CubとSRと

ただの日記

池波正太郎のこと⑥人を見る(見詰める)目

2020年04月08日 | 心の持ち様
2012.04/26 (Thu)

 海音寺潮五郎は司馬遼太郎を高く買って、ことある毎に推賞したそうだが、逆に池波正太郎を認めることは遂になかったそうだ。
 と言うより、嫌っていたらしいと聞いたことがある。

 今、ネットで見たら、「嫌っていたというより相性が悪かったのでは」とあったが、その方が、よっぽど双方に気の毒だ、という気がする。
 「嫌っていた」のなら、考え方の衝突で、ということになるから、立場が違えば当然のこと。けど、それは相手を認めているということの裏返しだと言える。
 それが、「相性が悪い」となれば、これは感じ方の違い、生理的に嫌悪を「感じる」わけだ。全く理屈ではない。
 で、実際のところは海音寺は、初め、ちゃんとした評をしている。それに対して、池波の方がそれらしい反応をしていれば、こんなにこじれはしなかったのでは、と思う。私のような門外漢が言うのもどうかとも思うが、稀代の頑固者二人、歩み寄ろうという気はお互い全くなかったのだろう。

 戻ります。
 以前に書いたことですが、従軍記者として、大刀を腰に、戦地に赴いた海音寺が、病を得て任を解かれ、郷里である鹿児島の大口に帰っていた時、の話を転載します。
~~~~~~~~~~~~~

 ~健康を害して、敗戦前に帰国、郷里に家族で疎開します。すると、身辺調査のために地元の警察官が来る。小説家であることを知ってから度々訪ねて来る。上がって一緒に酒を飲んだりするようになった時に、その警察官、つい本音が出た。
 「戦地では軍が懸命に戦っているのに。作物をつくるでもない、それどころか、人の心を惑わすようなあまり自慢できない仕事だ、小説家などというものは。」
 それを聞いた海音寺は、「何を言うか。小説家は人の心を耕し、立派な心をつくるのだ。そのために命を削っているのだ。それを知らず、戦にも行っておらん貴様に何が分かるか!とっとと帰れ!」と追い出してしまった。
 以降、その警察官は二度とやって来なかったらしいが、どうも、戦地から戻った海音寺を、小説家なら共産主義者ではないかという疑いから調査に来ていたらしい、ということが後に分かったそうです。

 「日本人から日本歴史の常識が失われつつある。だから、私は小説を書くことで正しい日本の姿を伝えたい」。
 これが、海音寺の創作活動の柱です。
                  (2010・3・24の日記)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 海音寺潮五郎は「文学で人の心を耕し、立派な心をつくるのだ」と言う。「小説を書くことで、正しい日本の姿を伝えたい」とも。
 これは分かりやすい。成程、池波正太郎とは対極だ。

 池波正太郎の書いたものについて、先日、或る人が「人間的に言えば『濁り』が多い。上辺だけしか書いてない。どんな人間にも重みがあるのに」といった内容のコメントを下さった。
 「濁りが多い」、とは、これまた言い得て妙だな、と思わされた。

 秋山小兵衛の在り方は「自然なフォルム」で、「あんな生き方もいいな」と思わせる魅力のあるものではある。
 けれど、書いてきたように、生真面目に懸命に剣術修業に明け暮れ、遂に奥義に達したのなら、その道を明らかにし、「万人がそれぞれ一所懸命に何かに取り組んで来たら、それなりに生きていて得るものはあるのだ」、と示すべきところを端折ってしまい、一切方途を示すことがない。結論だけを実行し、それで終わってしまう。
 だから読み物としては面白い。

 けれど、そこに登場する人物の「光を求めるための」努力、苦しみ、喜びは、そしてその取り組む姿勢の尊さは、描かれない。あるのは秋山父子の適切な働きばかり、だ。
 海音寺潮五郎が池波を「小説というものが分かっていない」と酷評した、というのは、この両者の拠って立つところが違いすぎているからだろう。

 懸命に生きよう、向上しようと考える海音寺。
 市井の人々の哀楽をスーパースターに裁かせる池波。
 平然として死を受け入れる強さを手に入れようとする海音寺。
 平然として悪人の命を奪うことで、一気に問題を解決し、大勢を助けようとする池波。

 人を見上げようとする海音寺、数十メートル上から見下ろす司馬、と喩えたならば、池波は将棋盤上の人形のような人物をじっと見詰め、その行動を推理しているだけのようにも見える。
 「読み物だからそれでいいのだ」と池波は思っていたのだろうか。
 株屋の小僧(丁稚)として、世の中の裏表、世間の酸いも甘いも早くから知っていたため、人の生き方を金銭で量る。「情」も多くは金銭で買えるのだ、と明らめている。
