CubとSRと

ただの日記

菅談話の件

2020年04月21日 | 心の持ち様
2010.08/11 (Wed)

 是非お読み下さい。
 これを読んでしまったら、これについては、もう書けない。

 「謝りたがる人達ー日本を考える八月-5」
              (夕刻の備忘録)
   http://jif.blog65.fc2.com/

 謝りたがる人達―日本を考える八月-5

 「小人閑居して不善をなす」という。暇人はそのまま無為に過ごして頂いた方が宜しい。白紙同然の「首相動静」を見てつくづくそう思う。これが人間業かと思える程に、働きに働いた麻生首相の、まさに千分の一も動いていない。どのみち、碌なことはしないのであるから、動いてくれない方が、確かに有難いのではあるが、支持率に関する話題が出る時、何故こうした「明白な証拠」「無能の証」に注目する人が少ないのか、大いに疑問を持つのである。

 国旗国歌法に反対しておきながら、これまでも国旗国歌に対しては「で・き・る・か・ぎ・り・敬意を表してきた」と嘯いて、それが強烈な反論になると信じている愚か者が、今の首相である。国家への敬意は「出来る限り」でよろしい、と宣う輩が国のトップに座っているのである。

 「君が代を歌わなかったというなら、その証拠を出せ!」と気色ばんでも、複数の異なる人間からの証言が一致すれば、既に充分な証拠であろう。直ちに証拠は出たのである。「菅直人は君が代を嫌い、歌わず、すすんで起立することすらなかった」と。ホンの数時間後にはバレる嘘を吐いて、自らを窮地に追い込む人間を、マスコミは「論客」と呼ぶらしい。嘘吐きに高い評価を与える、これだけでお里が知れるというものである。

 「謝罪マニア」なる言葉がある。謝りたがる人達がいる。自分を善人に見せるために悪人を捜す。見付けた悪人になりかわって謝ってみせる。よくもまあ、自分が生まれる遙か以前の話を、調べるでもなく、議論を興すでもなく、仲間内で勝手な結論を出して軽々と謝れるものである。議会を無視、国民を無視、そしてなんと自党も無視である。
 まさに「小人閑居して不善をなす」である。
 謝りたがる人達は、常に他人の行為に対して代理で謝る。決して自分に責任のあることに関しては謝らない。謝りたがる人達は「決して謝らない人達」なのである。他人の失敗を大袈裟に論って被害者に取り入り、謝罪行為を通して顔を売り名を売る。顔を売って名を売って得た権力で、遂に国を売るのである。

 ラジオ番組での「歌った・歌わない」に対しては、顔を真っ赤にして抗議する人間が、国家対国家の複雑な関係を、今や歴史の一部になりつつある問題を簡単にひっくり返し、自ら進んで謝罪をする。
 今さら謝るべき事実など何処にも無い。それでも相手が謝れと言うから謝る。国民の知らない間に、取引をしている。「こんなもんで如何でしょうか」とお伺いをたてて謝るのである。自分の懐さえ痛まない問題なら、お安い御用とばかりにしゃしゃり出てくる。これを偽善者という。今回の謝罪事件により菅直人は一円の損もしない。動くのは我々の払った税金である。
 我が国は二代続けて偽善者が、国を預かる為政者となった。
これほどの悲劇は他に無い。

           ★ ★ ★ ★ ★

 民主党に投票された方は、そろそろ気付いた方がいい。あれは「政権交代」などというものではなかった。あなた方が望んだのは二大政党ではなかったか。
 党の綱領もない民主党は、単なる「選挙互助会」であって政党ですらないのである。政党でないものが政策を実現できる筈がない。全ては絵に描いた餅である。

