CubとSRと

ただの日記

「イチローと仙丹」

2020年04月19日 | 心の持ち様
2010.07/10 (Sat)

 「イチローは天才ではない」という本があります。
 常に進化を続ける、と言われ、毎年200本安打を達成しているイチローに対し、「天才」という表現は当然のこと。

 しかし、実際、「天才だ」と言われ始めると、必ず「いや、努力しているからこそ」と言う人があらわれます。
 そして、終いには「天才とは、努力する才能である」とか「天才とは99パーセントの努力の上に、花開くものである」とか言われるようになります。
 神棚に祀り上げて、研究することを諦める態度です。
 努力という言葉を持ち出し、そのくせ、努力の中身を研究しないからです。

 とは言え、「天才だ」という人も、「天才ではない」という人も、必ず、「天才」を強く意識した上での発言が、上記のことです。

 では、当のイチロー選手はどう思っているのでしょうか。
 おそらくは他の人(あくまでも、普通一般の生活をする人)に比べ、運動神経には恵まれている、くらいは思っているでしょうが、天才だ、なんて考えてもいないでしょう。(いや、イチロー選手のことだから、「天才なんて、大して意味ないよ」と思っているかも。)
 早い話、天才なら工夫なんかしなくたって打てるだろう、練習しなくたってミスはしない。
 イチロー選手はどんな場合でも、他の選手より早く球場に行き、トレーニングを始める。試合後は、どんな時にも必ずスパイクの手入れを30分以上かけて行い、終わったら、家に帰る。飲み歩いたりはしない。
 「日本人だから、道具を大切にするんだ」と一括りにしては、説明がつかない。
 たった一度だけ、バットを放り投げたことがあるそうです。その時、イチロー選手は、バットの製作者に電話を入れ、折角のバットをぞんざいに扱って済みませんでした、と詫びを言ったそうです。

 スパイクの手入れ、球場への入場時間、バット製作者への詫び。
 こういうのが流れると、今度は「(天才)名選手の美談」として、括られてしまう。

 「美談」で終えたら、先に進めない。
 「努力の人」としたら、他の数限りない挫折した人は、自分を責め苛むことになる。「オレは努力が足りなかったのか!」と。
 「天才」で片付けられたら、誰もが憧れるヒーローになるだけだ。それは、イチロー選手を認め、賞賛したことにはならない。

 「正しい努力」を、他人の何倍も積み重ねて、結果を出している、ということを認めたならば、ヒーロー、だなんて言ってられない。なるほど、と思ったら、自分も、自分の場で、同じことをせざるを得なくなる。
 「天才だ!」とほめそやすことは自分に対して無責任です。

 また脱線しそうです。
 イチロー選手に戻ります。このイチロー選手の言に「他の選手が思いついて実行し、これは、駄目だ、となったことを、やってみる」というのがあります。
 既に結果の出ている、失敗例とされている練習法を、あえてやってみる。あまのじゃく、と見間違われますがそうではない。

 自分の思い描く野球は前人未踏のものであって、そこにたどり着いた者は、まだない。
 だから、そこに行くための正しい練習法なんて、誰も知らない。
 ならば、駄目だと言われていたものが、本当に駄目なのか、誰にも分からない。
 自分の頭脳と身体に、合う合わないも調べず、先人の言うとおりに、最初から「駄目だとされている練習法」には取り組みもしない、というのは、合理的でない。

 この話によく似たことが40年近い昔にありました。
 「兎跳びは百害あって一利なし」
 昔のスポーツ、特に中高生の部活動では、この兎跳びをやるのが常識でした。
 曰く、「強い足腰と膝をつくる。併せて忍耐力も養う」
 ところが、膝を強くする前に、膝を壊してしまう生徒が続出しました。
 すると、大学の運動生理学の教授などが
「うさぎ跳びで膝は強くならない。却って身体が出来ていない時は膝を壊すおそれがある。百害あって一利なし、だ」
 と言い、あっという間に兎跳びは廃れていきました。