 だから、およそ剣術の修業者には考えられもしない筈の「商売」、を「剣客」にさせたのだろうか。

             (終わり)
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池波正太郎のこと⑤過程を端折る

2020年04月08日 | 心の持ち様
2012.04/25 (Wed)

 「前中後」として終えるつもりが予定を大きくはずれ、4回目を終わったのにまだ「中」に引っ掛かってうろうろしている。
 これではWチェックをしているようなもので、人工衛星と称するミサイルの確認だったとしたら、疾っくにあの世行きだ・・・・などと言っていたら、また長くなる。

 「剣客商売」は面白いけれども、何だか引っ掛かる。主人公の秋山小兵衛は信じられないほどの強さだけれど、その日常は隠居した老人で、特に剣術の稽古をするわけでなし、「無駄な力の入ってない自然な生き方」をしているだけ、と書いて来た。
 信条は「男女の恋の駆け引きも、剣術の稽古も同じ」。

 しかし、実際引っ掛かる理由は、おそらくその辺り。
 自身は「無駄な力の入っていない流儀」の達者なのに、長大な振り棒での千回素振りを初心者にさせる息子を黙認し、又、自身は自然な生き方を手に入れながら、それまでの術技習得のための労苦に些かも言及することなく、「男女の恋の駆け引きも同じ」と結論だけ言う。

 勿論私だって、いきなりの振り棒での千回素振りが、何を意図しているかぐらいは分かる。素振りをまともにできるようになるには、他の習い事と同じく、三年はかかる。
 けれど、振り棒を千回、闇雲に振るだけなら、三ヶ月もあればできる。早いものなら一ヶ月かからないかもしれない。到底できないと思っていた初心者が、千回の素振りをできるようになる。その達成感は、三年はかかる流儀独特の木刀での正しい素振りができるようになるそれと比べれば、段違いの実感と自信を初心者にもたらす。

 しかし、本当のことを言えば、そんなつまらぬ自信を持たせることは、師の教えを軽んずるきっかけをつくることにしかならない。まだ、流儀のことは何も習っていないのだから。
 秋山小兵衛ほどの術者がそんなことを分からぬ筈がない。しかし、それを言わない。息子である大治郎が失敗から学ぶのを待っているのか。
 もしそうだとしたら、我が子が剣客として大成するために、多くの弟子となった人間を犠牲にしていると言われても仕方がない。

 最早、隠居の身だから、門人でもない者に教えることはない、と割り切っているのか、と思うと、突然、情にほだされて(?)全くの素人に勝ち方を教えてやったりする。(けれど、流儀を教えるわけではない。全くの「剣客商売」だ。そのくせ、儲けはない。)
 だから「道場主」ではなく、「剣客」であり、敢えて「商売」と言っているわけだろうが、②~④で迷走しながら書いてきたように、その生き方は無外流という剣術の修業の過程で修行して手に入れてきたものであるからこそ、真実味を帯びる。

 小説を読むことを、全くの時間潰しとするか、そこから何かの生きる糧を得るか、そんなことは読者の勝手だろうけれど、たとえフィクションであっても、生死に関わることを「商売」と称するからには、それなりの覚悟があるのだろう。

 何かを手に入れるためには、その取り組む対象独特の力の入れ方(考え方)を理解しようと努力しながらもひたすら繰り返し、「自然なフォルム」になるまでに鍛錬しなければならない。
 その過程で次第に理解が進み、納得も進み、併せてそれらから全ての物の見方、考え方がつくられていく。鵤工舎の新人養成法と全く同じだ。
 ともかく小兵衛の、「剣客は商売」とさらりと言ってしまう「自然な生き方」は、そうやってつくられてきた。

 生真面目に懸命に剣術修業に打ち込めば、その考え方もまた、流儀独特の「力み」のような、流儀独特のひたむきさを持つものになる。少なくともそれを信じ切り、そこに命を預けることが根本の考え方、生き方として、いつしか出来上がって行く。
 そうなると初心から完成までの長い道程は簡略化したとしても、必ずその粗筋を忘れず、後生に伝えようとするのが修行者であり、それがあるからこそ、流儀というものは発展を続けることができる。大まかに言えば、人柄や国柄ができていくのと同じことだ。生真面目にやればやるほど、剣技も境地も向上するものだ、ということを、おそろしく強い秋山小兵衛という人物が実証して見せた。

 そんな生真面目な人間が、豁然として大悟した結果、長い道程の粗筋を伝えようともせず、隠居してしまうものだろうか。そして達観した目で以って色々な事件を解決し、或いは収束させる。
 そんな恩知らずなことをするだろうか。
