスワミ報告の事実関係の供述はヒックスの著書によるものと知ったからです。無断写真使用には著者と出版社に国際弁護士事務所を通じて再度手紙を送りました。返事をよこさないので催促してもらうように弁護士に頼みましたが、これ以上すると裁判になり慰安婦問題に立ち入ることになる、日弁連はあなたと立場が違うから弁護できないと言われました》

 日ごろ人権の庇護者を気取る日弁連の正体がよく分かるエピソードですね。何が正しいかよりも、サヨクにいい顔をしたい、濡れ衣を着せられた本当の弱者よりも、世間的に弱者と思われている側に立ちたいという人権派の面目躍如といったところでしょうか。

 天児さんはこの章を次のようにまとめていますが、私も同感です。日本人は、日本の歴史をあまりに知らず、占領軍や他国から与えられた仮の歴史をナイーブに信じすぎていると思います。

 《「慰安婦問題」を利用してきた人たちが沢山います。国内ではどんな人たちかもうおわかりでしょう。国外では日本叩きをする人たちです。平成九年(1997)アメリカで中国系アメリカ人アイリス・チャンが「レイプ・オブ・南京」を出版し話題となりました。このように日本の歴史に対する間違ったことが世界中に流布している現状です。日本人自身が自ら歴史を知らず、こうした中傷に迎合する人たちがいますが、誤った中傷や非難に反論できるぐらいの人がもっともっと欲しいと思います。》

 そのためにも、現在のような日教組推薦のアカイ教科書は改め、もっと公正な歴史教育がなされるようにしていかなければならないと、改めて強く感じています。だれもが自分でネットを検索し、自分で学んでくれればいいのですが…。

 
    http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/97381/

                   転載了
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 何度か書いたことがありますが、「従軍」というのは文字通り「軍に従う」という意味です。「軍に従う」とは「軍属」ということです。軍に属する者。
 ならば軍と共に行動するのは当たり前。だから、強制性はある。
 「軍属」だから、勝手に離脱はできない。
 で、当たり前のこととして戦地で死ぬかもしれない。
 だから、その場合、「軍属」は靖國神社に祀られる。

 慰安婦は「軍属」か?「軍に従」ったのか?
 「軍が集めることや移動に関与したのは事実」。
 業者に要望すれば関与したことになるし、危険回避のために軍の移動の際に一緒に移動させても関与したことになる。

 米英の現地での「自由恋愛」、というやり方が詭弁でしかないことは、彼等自身が一番よく知っている。金銭、物品のやり取りがあるからだ。
 しかし彼らは強弁する。それ(慰安婦の存在)を肯定すれば彼らの社会が成り立たなくなるからだ。

 ついでに。人身売買は奴隷制そのものだ、というのが米英の考え方であり、だから、娼婦としてであろうが何であろうが「売買されるのは奴隷」。
 ということで「性奴隷」という、日本人から見れば、何とも禍々しい表現になってしまう。
 勿論、「人身売買」を「奴隷制」と捉えてしまったら、労働力として売られた黒人奴隷も、遊郭の花魁も十把一絡げになってしまうわけで、我が身を犠牲に、と身を投げ出した日本の多くの未亡人女性の心のうちなど一切顧みられなくなる。
 ただただみんな不憫だ、と言い募ることは、却って、彼女らの一生を冒涜することになる、とは思わないのだろうか。
コメント (2)
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既知のこととは思います。

2020年04月15日 | 心の持ち様
2013.05/30 (Thu)

 私は大変な怠け者です。
 できることなら毎日ゴロゴロしていたい。
 ただ、ゴロゴロしていたらどうなるか、ということは子供のころから色々経験してきた。

 夏休み、家でゴロゴロしている。こんなに快適で楽なことはないから、と、寝転がって本を読むのが習慣になっていく。
 ところが、それはそれで疲れる。もっと楽な格好で本を読めないか。
 しかし、それ以上に楽な姿勢はないわけだ。
 そして、段々本を読むのが苦痛になっていく。
 だからと言って本を読むのをやめようとは思わない。

 そこに至って、
 「あ~こんなことなら、ちゃんと坐って本を読んでいた方が良かったなぁ」
 などと反省する。
 でも、今更座卓を前に、坐って本を読むなんて、もう苦痛でしかない。
 「あ~寝転がってても疲れるのに~。学校、始まったらどうしよう」