 以前に少し書いたことのある、柔道の十年連続日本選士権保持者、木村政彦(当時は選手権と言わず、選士権と言いました)は、200メートルほどの銭湯までの道を、必ず兎跳びで二往復してから風呂に入り、帰りにも一往復。(正確にはそれぞれ、半回付け足し)
 それは、稽古以外の「日課」だった、とか。
 「自分の足腰のバネは、これでできた。」本人は、そう言っています。
 それが「百害あって一利なし」なら、木村政彦は、どう思うでしょう。

 「うさぎ跳びは有害」という決め付けに対し、或る学者は、この木村政彦の例をあげて、実に簡単に答えを出しています。
 曰く「やりすぎは良くない、ということです。」

 「過ぎたるは及ばざるが如し」ですね。それが良い、といって、そればかりでは偏ってしまう。全体で見れば力不足になってしまう。
 反対に「じゃ、何もしないでおこう!」こりゃ、ダメですね、当然。
 過食は太る。絶食はやせる。当たり前です、ほどほどにしなければ。
 ほどほどが嫌ならそれに見合った量を塩梅すれば良い。
 兎跳びも同じです。骨と筋のバランスを見ながら行うならば、害になるはずがない。言われたままを闇雲に受け入れる思考停止が問題なんです。

 さて、やっと、「仙丹」です。
 文字通り、仙人の薬。仙人は不老長生を目的として薬を作ったり、身体をつくったりしています。薬は「外丹」(或いは丹薬)、身体づくりは「内丹」。
 共産主義革命後「気功」と呼ばれるようになったのは、呼吸法で身体をつくる、という内丹の一種「吐納術(吐納法)」です。共産主義に道教を受け入れることはできないから、名前を変えて、OKとした。(せこい。)
 仙人には、八百年も生きた人や、千数百年間、折々に姿を現した、などといわれる人があり、神仏とも友達づきあいができる存在として、廟に祀られています。

 この仙人、みんながみんな仙人、というわけではなく、杜子春のように思いついて弟子入りを願う者もあれば、独り、密かに仙丹をつくる研究をしている者もある。
 仙丹は「不老長生」、或いは「不死」の薬、なわけです。
 ということは、この世に存在するものは全て盛衰があるのだから、それを材料としてつくることはできない。
 少なくとも、植物、動物からはつくれない、ということになる。
 不変の物に、より近いのは鉱物である。となれば、仙丹は鉱物からつくるのが最良の法ではないか。

 鉱物の中でも、千変万化し、滅びない物。固体にも、気体にも、液体にもなるものは?それは水銀です。完璧な鉱物です。
 「では、これで仙丹をつくろう」

 というわけで、水銀をつかって仙丹をつくります。
 ところで、水銀は猛毒です。試した者は、死にます。
 中には墓碑に「水銀を調合して仙丹と為し、服用、落命。仙丹作りに水銀は使わぬように」と記した場合もあるそうです。
 
 それでも、水銀を服して命を落とす人は絶えなかったそうです。
 「やり方が悪かったのだろう」
 「どこかで間違えたのだろう」
 「配合の比率を間違えたのではないか」
 死んだ人と同じ手法はとらないけれど、やっぱり、やってみる。

 今は水銀での仙丹づくりは、さすがに、行われていないようですが、これを「バカな奴!」と一笑にふせるでしょうか。
 現在の医学にあっても、他の世界でも同じ手法はとらないけれど、微妙に違う方法で、新薬が開発され、新しい技術が生まれて来ています。

 「イチロー」と「仙丹」。めざすところも手法もほとんど変わらない。
 なのに、一方は天才と持ち上げられ、一方は馬鹿だと笑われる。
 これで片付けるのは、本当に勿体ない。


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「宝は土俵にだけ埋まっているのか」

2020年04月19日 | 心の持ち様
2010.07/08 (Thu)

 「宝は土俵に埋まっている」精進すれば、全て手に入れることができる。
 以前にちょっと書いた話です。

 田舎から、図体だけ大きい、学問のない若者が上京(或いは上阪?)して来ます。今で言えば、中学生の年齢。
 学問はない。田舎の子沢山で家に金もなく、食う量は二人前、三人前。力は強いけれど、とにかくよく食うものだから、金がかかって仕方がない。