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池波正太郎のこと④もう一度自然なフォルム

2020年04月08日 | 重箱の隅
2012.04/23 (Mon)

 もうひとつ書いておかねばならないこと。
 それはこの「(習熟したことによる)自然なフォルム」、だ。

 私は実のところ、剣術を習い始めた時に、「結局は自分が、自分の中につくり上げるしかないんだから、稽古の仕方、刀の振り方を教わったら、後は独り稽古をするしかないだろう。型稽古も教わりたいのは山々だけれども、まともに刀を振れてこそ、の型なんだから、高望みせず、振り方だけ習おう」と思っていた。
 本人がその気になって、習ったことを謙虚に、丁寧に、ひたすら繰り返せば、自ずと基本は身につく筈だ、と。

 そのつもりで習いに行った。教わったものは本で調べていた通りのものだった。本に書かれてあることで描いていたイメージを、大きく越えるものではなかった。 
 早い話が『想像通り』、というやつだった。
 今になってみると、それは「イメージ通り」、ということではなく、自身のイメージ能力がそこまででしかなかったということなのだが。

 勿論、イメージ通りだからといって、教わってすぐにできるものではない。
 簡単そうに見える刀の振り上げ方は、やってみると全くできなかった。
 身体の各部の動かし方は、思っていた以上に特殊なもので、これまで経験したことのない遣い方を要求された。
 
 それでも、自分なりに予習をしておいたのが功を奏したのか、
 「初めてにしては形になっている」
 と言われ、素直にうれしかった。
 ところが、三日目あたりで、「型を教える」と言われた。

 できる筈もないし、習うことも想像していなかったのだが、断るのも変な話だ。それこそ失礼だ。できないからできる人に習うのであり、その、できる人が「教える」と言うのはそれなりの算段があるからの筈で、こちら(習う方)には、まだそれ(師範代の心積もり)を理解する能力は育ってないのだから。
 理解能力のない者が、教わるか否か忖度する。そして、それを断る。それは教わる者の態度ではない。
 「そうか。それなら帰れ」と言われたら万事休す、だ。

 初歩の型を三手ほど習ったが、素振り以上に全くできない。当然だ。更には素振り自体が怪しくなる。
 結局そこまでで、十日余りの稽古は終わった。 
 五日目には何とか覚えたと思ったが、その五日目には、既に型を教わることはなく、以降、先に進むことはおろか、型について教わることは、期間中、遂に一度もなかった。

 さて、それからが問題だ。
 残念ながら、型は三手で中止になったが、元々、習えるとは思っていなかったことだ。できなかったんだし重要とも思えない。
 とにかく素振りの稽古をしよう。

 家に帰ってから、日課にするつもりで勇んで素振りを中心とする独り稽古を始めた。
 教わったことをメモに録っていたから、注意すべきことを思い出しながらいちいち気をつけ、色々工夫してやってみるのだが、ちっとも思い通りに行かない。
 しばらくやっては考え、気を取り直してまたやってみては悩み、の毎日が始まった。
 たった一つの素振りの仕方なのに、いくらやっても疑問ばかりが、次から次へと、それこそ「湧いて」来る。
 こうなっては、もうしょうがない。みんなメモして、疑問の山を持ってもう一度教わりに行くしかない。

 最初は「素振りの仕方『だけ』習えばいい」、だった。
 それが今度は「素振りの仕方『だけ』は習わなければ」、になっていた。
 『 』の中は同じなのに、随分違う。焦点がはっきりして来た。
 そして、メモを胸中に、再び教わろうとした。

 師範代に、まず、一つ質問する。
 それに応えて、師範代は「それは、こうだ」、と、目の前で木刀を一振りされた。

 その瞬間に「あ~っ、そうか!」。
 全ての疑問が、その一振りで消えてしまった。
 分かったことは「あとは習熟するしかない。素振りをすれば疑問はみんな解決する」ということだった。
 勿論、それは「これからも悩み続けるしかない」、「確認のために稽古に通うしかない」、「教えを受け続けるしかない」、等を確信した、ということでもある。

 脱線するが、その時、前回は三手で終わっていた組み太刀の仕太刀(一分近くかかる)を、三日間で教わった。
 疑問の渦に呑みこまれそうになりながら、半年間やって来た素振りの成果らしい。

 「剣客商売」の中に、初心者には重くて長い振り棒を渡し、とにかく、千回振れるようになるまで、何も教えない、という場面が出て来る。
 それが、一刀流を遣う息子の、独特の稽古法というわけではないようだから、これは無外流の小兵衛からの示唆か、小兵衛の教えだったのかは分からない。