 世の中、うまくできているもので、そんなことを思い始めた頃、二学期が始まる。子供だから、二、三日で学校生活に順応する。歩きながらでも本を読める生活が復活する。スマホ見ながら歩いてる人と変わらない。
 そして、月日がめぐり、翌年の夏休み。
 全く同じことをしている。
 そして、夏休みの終わりに
 「あ~寝転がってても疲れるのに~。学校、始まったらどうしよう」。
 ・・・・・・・。

 「学習能力がない、ということだな、つまりは。」
 と言われればそれまでなんだけれど。

 大人になるまでに、いや、大人になってからも苦心惨憺してこの怠け癖を何とかしなくては、と努力したんですよ。今でもしてますけどね。
 けど、ズルくはなるけど、なかなか脱却できませんね。勝負はその都度、ですからね。

 今度の橋下発言のことに関してだって、折角色んな人が日記を書かれているので、それを拝見するんだけど、そして、そこにはちゃんと資料の場所へ行けるようにリンク先が貼ってあるんだけど、滅多に行かないんです。これまた怠け癖だと思います。めんどくさい。皆さんは行かれますか?

 とは言え、たまに一念発起して、行くこともありますよ。
 寝転がっていたのから正座に、というのに比べたら、カーソルを合わせてenterキーを「ぽん!」、だけですからね。ホントに気軽な一念発起で。結果一発、ですから、もう極楽~、ですよ。一瞬で目的地に辿り着ける。

 けど、行ってみて後悔する。
 どこにその参考資料があるか、すぐには分からないこともあるけれど、何よりも「後悔の元」は、参考資料が尋常ではない量だったり、三十分も一時間もかかる動画だったりすることが往々にしてあるからです。
 そりゃあ、そこまでしてもらっていたら随分助かります。「我儘ばかり言うな!」と言われたら「はい・・・」と言うしかないんです。

 けれど、ほんの一小節、一行のために、資料の端から端まで読む時間、数十分かけて関係のない動画を見続ける時間、って結構大変でしょう?
 何より、資料は資料でしかない。本論ではない。本論は日記、ブログのエントリーなんですから、参考資料は飽く迄も参考資料として、まずは本論をしっかり読んでみたい。
 なのに、肝腎の本論がなかったりする。
 考え方が提示されていてこそ、資料が活きてくる、・・・んじゃないでしょうか。

 橋下市長の発言に関する問題だって、
 「氏はかくかくしかじかのことを言った。対して私はこう思う」
 、と挙げられた上で、資料のあるリンク先が貼りつけてあれば、「私はこう思う」の視点のままに資料を見ることができる。
 そうすれば逆にブログを書いた人の問題意識は言うまでもなく、時には視力まで見えてくる。
 けど、昔のダウンタウンの漫才ネタにあったシュールなクイズ、「花子さんがみかんを買いました・・・さて、どうでしょう」、みたいな内容の日記、エントリーは、元々題名に惹かれて読んでみようとしたものだから、資料にまで行く気にならない。
 繰り返しますけど、資料に行くための手続きなんて、一念発起、と言う程のものでもないんですけどね。

 そんな怠け者が思う事だから、みんながみんな、ってわけではないでしょうけど、本文がそんなで、だから何となく、資料を見たって結局何が言いたいんだか能く分からないといった日記、ありますよね。あれって最終的に何が残るんだろうか。なんてことを能く思います。
 資料を挙げてある。でも、見に行かない。それではまともな理解ができない。
 そんなんじゃ困るから、(私のような怠け者のために)肝腎なところを抜粋して「引用」として日記の中に書き込んである日記。これはうれしい。あっち行ったりこっち行ったりしなくて済む。
 
 でも、大方の日記、テレビは、それ(資料の引用掲載)を既知のこととして省略するんですよ。
 で、曖昧な相槌を打ちながらつい流し見、流し読みをしてしまう。

 ウィキペディアで見たらほとんどのことはちゃんと書かれているんですよね。
 「女子挺身隊」とか「従軍」とか「挺隊協」とか「吉田清治」とか「千田夏光」とか。
 「そんなこと既知のことだから」としてテレビ、新聞等のマスメディアは言うまでもなく、ブログなんかでもまず引用掲載はされないんですが、とてもそういった論展開が行われているようには見えない。それどころか語句の意味さえ考えてみたことがないようなものが溢れている。

 ・・・・・何だかいくら書いても怠け者の言い訳にしか見えないから、これで終わり!