 江戸(東京)から、相撲の親方がやって来た。
 「子供ながら、いい体格をしている。どうだ、ぼうず。江戸で相撲をとったなら、頑張るのは年に二十日間だ。たらふく食えるぞ。わしと一緒に来ないか」
 「一年を二十日で暮らす良い男」とあって、大相撲の興行は春と秋、二場所だけ。それも、昔は十日ずつでした。あとは巡業に出るものの、大体は大名のお抱え力士、日数も、そんなに多くはありません。

 甘い言葉に乗せられて、(千代の富士なんかは「飛行機に乗せてやる」と言われて、上京した、とか)東京へ出て来たものの、「たらふく食べられる」の中身は、関取や兄弟子が食べた後の、具のないちゃんこを飯の上にかけて食べ、反吐を吐いても休ませてもらえない地獄のような猛稽古とワンセットになっていました。
 それでも、段々に強くなれば、親方の言に嘘はなかった、と分かります。番付けも上がれば、ひいきの客もつき、うまい物も食べられる、良い物も着られる。田舎の両親に金を送ることもできる。

 単純に、そうなんですが、実は、この土俵という舞台に、全てを集中する結果、どうなるか。
 無学な若者が、兄弟子の付け人をやり、世間の仕組み、行儀、作法、物言いを習う。大部屋での共同生活の中で、協調、思い遣りを学ぶ。徹底した反復稽古により、努力の大切さ、技を身につけることの大事さ等を、身を以って知る。

 「土俵で、人としての宝を全て手に入れる」
 土俵を中心とする社会の中で、育ち、参加し、相撲の世界をつくっていく。
 そうやって一人前となるわけですから、「社会の中で、人間が生まれ、育ち、参加し、作って(変えて)いく」のと同じ、ということになります。

 「だったら、宝は土俵に埋まっているだけではない。」
 ということで、きっと真似したんでしょうね。野球の選手が「金はダイヤモンドの中に埋まっている」、と言ったのは。
 相撲と野球だけでしょうか。そんな筈は、ない。
 理屈で言えば「社会の中で、生まれ、育ち、参加し、つくって(変えて)いく」、の、「社会」を、現実の場に置き換えたら、大概のことは成り立つでしょう。
 職人だったら、作業場。習い事だったら練習場。古いものなら、稽古場。
芸者なら、歌舞練場。
 どの世界にも、中心とする場があって、そこに全力を集中して精進すれば、必ず、良い結果が出る。「良い」というのは、「金が儲かる」といったような狭義のものでなく、本当に色々な、「良い」、です。

 「何をやっても駄目だ」、という人は、当然、一点集中が色々な理由で実行できなかった結果であって、能力を作り上げる時間を持てなかった、ということに外なりません。

 そこで今度は、その「場」についてです。
 日本には、たとえば、とても有名な「一刀流」や「新陰流」といった剣術の流儀があります。反対に、「機迅流」とか「平常無敵流」などという、あまり聞かない名前の流儀もあります。
 でも、有名な流儀が優れていて、無名の流儀が劣っている、と一概には言い切れません。修業の度合いによります。

 シナにも、「太極拳」のように、世界的に名を知られている流派もあれば、「狗(=犬)拳」のように、およそ強そうでない流派もあります。
 では「狗拳」の修業者は、大して強くないのか。これだって、一概に弱いとは言えません。
 また、駒川改心流剣術のように、古武術として伝承されていたものが、(知る人ぞ知る存在ではあったとしても)、一町道場主、黒田鉄山師範によって、その存在を世間に広く知らしめた流儀もあります。

 「これは駄目だ。自分の流儀は底が浅い。他流に換えよう」
 「これは駄目だ。こんなことやっていても、時代に取り残されるばかりだ。これからは~が流行る。」
 「これは駄目だ。いくらやってもできそうにない。他のことに才能があるのかもしれない」
 そうやって、「変えた」人が、大成功を治めたという話(成功譚、出世譚)はよく聞きますが、「犬が人を咬んでもニュースにならないが、人が犬を咬んだらニュースになる」という例えから類推すれば、「変えた」結果の成功は、あまりないのではないか、と思いませんか?
 反対に、「変えず」に取組み続けて、成功した例は多すぎて、ニュースにならない。当たり前、道理、なわけです。

 「自流は底が浅い」→見る目ができてないだけ、かも。
 「こんなことでは、取り残される」→見詰めてないから、気が散っているだけ?
 「いくらやっても『できそうにない』」→まだ、いくらもやってない、のでは?