 けれど、流儀独特の太刀筋を覚えるためには、最初が肝腎なわけで、以前に書いた鵤工舎の新人みたいに、掃除ばかりさせて、根気と研究心を育て、基本である刃物の扱い方を自然に覚えるように仕向けていくのが本来だろう。

 何もできないのだから、基本となるものを覚えさせる。当然のことではないだろうか。「自然なフォルム」は、そうやって、当人が取り組んでこそできるものだろう。

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池波正太郎のこと③もう一度無駄な力のこと

2020年04月08日 | 重箱の隅
2012.04/22 (Sun)

 いつものことではあるけれど、前回も例によって四苦八苦してやっとの思いで書き終わり、日記を更新した。
 だが、これまたいつものことながら、どうもすっきりしない。
 「ちゃんと書けた!」には程遠い。

 前中後の三回で、と思っていたのだが、二回目であれだから、今回、とてもじゃないけれど「後」として終わらせることなんてできそうもない。
 と言うわけで、取り敢えず、「前中後」とする予定だったのを、①~とした。
 これは、だから③ということにします。

 何だか、何回読み直してみても整理が為されておらず、ごちゃごちゃした感じばかりが心に残る。
 それでも続きを書かなければ終われない。
 で、よく見ると、あの「キーワードとなる一言」の書き方が不味かったのではないか、となってきた。

 「無駄な力の入ってない自然なフォルムだ」
 この言葉をきちんと分けなかったから、焦点が曖昧になったのだ、とやっと気がついた。
 「無駄な力の入ってない自然なフォルム」というのは、「無駄な力の入ってない」と「自然なフォルム」、ではない。なのに、そう書いているところもあれば、ちゃんと正しく書いているところもある。それがもやもやの元だった。

 「剣術の流儀」というのは「考え方」、のようなものだから、クセ、或いは力みのようなものがある。だからあって当然、とまでは言わないが、「なくて七癖」と言うように、クセ、力みの有無と(それぞれの流儀の)、「理」の有無に直接のつながりはない。流儀の「理」に、クセ、力みは決して問題とはならない。
 あ、また妙なところに行こうとしている。

 「無駄な力の入ってない」と、「自然なフォルム」と、に分けたように思ってしまいそうなところが、失敗だった。
 本当なら「無駄な力の入ってないフォルム」と、「自然なフォルム」に分けて書くべきだった。

 流派としての特徴が、「無駄な力の入ってないフォルム」の流儀もあれば、剣道のように「無駄な力の入っているフォルム」もある。
 ということは、実は「無駄」という表現が些か以上に適切でない言い回しであるというだけだ。

 振り上げ方のどこかに力が入っている流儀。反対に力を入れまくっているように見えて、その実、力が入ってない流儀もある。
 そういうことを、まず、認めて置き、その上に「自然なフォルム」に至っているか否か、を見れば、事ははっきりして来る。

 我が尊敬する音楽家は、「無駄な力の入ってない、自然なフォルム」と言われたが、これは前回記したように、二つの観点(流儀の特徴、演者の習熟度)を混在させたままの表現だった。

 流儀の振り上げ方には、現実「(無駄な)力の入らないフォルムだ」と気付いたものの、「自然な」という評し方は、「力の入らないフォルム」と同じ意味のことを繰り返したことになる。
 その時、私はまだ習熟してはおらず、又、氏は、「自然なフォルム」、と、私を煽て上げるつもりも必要も全くなかったのだから。

 では、「自然なフォルム」とは何なのか。


 (続く)
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池波正太郎のこと②自然なフォルム(自然に見えるということ)

2020年04月08日 | 重箱の隅
2012.04/21 (Sat)

 「剣客商売」。中村又五郎という歌舞伎役者扮する秋山小兵衛の剣捌きは見事だったのだけれど、何かしら「剣客商売」に引っ掛かるところがある、と書いた。
 何か違うと思い始めた。殺陣のことだろうか、と。

 或る時、以前の日記(「作曲家と指揮者」2011/1/22)に書いた、尊敬する音楽家に、
 「あんたのやっている剣術は、どんな風に構えるのか」
 、と問われた。
 そこに木刀はなかったので、そばにあった大太鼓のばち(マレットというんだそうです)を小太刀のように右手で取って
 「こんな風に振り上げるんですけど」
 と振り上げると、
 「ふ~ん。自然な形だなあ。無駄なところがない」
 との感想。