 「お前の日記、いつも通りシュールで、何言ってるか分からないぞぉ~~~」
 という声が聞こえてくる・・・・。空耳・・?
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冬の時代が去ったからといって、いきなり真夏になるわけでもあるまい。

2020年04月15日 | 日々の暮らし
2013.05/25 (Sat)

    性急なる「保守」
                  ~夕刻の備忘録より~

 最近つくづく思うことがある。「性急なる保守」は保守ではないだろう、ということである。誰でも分かることである。「保守」なる思想が如何なるものであれ、それが「性急」なものでは有り得ないことは。
 『明日世界が滅びるとも、今日私はリンゴの木を植える』という精神が無ければ、保守云々などと幾ら叫んでみても空しいばかりである。

 TPPがどうの、村山河野談話がどうの、靖國参拝がどうの、と些末なことばかりで揚げ足をとっている。まるで野党かマスコミかという論調で、政権の動きを批判している。その程度の問題は、「盤石の安倍政権」が五年続けば、全て消えてなくなるであろう。

 既にそれだけの手は打っている。そのサインはきちんと国民向けに出している。それを無視し、あるいは曲解しているのが、誰あろう「性急なる人達」なのである。 
 仮にスパイ防止法を作ることが出来たなら、今あるほとんどの問題が消えていくのである。
 要するに、我が国の喉元に刺さった問題は、そのほとんどが内外でのスパイ活動、工作活動によるものであり、それに国民が吸い寄せられ、性急なる有権者が軽挙妄動した結果、肥大化させたものなのである。

              (略)

 「戦後レジームからの脱却」という言葉は何を意味するのか。細かい議論はさておいて、我々国民に一番分かりやすく伝わるメッセージは、「負け犬根性からの脱却」ではないか。
 敗戦後半世紀以上を経過してなお、「敗戦国だから侵略国」などとヌケヌケと言う首長を抱えている国なのである。国家観云々以前の「超絶歪曲史観」である。まさに東京裁判の方向性にそのまま乗った、実に見事な負け犬ぶりである。

              (略)

 安倍や麻生は、全人類が死滅して自分一人が取り残されても、やるべきことを持っている。彼等は一人黙々とリンゴの木を植えるだろう。
 そんな場面は容易に想像が出来る。
   
             (以下略)
       
           http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-934.html 

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 私は子供の頃、少々以上に落ち着きのない、慌て者の子でした。長じてせっかちな性格になりました。
 けれど、私を知る人は私がせっかちな性格だとは思っていないようです。
 却ってゆっくりしているように見えるらしい。せっかちをやめましたからね、当然のことかもしれません。

 「せっかちをやめる?」せっかちで解決はできないことにぶち当たると、やめられるみたいですね。

 習い事を始めたとします。誰だって初めは上手くできない。だから、必死になって四六時中そればかり考えて生活する。でも、長年やっている人に追いつくことはできません。追いついたつもりでいても、何かが違っています。言ってみれば、それは厚み、みたいなものかもしれません。
 以前に「福沢諭吉のやせ我慢は立身流居合の修練で培ったのでは?」、みたいなことを書きましたが、同じことと思います。

 頑張らなければ駄目だけれど、頑張ったってすぐには結果は出ない。
 或ることについてせっかちだけでは解決できないと痛感したら、そのことについては逸る気持ちを抑えつつ、じっくりと丁寧に取り組むしかない、と分かる(覚悟する)。

 諦めるのではなく明らめることができるようになる。
 これが「やせ我慢」というものであって、過去から正統を見出して繋ぎ、発展させようとする習い事の世界では中心になる考え方です。
 これが、つまり「保守」、でしょう?

