2010.07/10 (Sat)
「イチローは天才ではない」という本があります。
常に進化を続ける、と言われ、毎年200本安打を達成しているイチローに対し、「天才」という表現は当然のこと。
しかし、実際、「天才だ」と言われ始めると、必ず「いや、努力しているからこそ」と言う人があらわれます。
そして、終いには「天才とは、努力する才能である」とか「天才とは99パーセントの努力の上に、花開くものである」とか言われるようになります。
神棚に祀り上げて、研究することを諦める態度です。
努力という言葉を持ち出し、そのくせ、努力の中身を研究しないからです。
とは言え、「天才だ」という人も、「天才ではない」という人も、必ず、「天才」を強く意識した上での発言が、上記のことです。
では、当のイチロー選手はどう思っているのでしょうか。
おそらくは他の人(あくまでも、普通一般の生活をする人)に比べ、運動神経には恵まれている、くらいは思っているでしょうが、天才だ、なんて考えてもいないでしょう。(いや、イチロー選手のことだから、「天才なんて、大して意味ないよ」と思っているかも。)
早い話、天才なら工夫なんかしなくたって打てるだろう、練習しなくたってミスはしない。
イチロー選手はどんな場合でも、他の選手より早く球場に行き、トレーニングを始める。試合後は、どんな時にも必ずスパイクの手入れを30分以上かけて行い、終わったら、家に帰る。飲み歩いたりはしない。
「日本人だから、道具を大切にするんだ」と一括りにしては、説明がつかない。
たった一度だけ、バットを放り投げたことがあるそうです。その時、イチロー選手は、バットの製作者に電話を入れ、折角のバットをぞんざいに扱って済みませんでした、と詫びを言ったそうです。
スパイクの手入れ、球場への入場時間、バット製作者への詫び。
こういうのが流れると、今度は「(天才)名選手の美談」として、括られてしまう。
「美談」で終えたら、先に進めない。
「努力の人」としたら、他の数限りない挫折した人は、自分を責め苛むことになる。「オレは努力が足りなかったのか!」と。
「天才」で片付けられたら、誰もが憧れるヒーローになるだけだ。それは、イチロー選手を認め、賞賛したことにはならない。
「正しい努力」を、他人の何倍も積み重ねて、結果を出している、ということを認めたならば、ヒーロー、だなんて言ってられない。なるほど、と思ったら、自分も、自分の場で、同じことをせざるを得なくなる。
「天才だ!」とほめそやすことは自分に対して無責任です。
また脱線しそうです。
イチロー選手に戻ります。このイチロー選手の言に「他の選手が思いついて実行し、これは、駄目だ、となったことを、やってみる」というのがあります。
既に結果の出ている、失敗例とされている練習法を、あえてやってみる。あまのじゃく、と見間違われますがそうではない。
自分の思い描く野球は前人未踏のものであって、そこにたどり着いた者は、まだない。
だから、そこに行くための正しい練習法なんて、誰も知らない。
ならば、駄目だと言われていたものが、本当に駄目なのか、誰にも分からない。
自分の頭脳と身体に、合う合わないも調べず、先人の言うとおりに、最初から「駄目だとされている練習法」には取り組みもしない、というのは、合理的でない。
この話によく似たことが40年近い昔にありました。
「兎跳びは百害あって一利なし」
昔のスポーツ、特に中高生の部活動では、この兎跳びをやるのが常識でした。
曰く、「強い足腰と膝をつくる。併せて忍耐力も養う」
ところが、膝を強くする前に、膝を壊してしまう生徒が続出しました。
すると、大学の運動生理学の教授などが
「うさぎ跳びで膝は強くならない。却って身体が出来ていない時は膝を壊すおそれがある。百害あって一利なし、だ」
と言い、あっという間に兎跳びは廃れていきました。
以前に少し書いたことのある、柔道の十年連続日本選士権保持者、木村政彦(当時は選手権と言わず、選士権と言いました)は、200メートルほどの銭湯までの道を、必ず兎跳びで二往復してから風呂に入り、帰りにも一往復。(正確にはそれぞれ、半回付け足し)
それは、稽古以外の「日課」だった、とか。
「自分の足腰のバネは、これでできた。」本人は、そう言っています。
それが「百害あって一利なし」なら、木村政彦は、どう思うでしょう。
「うさぎ跳びは有害」という決め付けに対し、或る学者は、この木村政彦の例をあげて、実に簡単に答えを出しています。
曰く「やりすぎは良くない、ということです。」
「過ぎたるは及ばざるが如し」ですね。それが良い、といって、そればかりでは偏ってしまう。全体で見れば力不足になってしまう。
反対に「じゃ、何もしないでおこう!」こりゃ、ダメですね、当然。
過食は太る。絶食はやせる。当たり前です、ほどほどにしなければ。
ほどほどが嫌ならそれに見合った量を塩梅すれば良い。