 あなた方が望んだのは、国を愛する政党の競い合いではなかったか。国家観や外交、防衛では大きな差が無く、国内経済や福祉の方面での方法論の違い、そこでの競い合いこそ望んだものではなかったか。
 今、目の前にあるのは「政権交代」により誕生した新政権ではない。国内経済や福祉の方面での違いはなく、いやその意味すら知らず、国家観を持たず、外交・防衛など全く興味のない連中が権力を得た。要するに我が国は乗っ取られたのである。

 その明々白々たる証拠が、今回の謝罪事件である。国内の誰にも相談せず、相手国とだけその内容に関して極秘に打ち合わせをしていたのである。
 これは国益毀損などという生易しいものではない。内閣総理大臣による犯罪、スパイ活動そのものである。
 一億の人々が見詰める中、世紀の劇場型犯罪を為し得た菅・仙谷はさぞ満足であろう。お帰りはあちら。千葉に立会の準備でもさせておけ。

            ★ ★ ★ ★ ★

 今、日本を考えるとは、民主党を考えることである。その処理方法を考えることである。その裏に潜む、影に回った「仕掛け」を見抜くことである。こんなガラクタを選んだ、そして今なお支持している一部の国民の資質を考えることである。
 情報は多ければいいというものではない。特にマスコミ経由で得たものは加工されているが故に、混乱を齎すだけで終わってしまう。先ずは、自分で考えることである。「自分で考える切っ掛けにマスコミ情報を利用しよう」などと安易な気持ちで接するから、結局自分の頭で考えられなくなるのである。

 事実関係を精査するまでもなく、顎を上げて上から人を見下ろし、腹を突き出してふんぞり返る、閣僚達の醜い表情と弛んだ姿態を見れば、全てが分かるはずである。
 もっと自分の感覚を信じようではないか。あらゆる先入観を排除して、事に臨もうではないか。
 マスコミが左と言えば右、黒と言えば白、雨と言えば晴れ、一度そう考え直してみて欲しい。先入観を捨てるためには、一旦正反対の方向に振る必要がある。さもなければ、流される。何処が「本当の真ん中か」が見えてこない。今やマスコミは流言蜚語の総本山なのだから。初手は反マスコミ、あまのじゃく作戦が効果的だ。

 あの閣僚達を見て、不潔さも汚らわしさも感じないようなら、如何なる説明を受けても、民主党の本質を理解することは出来ないだろう。あの国会答弁を聞いて、その不誠実と傲慢とに気付かないようなら、他の問題に対する自分の判断も疑った方がいい。政策云々はしばし横に置き、閣僚の態度と姿を見て欲しい。あの下品さを支持しているのは、唯一マスコミだけである。
 とうの昔に死んだはずの極左グループに命を与え、政権を委ねるという途方も無い失敗をしたのも国民なら、それらウイルスを駆除し、日本を再浮上させ得るのも我々日本国民だけである。

 日本を考える八月。
 風物詩とも化した「靖国問題」が、何故か一言も語られない今年の夏。その意味をも含めて、この一ヶ月を日本を考える好い機会と捉え、友人・知人と議論を深めて頂きたい。亡き先祖を語ることは、日本を語ることである。我々の責任は重い。
 2010.08.11
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「良い子の60年安保」

2020年04月21日 | 重箱の隅
2010.08/06 (Fri)

 「井上ひさしは良い子だったに違いない」ついでに「私も良い子だった」と、先日書きました。併せて、今の日本、左翼思想が基盤になっているのではないか、とも書いた。
 調子に乗って、ペンの勢いで、なんて言えるほど文章、書けるわけではありません。だから、あれ、本気です。

 それで、標題の話。
 「生まれついての良い子」なんていません。
 大体、胎教がどうこうと言うけれど、音楽のリズムやメロディーは身体で感じるかもしれない、言葉だって振動で感じるかもしれない。
 でも、言葉は人間社会の「約束事」なんですから、生まれる前から「感じ」はともかく、「意味」まで分かる、なんて、そりゃ、ちょっと言い過ぎですよ。「約束事」として、生まれてから学ぶものです。言葉の意味が分からないのに、「考える」なんて、できないでしょう。