 ということで、備忘録氏の今回のエントリーの冒頭の部分につながります。
 《「性急なる保守」は保守ではないだろう、ということである。誰でも分かることである。「保守」なる思想が如何なるものであれ、それが「性急」なものでは有り得ないことは。》

 「戦後レジームからの脱却」を過去から見出した正統としたら、それは是々非々で判断する個々の物事ではなく、それらの個々の物事を貫く「負け犬根性」そのものからの脱却でなければならない。
 ということは、「負けたから侵略国と認めるべき」とか「慰安婦は各国の軍隊が必要としていたのに」、なんてのは負け犬根性から一歩も抜け出せていないという事になるのだ、と備忘録氏は書いています。


 追加
 押し売りです。「保守」という在り方が、「習い事」の心掛けと共通の部分を持つことに関して、福沢諭吉のことから。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 当然、諭吉はこう言いたかったのです。
 「普通の刀でさえ、満足に、遣えない者が、これ見よがしのことをすれば大怪我をする。」
 身の丈に合わぬ大法螺を吹くのはやめろ、と言いたかったのかもしれません。

 「まずは、確実に、こつこつと正しい取り組みをしよう。そうすれば、分からないことも少しずつ分かるようになり、できなかったことも、少しずつ、できるようになる。」
 「できないことがあっても、焦っていることを外に見せず、こつこつと、ひたすら努力し続ける。」

 「痩せ我慢の説」で勝海舟、榎本武揚を批判した諭吉の考えがここに見えます。
 この軍学者は、確かに、この幕末を余りにも大拍子(大雑把)に生きている。自分の命はもっと大事に考えなければ。
 いや、現代も同じだ。この軍学者と同じく啓蒙の姿勢は必要だ。同時に、そこには煽動家の側面もある。
 そして、諭吉が武術修業で身に着けた「焦っていても外には見せず、ひたすら精進を続ける」姿勢。

 初めは「生兵法」でしかありません。格好だけです。でも、それは仕方がないことです。格好だけで中身がないのを、気にして焦る。焦りながら、外には見せず、こつこつと努力をする。

    (「まずは生兵法」より)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 簡単な理由です。若い時から「居合い」を学んでいること、それを生涯続けていること。そして、相当な腕前だったこと。これが証拠です。
 居合いは、相手に対して行うものですが、ほとんどの流儀は通常、一人稽古です。立身流も、居合いに関して言えば基本は一人です。

 戦うための「武術」なのだから、練習相手が居る方が良い。
 けれど、武術は自分の身捌きが全てを決定してしまうのだから、身捌きをつくりあげるためには、なまじ相手などは、ない方が良い。
 居合い、抜刀の術は精緻な身捌きが要求されます。表現するのは、自分であり、教えたり、修正したりするのも自分です。自分が感じたり考えたりしたことが、全てを決定します。
 前回、書いたように、諭吉は相当な腕前です。
 「正しいことをこつこつと積み重ねるしか方法はない。」
 居合いも、オランダ語も、英語も、同じ方法で手に入れています。
 他所から持ってきた知識ではない。聞きかじりでも、知ったかぶりでもない。「愚直なまでに」、と見えます。
 
 ただ、諭吉は「信じて」行なうのではなく、「(手ごたえを)感じて」行なっていた。
 

  (「見る力」より)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 習い事で心境、心構えをつくる。つまり、感じ方、考え方は、取り組んだことによってつくられる。或いは大きく影響される。
 十年以上、「それ」、に取り組んでいたなら、人間はその習い事を身につけるうちに、その習い事の世界観を我がものとしていくことになります。それは日常生活の外見、ではなく中身を変えていくことです。
 本気で取り組めば取り組むほど、「取り組んだもの(習い事)」なりの枠(世界観)の人間性になる、ということになります。

 渦の中心となり、最終的には周囲を巻き込んでいくことを目指しながらも、渦の中心には何もない如くに、強引な自我の主張をしないのが合気柔術の根本理念と聞きます。
 それでも途上では、力づくの場が存在するのが小渕総理の取り組んで来た会派です。小渕総理の、政治の世界での取り組み方と重ねて見ると、色々なものが見えて来そうです。

 今回の日記、「大袈裟過ぎる」或いは「冗談が過ぎる」と思われたかもしれませんが、中心となる人の「心掛け」でなく、「心構え」というものは、どれだけ凝視してもし過ぎるということはありません。

 大方の国民は「政治」に関して素人なのですから、「一事が万事」のつもりで見るように意識すれば、たとえそれが見当違いであったとしても、徒にメディアの流す情報を鵜呑みにするより何倍も安全、と言えるでしょう。

  (「冗談ではない」より)
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深謀遠慮?ただの大盤振る舞い?