兎跳びも同じです。骨と筋のバランスを見ながら行うならば、害になるはずがない。言われたままを闇雲に受け入れる思考停止が問題なんです。
さて、やっと、「仙丹」です。
文字通り、仙人の薬。仙人は不老長生を目的として薬を作ったり、身体をつくったりしています。薬は「外丹」(或いは丹薬)、身体づくりは「内丹」。
共産主義革命後「気功」と呼ばれるようになったのは、呼吸法で身体をつくる、という内丹の一種「吐納術(吐納法)」です。共産主義に道教を受け入れることはできないから、名前を変えて、OKとした。(せこい。)
仙人には、八百年も生きた人や、千数百年間、折々に姿を現した、などといわれる人があり、神仏とも友達づきあいができる存在として、廟に祀られています。
この仙人、みんながみんな仙人、というわけではなく、杜子春のように思いついて弟子入りを願う者もあれば、独り、密かに仙丹をつくる研究をしている者もある。
仙丹は「不老長生」、或いは「不死」の薬、なわけです。
ということは、この世に存在するものは全て盛衰があるのだから、それを材料としてつくることはできない。
少なくとも、植物、動物からはつくれない、ということになる。
不変の物に、より近いのは鉱物である。となれば、仙丹は鉱物からつくるのが最良の法ではないか。
鉱物の中でも、千変万化し、滅びない物。固体にも、気体にも、液体にもなるものは?それは水銀です。完璧な鉱物です。
「では、これで仙丹をつくろう」
というわけで、水銀をつかって仙丹をつくります。
ところで、水銀は猛毒です。試した者は、死にます。
中には墓碑に「水銀を調合して仙丹と為し、服用、落命。仙丹作りに水銀は使わぬように」と記した場合もあるそうです。
それでも、水銀を服して命を落とす人は絶えなかったそうです。
「やり方が悪かったのだろう」
「どこかで間違えたのだろう」
「配合の比率を間違えたのではないか」
死んだ人と同じ手法はとらないけれど、やっぱり、やってみる。
今は水銀での仙丹づくりは、さすがに、行われていないようですが、これを「バカな奴!」と一笑にふせるでしょうか。
現在の医学にあっても、他の世界でも同じ手法はとらないけれど、微妙に違う方法で、新薬が開発され、新しい技術が生まれて来ています。
「イチロー」と「仙丹」。めざすところも手法もほとんど変わらない。
なのに、一方は天才と持ち上げられ、一方は馬鹿だと笑われる。
これで片付けるのは、本当に勿体ない。
「イチローは天才ではない」という本があります。
常に進化を続ける、と言われ、毎年200本安打を達成しているイチローに対し、「天才」という表現は当然のこと。
しかし、実際、「天才だ」と言われ始めると、必ず「いや、努力しているからこそ」と言う人があらわれます。
そして、終いには「天才とは、努力する才能である」とか「天才とは99パーセントの努力の上に、花開くものである」とか言われるようになります。
神棚に祀り上げて、研究することを諦める態度です。
努力という言葉を持ち出し、そのくせ、努力の中身を研究しないからです。
とは言え、「天才だ」という人も、「天才ではない」という人も、必ず、「天才」を強く意識した上での発言が、上記のことです。
では、当のイチロー選手はどう思っているのでしょうか。
おそらくは他の人(あくまでも、普通一般の生活をする人)に比べ、運動神経には恵まれている、くらいは思っているでしょうが、天才だ、なんて考えてもいないでしょう。(いや、イチロー選手のことだから、「天才なんて、大して意味ないよ」と思っているかも。)
早い話、天才なら工夫なんかしなくたって打てるだろう、練習しなくたってミスはしない。
イチロー選手はどんな場合でも、他の選手より早く球場に行き、トレーニングを始める。試合後は、どんな時にも必ずスパイクの手入れを30分以上かけて行い、終わったら、家に帰る。飲み歩いたりはしない。
「日本人だから、道具を大切にするんだ」と一括りにしては、説明がつかない。
たった一度だけ、バットを放り投げたことがあるそうです。その時、イチロー選手は、バットの製作者に電話を入れ、折角のバットをぞんざいに扱って済みませんでした、と詫びを言ったそうです。
スパイクの手入れ、球場への入場時間、バット製作者への詫び。
こういうのが流れると、今度は「(天才)名選手の美談」として、括られてしまう。
「美談」で終えたら、先に進めない。
「努力の人」としたら、他の数限りない挫折した人は、自分を責め苛むことになる。「オレは努力が足りなかったのか!」と。
「天才」で片付けられたら、誰もが憧れるヒーローになるだけだ。それは、イチロー選手を認め、賞賛したことにはならない。
「正しい努力」を、他人の何倍も積み重ねて、結果を出している、ということを認めたならば、ヒーロー、だなんて言ってられない。なるほど、と思ったら、自分も、自分の場で、同じことをせざるを得なくなる。