 胎教を否定するのではありません。ただ、言葉を遣う以前から覚えるべきことはあっても、「考える」という意図的な行動は、胎教では期待出来ないし、すべきではない。あ、脱線。

 母親(となる女性)が、健康で規則正しい生活をし、穏やかな気持ちで十月十日を過ごす。
 その間、母親の血液は十分な栄養を胎児に与えるけれど、そして、胎児は眠ったままであるけれど(意はあっても、識、はないのだから)、母親は規則正しく、一日のうちに決めたことを十分に行なって、満足して夜を迎え、眠りに就く。
 昼間、母親が立ち働いている時は、胎児の頭は下にあって、夜、母親が寝ている時は、床と平行です。ちゃんと24時間が、学習能力の有無と関係なしに、教育の場になっています。

 生まれた瞬間、母親の体内との余りの温度差、それ以上に羊水とは違った空気の中。その刺激。真っ只中に放り込まれます。
 びっくりして身体に力が入る。次の瞬間、緊張が緩む、力が弛む。当然、初めて呼吸をすることになる。体表だけでなく、肺の中に冷たい空気が入る。
 連続してびっくりした赤ん坊は、空気を吐き出す。これが産声です。
 そうやって産まれた子供(赤ん坊)に、さまざまな人が声をかける。それが、意味は分からないし、言葉も様々なんだけれど、みんな似たようなことをしながら、声をかけてくる。似たようなこと。それは、「笑顔」、です。
 生まれた瞬間から、人間になるための学習は始まっている。

 こうして、大人にとってうれしい反応をすれば、必ず、大人から笑顔が返ってくる。これを赤ん坊は「学ぶ」。自分もマネをすると大人はますます喜ぶ。
 親と子の関係は、こうやって深まっていきます。

 赤ん坊が大人の反応(笑顔に至るまでの反応)に、いくつかのパターンがある、と学ぶのは、大体三歳まで、です。
 その結果、基本的な応対の仕方を身につけるのが、一般的な(精神的)成長の形です。親が喜んでくれる、ほめてくれる、笑顔になる、(顔には出さずとも)喜んでいるとわかる。そうやって育てられて来たら、こういうことを喜ばない子はいません。
 (それが、大人の「都合」で出来なかった場合、これが、自閉症の芽、となります。)

 「親が喜んでくれる、ほめてくれる、笑顔になる、(顔には出さずとも)喜んでいる」のを見るとうれしい。生まれてきた瞬間からそうでしたからね、だから勉強します。
 親は笑顔になります。運動会で一所懸命に走って一番になります。保護者席で両親が飛び上がって喜んでいるのが見えます。親の言うことを聞いて行儀良くします。「本当にあなたは良い子ね」と笑顔でほめられます。両親揃ってこれをほめる。頑張らない子がいるでしょうか。
 成長の途中で、こういう分かり易い感情表現を、目の当たりにすることなく、結果、親の心が読めないで不安になった子は、こうはいきません。

 けれど、両親が仲良く、夫婦喧嘩もせず、子供を可愛がり、子供も両親を大好きで、という家庭で、(これ、絵に描いたような良い家庭、でしょう?)、たとえば夕食時、
「もう少し、給料上げてほしいわよね」
「そうだよな。会社、儲かっているくせに、ケチなんだ」
「公務員だったら良かったわね」
「そうだよな、下がることはないもんな」
とか
「政治家、何やってんだろうね、アメリカの言いなりじゃないか」
「そうよね、みんなが平和に暮らせたら、それでいいのにね」
「また、あの戦争の時みたいな思いをするなんて、いやだよ」
なんてやり取りを聞く。
 子供の、社会を見る目に、こうやってフィルターがかかる。
 批判から入るか、肯定から入るか、で、社会の色合いは全く違って見えるようになります。