 最後に、本にあったやり取りを書いておきます。
 松聲館の甲野師範が黒田師範に、
「研究の結果、勢いをつけず、両足を同時に動かす技法を開発し、『水鳥の足』と名付けた」、と言った時、黒田師範は、
「技法としての名前はありませんが、それとよく似た(おそらくは同じ)足捌きは稽古の中にあります。あえて名付けるとしたら、『無足の法』とでも言いましょうか。」
と応えています。
 実際に、同様の技法が型の中にあり、更には、それの究極の形が「その場での前方回転受け身」です。畳一枚の中で、際限なく受け身を取る。 普通なら、一回転すれば畳の端まで行ってしまうものですが、「無足の法」が身につくと、前進してしまう距離が減り、遂には前方回転受け身をしているのに、どんどん後退していくこともある。
 黒田師範の「私は才能がないから」、という謙虚な姿勢があってこそ、ではありますが、それでも、それぞれの場に埋まっている宝を見つけるのに、我々は余りにも諦めるのが早いのではないか、とよく思います。

 「あんただけだよ、それは」と言われたら、「そりゃどうも。失礼を申しました」としか言えませんが。
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「信頼関係」

2020年04月19日 | 心の持ち様
2010.07/08 (Thu)

 昔、島津の殿様が、家来をつかって兎狩りをしました。
 長閑な話みたいですが、これは重要な軍事訓練なんです。
 遊びめいたやり方で、統率の取れた行動ができるようにする。

 世界中で、古くからあると言われる遊び、スポーツは、大概、軍事訓練が絡んでいます。今、行われているサッカーなどは、その最たるもの、ですね。
 いきなり話が飛びました。

 さて、兎狩りです。
 殿様が指揮をして三方から兵が囲み、じわじわと寄せて来て、次第に兎を追い込みます。
 殿様の合図で一斉に声を挙げる。
 追い込まれた兎はびっくりして、人のいないであろう方向に逃げる。
 そこには殿様が待っていて、近習が兎を捕る、という寸法です。

 予定通りに三方から大きく囲み、じわじわと寄せて来た。
 もう少しで合図を、という時、辛抱できなかったのか、一方向で、ワッという声が挙がった。遅れじ、と後の二方向も声を挙げる。

 勿論、まだ囲い切ってないわけですから、驚いた兎は囲いの隙間からみんな逃げてしまった。

 当然のこと、殿様はかんかんに怒って、集まった家来を叱り飛ばします。
 「何故、儂が命令もせんうちに声を挙げたのじゃ!」
 家来連中は神妙にしています。
 「よいか!合図をするまで声を挙げてはならぬ!言うことを聞かぬ者は厳罰に処するからそう思え!」

 言ったら、本当に実行するのが、殿様です。「綸言汗の如し」は、武門では当たり前のこと。
 特に、これは勇猛果敢を以って鳴る薩摩隼人を束ねる、島津の殿様。
 厳罰と言えば、当然島流しか切腹。兎の命とひきかえ、ですね。

 あらためて、兵が三方に分かれ、少しずつ詰めて来る。
 そうして、初めと同じく、もう少し、となった時、殿様の合図を待たずに、またしても、ワッという声が挙がった。
 それも、今度は一方からではなく、三方ほぼ同時に、前以上の大声が起こったのです。またしても兎は逃げてしまう。

 殿様はもう真っ赤になって、この言うことを聞かない家来共を呼びつけ、更に激しく叱ります。もう、厳罰に処せられるのは間違いない。
 「何ごて、命令を聞けんとか!合図をすっまで声を挙ぐるな、ち言うたではなかか!」
 すると、殿様が怒鳴り終わらないうちに兵の中から
 「私が最初に声を挙げもした!厳罰に処してたもんせ!」
 「いや!私が先でございもした!切腹しもす!」
 「いや、私のほうが!」「いや、おいが先じゃ!」
 「何を言うか!おいじゃっど!」ワイワイがやがや・・・・・。