2020年04月15日 | 重箱の隅
2013.05/24 (Fri)

  宮崎正弘の国際ニュース・早読み(ミャンマーへ円借款1000億円上積みは、これで良いのか)
                2013/05/24 (金) 5:02

  安倍首相、ミャンマー訪問で空前の大盤振る舞い
  過去の借款5000億円をチャラにしたうえに1000億円を上積み
   **************************************

 麻生財務相が一月にミャンマー訪問のおり、過去に日本政府がミャンマーに供与した借款のうち、3000億円をチャラとするが、残り2000億円を民間銀行融資に切り替え、いずれ減免すると約束してきた。

 ところが、月末にミャンマー訪問をする安倍首相は、方針を変えて、「過去の借款合計の5000億円をぜんぶチャラにして、そのうえさらに1000億円を上積みする」という史上空前の大盤振る舞いをする。

 これはミャンマー国民ひとりあたりに8000円を差し上げる計算になり、日本国民はひとりあたり4400円をミャンマーのために負担する計算となる。
過去の援助5000億円をチャラにして、新たに1000億円を円借款として主としてミャンマーの発電プロジェクトにつかう。近代化、工業化の離陸には発電がネックとなって経済発展ができないミャンマーは、水力発電をたよりにするため乾期には停電が頻発する。

日本企業がミャンマーに進出して、工業団地も近くに造成するが、電気が来なければ元の木阿弥、絵に描いた餅。団地造成プロジェクトの前にやることがあったというわけだ。

日本の出番は中国のダム工事を凌駕する水力発電のインフラ建設にあり、このため安倍首相のミャンマー訪問に40人の実業界代表が随行する。
これらのプロジェクトが本決まりとなれば、中国の利権を封じ込めるほどの規模ではないにせよ、南アジアにおいて中国の影響力を牽制できる源泉になりうるかも知れない。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 5000億が3000億でも、返すだけの国力はない。
 それは物知らずの私にだって分かる。
 それを一切返さなくてもいい、という。ここで終わったらホントに単なるお人好し。
 ところが更に1000億、貸すという。
 そうなると、「おいおい、頭大丈夫か?」と世界は言う。
 ただ、このお金は発電所建設に使う、となると、話は些か変わってくる。

 麻生総理がイスラエルとパレスチナの間に入って道路建設の約束をし、両者の対立を緩和させ、日本にも利益をもたらしたことをふと思い出した。

 標題通りの「大盤振る舞い」だろうか。
 それとも相当に楽天的ながら、深謀遠慮の結果か。
 鍵になるのはミャンマー人の国民性だが。
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秘事は睫(まつげ)、じゃないけれど。(神戸堂帽子店)

2020年04月15日 | 心の持ち様
2013.05/23 (Thu)

 折角神戸に戻ったのだから、帽子を買いに行こうと元町に出た。
 日曜日だ。
 だからなのかもしれないが、それにしても街がやけに騒々しい。
 神戸堂帽子店のある方向を見ると、道路は車両通行禁止になっており、その上、何だか知らん両側の歩道縁に、ビニールシートを敷いて座り込んでいる人々が目立つ。見っともないことこの上ない。

 「何だ、久しぶりに来てみたらこの騒ぎは」
 と思った瞬間、気が付いた。
 今日は神戸祭りの最終日で、パレードがあるんだった。
 この元町の東側は、出発か終点だったか。
 えらい時に来てしまった。と言って、今日しかないし。
 仕方がない。店が開いていれば御の字、としよう。

 ハンチングばかりだったのが、やっとここ数年ハットに対する抵抗もなくなって来ていたので、今回は一つ布帛製のハットをと思い、ブログに出ていたミストラルのを見に行こうと思っていた。幸いなことに店は開いていた。

 夏用の帽子が欲しい、と店長に言い、そのミストラルのシリーズを見せてもらう。
 夏用だから明るい色をと思っていたのだが、似合う似合わないがあるだろう。それに関しては、自分では思い入れや思い込みがあるから、なかなか判断がつかない。で、いつものあなた任せでいくことにした。

 「自分では能く分からないので、合いそうなものを。」

 昔、服屋さんがしてくれた話。
 或る時、急いでいたのでネクタイをせずに出てきてしまった。
 と言って今からネクタイを取りに帰るよりも、そうだ、デパートに行って適当なものを、と思ってデパートに行ったんだけど、紳士物の売り場まで行くのは結構時間がかかる。
 で、婦人物のところが近かったからそこへ行って、
 「そのスカーフ。あ、値札は取って。そのままでいいから」
 と受け取り、その場で畳んでアスコットスカーフの代わりに結んだ。
 「デパートの子、『はぁ~』っと言ってビックリしとったわ。」
 