 1960年(昭和35)、60年安保闘争の時、二十歳前後だった学生は、既に戦後教育の申し子です。
 ほとんどの家では「戦争は辛かった」と言います。
 そりゃ、「楽しかった」、「もう一度やりたい」、「ワクワクする」、なんて言わないでしょう。
 それを聞いて育ちます。
 「あの戦争は正しかった」、と教えられることはありません。

 敗戦直後、墨で教科書の文章を消して、使った、という話を聞かれたことがあるでしょう。けど、そんなのは、ほんの僅かの期間です。
 喜んで消させた教師もいるでしょう。涙を堪えて消させた教師もいるでしょう。
 けれど、敗戦、占領統治下にあった日本で、それまでの教育を固守できるでしょうか。東京からはるか離れた、それも、都市以外の地には、GHQの目は届き難かった。けれど、いずれ、確実に届くのです。そして、占領統治は昭和20年から7年間、続くのです。
 意外に思われるかもしれませんが、これだけ長く占領統治が続けられたことは珍しいのだそうです。戦勝国側からすれば、それだけ危険な国だったということです。 
 あ、念のために言っておきますけど「戦勝国側からすれば」、の一言は大事ですよ。「単に危ない国」ということじゃない。危険な国だけれど、味方にすればこれほど頼もしい国はない、と何となく分かっている。 
 ついでながら、占領されているということは、独立国ではないということなのですから、当時、「自主憲法を制定」することはできません。
 「日本国憲法」は英語の原文を翻訳した、「押し付けられたもの」である以前に、占領下、主権のない時の成立ですから、憲法として無効、なのです。更に、独立した時点で失効しているのです。

 初めは戦前のままの教育をしていても、教科書は国定教科書が廃止され、検定教科書になります。共通ではなくなるのです。
 大学で反主流だった社会主義思想の持ち主が、GHQの後ろ楯を得て、主流派になります。かつての主流派は公職追放にあう。
 師範学校は廃止され、教育大学となる。同時に教育大以外の大学から、教師になる者も増える。
 これは、主流派になった社会主義思想の学者の教え子が、教師となって、一気に全国に「拡散」されるということです。

 とは言え、両親は戦前の教育を受けています。
 だから、「先生の言うことは正しい。ちゃんと聞かないお前が悪い!」と叱ります。両親は先生が変質したことを知らない。

 良い子は先生の言うことをよく聞く。先生はそれを両親に言う。
 先生は喜び、親も喜び、ほめられて、良い子もうれしい。
 そして、良い子は先生の教えを心の灯火に・・・・。

 「世の中は変わらなければならない。日本は独立したけれど、アメリカ軍は日本に居坐っている。占領された時のままだ。日本はもう戦争しないと決めたんだ。新しい国づくり、平等で、平和な国づくりに、軍隊はいらない」

 60年安保の時、日ソ不可侵条約を破って侵攻したソ連に対し、学生も、社会も、抗議の声を挙げましたか?もし、挙げていた、としたら、60年安保闘争は起こっていない。

 さて、「良い子」はそれからどうなっていくのか。
 たったこれだけの推量で、
「これは、思っていたよりひどいことになっているぞ。自分自身だって相当怪しい。戦前の歴史観をもう一度見直すべきではないか」
 という気持ちになった人、ぜひ、平泉澄 著「少年日本史」を読んで下さい
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「国民はわかってますよ(?)」

2020年04月21日 | 心の持ち様
2010.08/11 (Wed)

 これまで何度か政党のことや、政府のこと、政局のことなど思いつくままに書いてきました。
 今、読み返しても、そんなに極端な間違いは書いてない、と思っています。
 特に6月の政権交代。あれは、仕組まれた小芝居(小沢幹事長側のシナリオ)であり、予定通りに展開する筈であったのを、最後の最後になって、現総理がクーデターを起こしたという件、予想通りの結果であったと思います。