 「ええい!うるさか!ないごてそげん死にたがっとじゃ!」

 理由はこうでした。
 初めは確かに辛抱出来ず、声を挙げてしまいました。恥ずかしいことです。殿様に叱られて、今度こそ、と思ったところに「聞かなければ厳罰」と言われました。
 もとより、死を怖れてはおりません。ですが、「聞かなければ厳罰」と言われ、厳罰が怖くて命令を聞いたと思われたら、隼人の名折れ、当家家臣の名折れ、一族末代までの恥でございます。だから、声を挙げました。命令に背きました。腹を切らせて下さい。

 そこにいた家来のほとんどが、殿様に向けて腹を切らせてくれと頼むわけです。
 薩摩武士の誇りが、そのまま、殿様に対する猛烈な批判となった。
 「殿様の命令ならば、命を惜しむものではない。だが、厳罰を怖れて命令を聞いたと思われるのは恥だ。」

 これを現代の人はどうとるのでしょう。
 まず、今の新聞やテレビだったら、「武士は誇り高くて、時には殿様もやり込めたんだ」ととるでしょうね。甘~い。見方が甘い。

 昨今の政治だってそんな感じですか。
 どこかのK総理、大物を装って〇澤代表に「しばらく静かにしていてもらいたい」、なんて。両方一芝居うって大団円。そんなものじゃない。

 真剣に見ましょう。
 殿様が「そうか、分かった。見事な覚悟じゃ。好きに致せ。切腹、許す!」と言ったら、どうなったでしょう。
 まず、間違いなく全員切腹します。殿様を恨んだりすることはありません。
 切腹することで、罪は消え、土地、家は家族に残されます。
 仮に、全て没収されたにしても、筋を通したことで、家名は語り継がれます。それが「覚悟の命令違反」。

 この時、実際は、殿様が家来に「儂の言いようが悪かった」と詫び、後は酒宴となった、とか。大事な家来を失わずにすんだ。
 命をかけて筋を通す家来。真正面からそれを受け止め、自らの軽はずみな言葉を、家来に詫びる殿様。
 こういう関係があればこそ、あの「捨て奸(かま)り」のような特異な戦法が成り立ったのでしょうね。

 今の世に「殿様と家来」のような主従関係はありませんが、この二者の間にある「信頼関係」は、今でもあってしかるべきものです。
 国民は殿様、議員は家来。
 でも、この(今の)殿様、家来を信用してますか?
 「議員(家来)なんか誰だって同じ」、なんて。
 家来は殿様のために、命がけで命令を実行する。
 「そんなの、当たり前じゃないか」、と。

 でも、最近、命令、聞こえないふりして、外のことばかりやってるみたいだけど。
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話し合いの「素」

2020年04月19日 | 重箱の隅
2010.07/06 (Tue)

 どうも、論戦、討論というものは、なかなかうまくいかないものです。
 私は大体がお喋りなんですが、その割りに話が下手で、肝腎なことを言わず、よく誤解されます。「身から出た錆び」、なので、文句の持って行き場がない。
 このことについては相手も理解しているであろう、と、勝手に省略して話すが故、です。物言いは丁寧な部類に入るらしいので、その「不親切」との段差が大きく感じられるようで、却って無礼ととられる。

 「じゃあ」と、馬鹿丁寧に、その都度、説明をすると、「くどい」、と言われ、また、「そんなこと、知っとるわい!」と怒られる。
 それでは最後の手段、説明の前に、知ってるか否か、確認をとる。
 結果は・・・・・・御明察。ますます怒られる。
 結局は、人徳がないのだ、と黙るしかない。

 まあ、それで、自分の無知、無教養のせい、となり、自分が、人でなく、本を頼って勉強するしかない、と気付かざるを得なくなったわけですが、さあ、そうなると、ますます人と話をするのが、うまくいかなくなる。
 黙っていりゃいいのに、どうしても修行が足らず、ちょっと聞いてくれそうな人に出会うと、つい、またよせばいいのにとりとめのないことを延々と喋ってしまう。
 本当に「性懲りがない」というか、なんと言うか・・・・。
 救われない奴です。