「天才だ!」とほめそやすことは自分に対して無責任です。
また脱線しそうです。
イチロー選手に戻ります。このイチロー選手の言に「他の選手が思いついて実行し、これは、駄目だ、となったことを、やってみる」というのがあります。
既に結果の出ている、失敗例とされている練習法を、あえてやってみる。あまのじゃく、と見間違われますがそうではない。
自分の思い描く野球は前人未踏のものであって、そこにたどり着いた者は、まだない。
だから、そこに行くための正しい練習法なんて、誰も知らない。
ならば、駄目だと言われていたものが、本当に駄目なのか、誰にも分からない。
自分の頭脳と身体に、合う合わないも調べず、先人の言うとおりに、最初から「駄目だとされている練習法」には取り組みもしない、というのは、合理的でない。
この話によく似たことが40年近い昔にありました。
「兎跳びは百害あって一利なし」
昔のスポーツ、特に中高生の部活動では、この兎跳びをやるのが常識でした。
曰く、「強い足腰と膝をつくる。併せて忍耐力も養う」
ところが、膝を強くする前に、膝を壊してしまう生徒が続出しました。
すると、大学の運動生理学の教授などが
「うさぎ跳びで膝は強くならない。却って身体が出来ていない時は膝を壊すおそれがある。百害あって一利なし、だ」
と言い、あっという間に兎跳びは廃れていきました。
以前に少し書いたことのある、柔道の十年連続日本選士権保持者、木村政彦(当時は選手権と言わず、選士権と言いました)は、200メートルほどの銭湯までの道を、必ず兎跳びで二往復してから風呂に入り、帰りにも一往復。(正確にはそれぞれ、半回付け足し)
それは、稽古以外の「日課」だった、とか。
「自分の足腰のバネは、これでできた。」本人は、そう言っています。
それが「百害あって一利なし」なら、木村政彦は、どう思うでしょう。
「うさぎ跳びは有害」という決め付けに対し、或る学者は、この木村政彦の例をあげて、実に簡単に答えを出しています。
曰く「やりすぎは良くない、ということです。」
「過ぎたるは及ばざるが如し」ですね。それが良い、といって、そればかりでは偏ってしまう。全体で見れば力不足になってしまう。
反対に「じゃ、何もしないでおこう!」こりゃ、ダメですね、当然。
過食は太る。絶食はやせる。当たり前です、ほどほどにしなければ。
ほどほどが嫌ならそれに見合った量を塩梅すれば良い。
兎跳びも同じです。骨と筋のバランスを見ながら行うならば、害になるはずがない。言われたままを闇雲に受け入れる思考停止が問題なんです。
さて、やっと、「仙丹」です。
文字通り、仙人の薬。仙人は不老長生を目的として薬を作ったり、身体をつくったりしています。薬は「外丹」(或いは丹薬)、身体づくりは「内丹」。
共産主義革命後「気功」と呼ばれるようになったのは、呼吸法で身体をつくる、という内丹の一種「吐納術(吐納法)」です。共産主義に道教を受け入れることはできないから、名前を変えて、OKとした。(せこい。)
仙人には、八百年も生きた人や、千数百年間、折々に姿を現した、などといわれる人があり、神仏とも友達づきあいができる存在として、廟に祀られています。
この仙人、みんながみんな仙人、というわけではなく、杜子春のように思いついて弟子入りを願う者もあれば、独り、密かに仙丹をつくる研究をしている者もある。
仙丹は「不老長生」、或いは「不死」の薬、なわけです。
ということは、この世に存在するものは全て盛衰があるのだから、それを材料としてつくることはできない。
少なくとも、植物、動物からはつくれない、ということになる。
不変の物に、より近いのは鉱物である。となれば、仙丹は鉱物からつくるのが最良の法ではないか。
鉱物の中でも、千変万化し、滅びない物。固体にも、気体にも、液体にもなるものは?それは水銀です。完璧な鉱物です。
「では、これで仙丹をつくろう」
というわけで、水銀をつかって仙丹をつくります。
ところで、水銀は猛毒です。試した者は、死にます。
中には墓碑に「水銀を調合して仙丹と為し、服用、落命。仙丹作りに水銀は使わぬように」と記した場合もあるそうです。
それでも、水銀を服して命を落とす人は絶えなかったそうです。
「やり方が悪かったのだろう」
「どこかで間違えたのだろう」
「配合の比率を間違えたのではないか」
死んだ人と同じ手法はとらないけれど、やっぱり、やってみる。
今は水銀での仙丹づくりは、さすがに、行われていないようですが、これを「バカな奴!」と一笑にふせるでしょうか。
現在の医学にあっても、他の世界でも同じ手法はとらないけれど、微妙に違う方法で、新薬が開発され、新しい技術が生まれて来ています。
「イチロー」と「仙丹」。めざすところも手法もほとんど変わらない。
なのに、一方は天才と持ち上げられ、一方は馬鹿だと笑われる。
これで片付けるのは、本当に勿体ない。