 しかし、どうも分からない。
 なぜ、現総理の支持率がここに来て急に上がったのか。63%ですよ。
 なのに、内閣支持率37%、不支持率46%はどうつながるのか。
 今朝の朝日新聞の世論調査です。「?」は増えるばかり。

 「菅内閣を支持するのは、民主党中心の内閣だから(41%)」
 「九月の代表選では、再選されて欲しい(56%)」
 「民主党政権になったのは良かった(68%)」
 「仕事ぶりを評価する44% 評価しない55%」
 「外交防衛は評価する15% 評価しない67%」
 「行政の無駄を減らす取り組みは評価する69%」
 「官僚に頼った政治を改める取り組みは評価する62%」
 「政治とカネの問題対応は評価しない67%」
 「議席を減らしたのは約束が実行できてないから 69%」

 項目に、外国人参政権付与法案、夫婦別姓等が入ってないので、それに関しては結果の出しようがありません。
 それで、よく見ると回答率は57%とあります。6割弱の回答のうち、半分が支持する、ということですかね。
 数字は最初っから信用するしかないので、ついこういうのを見ると何だか結論に疑いはないように思ってしまうんですが、まあ、単純にこう考えなければならない。
 「回答率が50%台なら全員が支持でも『話半分』と思うべきだ。」

 大昔、一般教養、ということで、統計学というのを習いました。
 もう、本当に国文科の一般教養ですから、「お話」みたいなもの(聞く方の能力の問題なんですけどね)なんですが、今でも覚えている話が「ハーバード大卒業者の年間収入について」です。
 或る年、名門ハーバード大卒業者の年収を調べようとした。名門中の名門だから各界の上部に多くが仕事を持っている。卒業生の人数が多いから、当然、抽出方式で、郵送での回答。回答率は60%台だったでしょうか。
 集計して見ると、予想通り一般の就業者平均に比べ、明らかに年収は多かった。方式は正しい。回答率も60%台なら、統計として成立、十分に信用できる。
 だから、ハーバード大の出身者は、平均年収が一般以上である。

 ここで、だまされる。いや、だまされるというより読み違えてしまう。
 回答しなかった40%近い者の資料は全くないわけです。その人々は、みんな恥ずかしくって回答できないくらいの低収入だった?わからない。
 逆に回答なんてバカバカしいと返答しなかった?わからない。
 つまり、統計によって得た数字を一つだけ、或いは個々に見たって本当のことは分からない。数字は数字でしかない。読み方次第で、どうとでも読める。
 「統計は他人を説得する上で、とても効果的な手段である。」「しかし、それ以上でも以下でもない」そう思っていた方が良い。
 信用しない奴はバカだけれど、信用する奴はもっとバカだ。

 というわけで、上記の回答の中身を見ると、やっぱり「?」です。
 カン総理は支持する(63%)が内閣は支持できない(46%)。
 民主党政権に替わったのは良かった(68%)が、仕事は評価できない(55%)。外交防衛はがっかり(67%)。議席を減らしたのは約束不履行のせい(69%)
 なのに、行政の無駄を減らす取り組みは69%、政治主導になったと思う62%。
 おかしいです。
 総理は仕事ができてない。外交も駄目、というのに、そして、内閣の支持率は37%なのに、総理の支持率は「63%」?
 「政治主導になった」?どこでわかるんでしょう。少なくとも、「あなた方に言われたくない」のバーゲンセールはあったけれど、あと何がありましたか?
 行政の無駄を減らす取り組み、わかります、わかりますよ。拘束力も何もない、おまけにビジョンもない、財務省の用意した台本どおりの猿芝居。
 つまり、行政の無駄遣い云々は「事業仕分けで胸がすっとした」だけの話じゃないですか。あれって、年度が変わる時に実行するんですよね。
 何より、カン総理は何もやってない。先送りの名人になってしまった。けど支持される理由は?
 「一年毎に総理が代わるなんて」と散々叩いてきたのが、「一年で三人も総理が代わるなんて」になることだけは何としても避けたい、というメディアの誘導に、まんまと乗せられてしまっただけじゃないでしょうか。