 或る種、武勇伝なわけだが、センスに欠ける当方、こんな真似ができるようになるまでには相当の習練が必要だ。

 というわけで・・・。
 言ってみるものだ、出された帽子はやや濃いめのグレー。とてもじゃないが思っていた「夏」の風ではない。
 もう一つ出されたのは薄い茶色だったが、やはりこちらの方が、と薦められたのはグレーの方だった。
 「顔が赤黒いから、おさまりが悪くはないですか」
 と聞くと、
 「この色は顔色を明るく見せるから良いと思いますよ」
 と言われる。
 へぇ~、と感心するかしないかの間に、もう一つ能く似たのを出してきて、
 「こちらの方が良いでしょうね」
 「??」

 どこが違うんだろう。
 でも鏡に映ったところを見ると、確かに微妙に違う。顔が少し小さく見える。
 つば(ブリム)の幅が、やや広めになっている。そのせいで、帽子が顔より大きく映るため、顔が僅かに小さく見えるらしい。

 「ぼくらは肩幅と顎の形とのバランスを見て、つばの大きさを見るんです」
 分かったようで分からない。
 「(私の)肩幅は広い方なんですか」
 「肩幅より顎が細い感じの人は、つばが大きいと帽子が目立つ(帽子に被られている)感じになるんです」
 つまり、しもぶくれの顔で肩幅より顎の下辺りが目立つ者は、大きなつばにしてクラウン(帽体)は正面から見たとき、やや細めの三角形にすると、バランスが良くなる。
 反対に顎が細い感じで、肩幅の方が目立つ者は、つばを小さくして顎が負けないようにする。その上で、クラウンはきっと逆で太めの三角形。
 言われてみればその通り。肩幅より顔の大きさ(顎の形)の方が目立つ者には、帽子はつば広の、大きく見えるものでバランスを取る。

 以前に書いた加古隆の、フラメンコダンサーが被ってるみたいな極端につばの広い帽子がやけに似合っていたのは、頭がでかいのではなく(確かにそれは遠因ではあるのだけれど)顔が大きい、顎の辺りが大きいからなのだ、と今になってやっと気が付いた。
 ということは片岡千恵蔵の多羅尾伴内。あの大きな顔に何故あんなにソフトハットが似合うのかと思っていたのだけれども、あれもまた、幅広のブリムと細めの三角形になったクラウンの魔術だったのだ、ということになる。

 頭の大きさ、というのは満更間違いではない。けれど、要は顔の形、それも帽子で隠れない部分の形が帽子の形を決めるというのが正しいのかもしれない。
 何のことはない、洋服と一緒なんだ。撫で肩の人には肩パッドを入れ、脚を長く見せるために股上を深くする。後は見る人が勝手に誤解してくれる。
 それも大方は「何だぁ?騙しやがったな!」とはならない。
 それどころか「なるほど!お洒落だな」と、騙されて感心している。

 今回(も)、「顎の形と肩幅のバランス」という、考えようによっては当たり前過ぎることを、言われるまで全く気が付かなかった。
 「秘事は睫」と言うけれど、肝腎要のところは身近にあり過ぎて、なかなか分からないものだ。
 そういった肝腎要のところを分かる、「指先でなく、指す月を見る」にはどうしたら良いのか。
 これは日本人の大得意なところだ。質問する前に、謙虚さを以て物事を見詰めていれば良い。その上での質問に対してなら、必ず応えてくれる人がいる。
 是々非々とか、損得勘定を以て見詰めたり、問うたりしたならば、相手もそれに反応するから、下品な駆け引きにしかならないけれど。

 まあ、それ以前に、何をやっても生半可な知識や教養が邪魔をして、自身の目を曇らせてしまうんですけどね。
 帽子一つだってそうなんだから、天下国家のことなんて「『世界は腹黒い』から、自分も腹黒くならなきゃ」、でなく、却って「曇ってないか」ばかりを気にかけてじっと見つめることの方が大事なんじゃないでしょうか。

 道義国家だなんだって言っても、実現させるのは我々国民の志なんですから。
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