 そうこうするうちに、いや、ちょっと待てよ、根本的に思い違いをしていたのではないか、と気付く時が来ました。
 話が下手なくせにお喋りだ。それに、喋る時はどうしても聞きかじりの言葉を遣ってしまう。
 それが現在の流行語なら、「現代用語の基礎知識」などを、ざっと眺めたら大体の意味は掴めるものの、造語であれ、外来語であれ、又、翻訳語にしても、辞書をちょっと見たくらいでは意味を正確に捉えられない言葉、というのが相当にあって、困ったことに、日常、そんな言葉は頻繁に遣われている。

 外来語はともかく、造語、翻訳語、となると、漢字の意味から類推するだけでなく、翻訳語、造語の作者等の教養(考え方と、その考え方が身についている程度)も、意味をさがす場合には必要になってくる。
 で、結構思い悩んで、やっとのことで、これ、といった意味に辿りつき、他人と喋る時に何とかまともにつかえそうだ、となったとします。
 不思議なもので、そんな時、相手がその言葉を先に遣ったりするんですね。
 そして、当然のように、こっちは「?」となる。知っている言葉は出てきたものの、どうも意味が通らない。何故だろう。
 すぐに、それは間違った思い込みによる誤用だ、と気付く。

 だから、と言って、「それ、遣い方が間違ってますよ」と言ったとします。
 ケンカとまではいかずとも、気まずい雰囲気になります。当然です。
 自分だって言われたら嫌だし、第一、
「言葉を間違って遣ったって、些細なこと。話の流れに影響を及ぼすほどのことではない。今、わざとのように言うべきことではあるまい。」
・・・・・・ですよね。

 けど、世間話をしている時は、それで良いとしましょう。しかし、真剣に、論理的に、筋道をたてて話をしなければならない時は、或いは考えなければならない時、その単語の一つを誤解していたが故に、文意が変わってしまう、ということはないのか。
 あるんです。(何より、日本は言霊の国。言霊の幸合う国です。)

 以前にも日教組、戦後教育の過ちは「親切心から(少しも悪意なく)、難しい言葉を安易に易しく言い換えたこと」と書いたことがあります。
 難しい言葉と同じく、さっき書いた造語、翻訳語なども、類義語でしかないものを同義語として、簡単に置き換えてしまう危険性を、ちょっと考えてみなければならないのではないでしょうか。

 発音が似ていて、文字を見ることなく遣うことが多いために、意味までも間違ってしまった言葉は、結構あります。
 そんな言葉を間違って捉えたまま、考える際に用いる。
 小さなこと、と言いますが、その小さなことで文化が生まれ、精神が育ち、それぞれの民族、国家が成り立っている、ということは、間違いなく、事実なのです。

 「意いの外」と「以ての外」を間違っている。「決して」を「けして」だと思っている。関西人なら、「仰山」を「ようさん」だと思っている。
 「一所懸命」を「一生懸命」の間違いだと信じている。
 こんな短い言葉の中にも、ちゃんと、論理、筋道がある。
 その筋道をちゃんと押えず、話をしたら、どうなるのでしょう。
 頭の中が筋道、通っているとは言えなくなります。
 こんなことをくどくどと書いているから、叱られる。まあ、世間話、ということで、「一生懸命」のことを書いて終わります。

 「一生懸命」。戦前には殆ど見られなかったんじゃないでしょうか。
 聞きかじりの、書き間違いが、いつの間にか市民権を得て、正しい言葉として扱われるようになりました。

 「いっしょけんめい」。
 言いにくいからか、イントネーションがからんだのか、いっしょを「いっしょー」と伸ばすようになり、おさまりの良さから、「一生」とあてられるようになりました。
 けど、意味を考えれば、変です。
 「懸命」は「命懸け」の意味ですから、「全身、全霊を注いで」ということです。
 御存知「一所懸命」は、鎌倉期の武士が、所領として安堵された土地を、一族のために、外敵から護る、命懸けで治める、という在りかたから生まれた言葉です。
 転じて、何か一点に全身全霊を注ぐ、という意味で遣われるようになりました。
 「修業」に、「修行」に、「勉学」に、「仕事」に、と一点に全力を注ぐ。
 集中する、と言ってもよいでしょう。


 「一生懸命」。おかしいでしょう?焦点がありません。集中できません。
 一生は「生きている間」。
 ならば、「一生懸命」は「生きてる間は命懸け」となります。

 これじゃ、極道の世界じゃないですか。

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