 先日来、何だか空恐ろしくなってきてるんです。
 百歩でも、二百歩でも譲ります。あの衆院選は「自民党にお灸を」でもいい、十分に効きました。けど、参院選、そして、今回の世論調査を見ると、国民はその時の反省を全くしていないのではないか。何一つ進歩していないのではないか。

 「国民はわかっている」?冗談じゃない。全くわかってない。全然、あれ以来、まともに勉強をしていない。
 一部の人は危機感を持っている。情報を集めようとしている。あれ以来、一所懸命に本を読んだりしてレベルアップを図っている。頑張って勉強していると言える。
 でも大方の人はテレビだけ見て、新聞の情報を鵜吞みにするだけで、勉強しているとは言えない。

 そして、今日の談話です。
 確かに有名ブログで書かれているように、これを推し進めて来たのは、官房長官でしょう。総理は、力を注いでないのが、顔に出ています。
 
 議員の多くは、総理になることが目標です。けれど、総理になれば今度は総理だからこそ出来る目標に向って突き進むことになります。
 鳩山前総理だって、総理は「目標」であって、国境をなくし、国家間の問題をなくしてしまうという「目的」は忘れていない。

 カン総理は総理の椅子が「目的」だった。だから、先は、ない。なったからには一日でも長く座れるよう、算段をする。改めて目的を設定しようという気はない。(実際のところ、総理になってから新しい目標を、なんて。そんなに甘いものではないでしょう)
  
 談話について、メディアは「日本の植民地支配」と強調し、「植民地」と「併合」を全く同じもののように報道しています。ついでながら、併合と併呑もごっちゃにしている。
 ちょっと調べればわかることも、総理は調べてない。カン総理は全く期待できない。一般の国民の勉強も、現時点では全く期待できない。
 しかし、何だって初めは一人です。一人が正論を吐くことで、同調する人が出る。波になり大きなうねりになる。水準が高ければ、あっという間です。


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「勉強」

2020年04月21日 | 心の持ち様
2010.08/07 (Sat)

 国会の話題を、となるところなんですが、もう、口を開ければ、じゃない、ペンを持てば民主党の悪口、総理をバカにする言、しか出てきません。
 今だってやっぱり、「あの題名を見たら、この党は、根本的に駄目なんだ、と思って当然だろうに。やっぱり国民に問題があるんだ」と思ってしまいました。
 既に5万部が売れている、という一冊の新書の題名です。菅伸子女史の、あの本です。(文末に題名、書いときます。)

 先日いただいたコメントに返事を書いていて、「働く」という言葉が国字であること、だから「労働」という言葉は日本で出来た言葉であって、漢字の「宗主国」であるシナは、「労働」という言葉が本来存在しない、彼等が「労働」の意味で使う言葉は、「運動」しかないこと、などを思い出しました。
 「労働」。額に汗して働き、何かを成し遂げる、という概念が、シナには有史以来存在しなかった、ということです。
 
 ついでながら、「人民」という言葉も、「共和国」も「共産主義」「民主主義」、「主義」、当然ながら「自由」も、全て日本が欧米から輸入した概念を日本語に翻訳して、遣いはじめたものです。
 つまり、シナ朝鮮、共に、己が国の国名でさえ日本語の表記に頼らなければならない、という現状も思い出してしまいました。

 「使用料払え」なんてせこい事は言いませんよ。
 けど、「そうだね、我々も、ちょっと『恩義』について考えなければならないね」くらいは思って欲しいけど。無理かな?

 国字ではないのですが、明らかに日本でつくられたと思われる言葉に「勉強」、があります。
 大阪弁としてよく出てくる「勉強しまっせ」は「私の利益を削ってでも、お客さんに喜んでもらいます」。また
「勉強させてもらいます」は芸人が遣えば「芸事の貴重な参考にさせていただきます(教えていただきます)」の意味でしょう。
 では、何故それらを「勉強」というのか、です。
 「勉学」という言葉は「学(問)に勉める」、だから、すぐに分かりますが、「勉」「強」、となると。
 
 「強」は強制の強。「強いる」でしょう。「強い」ではない。
 「勉強」は「勉めて強いる」、力づくで努力する、という意味になります。
 この発想は、日本人独特のものでしょう。
 ただでさえ「勉める」、つまり「努力している」のに、その上「強いる」のです。

 「強いる」は「強制」と同様の意味ですが、何だか「強制」というと、あまり良い印象の言葉は出て来ませんね。「強制労働」とか「強制連行」。無理矢理労働させる、無理矢理連れて行く。

 ここで、あれ?と思われた人は相当勘の鋭い人ですよ。
 強制労働、強制連行、共に戦後の新しい言葉です。同じ内容のことなら、こんな四字熟語にせず、昔からずっと、単に、「連れて行く」「はたらく」を命令の形で使っていた。あえてこういう四字熟語のような体裁にしたのは、明らかに何らかの意図があったのでは?と考えるのが当然の筋道です。

 ややこしいところに入って行きそうなので、戻ります。
 強制の中身は二通りあります。「強いる」と「無理強い」です。
 更に言えば、「無理強い」こそが、「強制」の中身です。そこには、「理」がない。当人の意志に関係なく、正しいとか正しくないとかは度外視。だから、「無理強い」です。

 となると、「強いる」には理があるわけですね。
 「力づく」は何かを押さえつけて、ということだから、「理なんか、関係ない!」と言っているようですが、どうも、そうではないようです。
 理のある時に限っての「力づく」を「強いる」と言っているらしい。

 こういうことでしょう。
 難しい本を読もうとすると、眠くなる。頭が読みたくないと抵抗している。そこに理はない。脳が怠けたがってるだけだ。
 その場合、力づくで眠気と闘い、本を読む。
 最初のうちは連戦連敗ですが、繰り返すうちに眠気に勝てるようになっていく。自分の怠けようとする脳に、読むことを「強い」た、わけです。
 些か大袈裟ですが、「強いる」は、破邪顕正に通じる言葉、とも言えます。怠けたいという脳や身体(理のない行動)を押さえつけ、能力を磨いていく。

 勉強の「強」には、確かにそんな意味があります。
 やりたくないけど、やらなきゃいけない。やらなきゃ力はつかない。
 だから、力づくで、自分にやらせる。
 すると、段々能力が磨かれ実力を持つようになります。気がつけば世間で言う精神力もついている。力づくでやらせるうち、自身に忍耐力もついている。

 この「努力することを強いる」という在り方と、「努力を楽しくする」という考え方を比べれば、後者の方は世界中で行なわれていることですから、誰だって分かってくれるでしょう。楽しく取り組んで結果を残す。最少の努力、最大の収穫。
 ただ、気持ちの持ちようだ、と思うんです。
 「楽しくやることで努力の辛さから、目を逸らす。」確かに実力、能力はつきます。
 けど、そこにもう一工夫したら?
 
 努力を楽しくする。でも、これ、今できてない自分に努力を強いていることでもあるのだ。そう思いながら、であれば?
 楽しく努力をしながら、でも、「今の自分を向上させよう、と自分に強いているんだ」と思う。そうやって、未来を見詰める。

 そう思っていれば、努力の辛さから目を逸らしていないうえに、力をつけた自分が精神力もつけて生きている。そういうことになります。

 このやり方は、日本人が昔から当たり前にやってきたことではないでしょうか。
 「勉強」という言葉から、そんなことを思いました。

 注 「あの本」の題名
     ↓
 「あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの  (幻冬舎新書)」


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