 流儀の振り上げ方について、そんな風に言われたのは初めてだったから少々以上に驚いて
 「ほとんどの人は、右手ばかりに力の入った力づくの形だ、と言われますよ」
 と言うと、
 「いや、そんなことはない。ボクはこんな仕事をしているから、それが無駄な力の入ってない自然なフォルムだということは分かる」
 と、再び驚きの返答。

 一緒に居た友人が、
 「剣道はこうですけど」
 と、素手で上段に取ると、
 「うん。そっちの方は無駄な力が入った形だ。」

 上手下手ということではなく、木刀を振り上げた形自体に無駄がない、そういう形なのだ、と言われた。
 確かに、子供が喧嘩をする時に拳を振り上げる形によく似ている。子供は誰に教わるでもなく拳を振り上げる。そんな形に木刀を振り上げる。
 それを「自然な形だ」と言われた。師範代には常に同様のことを言われていたが、世間に言う「剣道」を知る者は、誰一人として言わなかった内容の感想だった。

 「無駄な力の入ってない自然なフォルムだ」
 その感想には驚いたものの、ではその鋭い鑑識眼を持つ音楽家がその形を取れるのか、というと、十人が中、九人までは「取れる筈がない」と言うだろう。
 そして残る一人は「もしかしたら取れるかもしれない」と言う。けれど、「必ずその形が取れる!」とまでは言わない。
 理由は簡単で、どんなものでも、それなりに真似てみることをしなければ、見ただけでいきなりできることというものは何一つないからだ。(素養があれば、その限りではない)
 自然であろうが不自然であろうが、それなりの習練をしなければできるものはない。横笛を吹く、バイオリンを、又、ピアノを弾く、等の演技は、それなりにその楽器に親しんで来た者とそうでない者の差は、演技力云々でどうにかできるものではない。

 「無駄な力の入ってない、自然なフォルム」という言葉には、実は二つの観点がある。
 「無駄な力の入ってない」というのは、その振り上げ方が「理に適っている」ということをあらわしている。
 しかし「自然な」というのは「理」ではなく、「余分な力が入ってない」ということを指す。
 「ええっ?逆じゃないのか」

 振り上げ方は「伝承されて来ているもの」だから、それが「無駄がない」ということは流派の伝承が真っ当に行われているということになる。
 対して、「自然なフォルム」というのは「余分な力を入れなくても成り立つ形」、ではなく、「余分な力を入れなくなった形」ということで、実は「それ相当の稽古、努力が為されて来て、身についた動作の結果」であることを示している。

 ただ、どれだけ鋭い鑑識眼を持っていても、この「合理」と「習練」を分けて見取ることはない。
 「自然なフォルム」は「自然に見える」までに意識的に、「不自然に感じることを積み重ねた結果手に入れるもの」だ、ということを注視する、或いは重要視する人はほとんどいない。

 例えば魔法のように見事に鮨を握る職人。客はあまりの見事さに息をするのも忘れて見入ってしまい、職人が一貫握り終わるや我に返り、ため息のような大きな息をする。
 反対に全ての動作がほぼ等速で行われ、こちらも何気なく話し掛けたりしている中、気がついたら一貫握り終わっている職人。
 「自然なフォルム」というのは、言うまでもなく後者だ。
 そして、そこに至るまでには想像以上の修練、そして鍛錬が行われている。

 「無駄な力の入ってない自然なフォルム」。
 「やっぱり、逆じゃないのか?習練の結果、無駄な力が入らなくなり、流派の形が自然なフォルムになるんじゃないのか?」
 しかし、「無駄な力の有無」は、個々の流儀の特徴であり、それぞれの流儀の特徴(クセと言ってもいい)を手に入れるための努力を重ねた結果、手に入れたものが「自然に見える」ようになるのだ。

 このことのどこが池波正太郎の「剣客商売」に係わっているのか。

 秋山小兵衛は池波正太郎の描く田沼意次と同じく、「無駄な力の入ってない、自然なフォルム」の生き方をしている。
 「無駄な力の入ってない」小兵衛の生き方が「ごく自然に見える」。
 そして、読者をして「こんな生き方っていいよなあ」と思わしめる。

 小兵衛は一体どこでこんな生き方を習い、どこでそれを修練し、身につけたのか。
 もう言うまでもないことながら、小兵衛は無外流を習い、修練をすることによって、この生き方を手に入れ、習熟したわけだ。

 では小兵衛が言う「男女の駆け引きも剣術の稽古も同じ」というのは、無外流の奥義と一味、ということになるのだが???小兵衛は無外流習得のために全てを叩き込んだ筈なのだが。
 小兵衛は或る日突然に、このことを悟ったと記憶している。当然長足の進歩があった。

 流儀というのは、言ってみれば「考え方」だ。だから、それなりのクセ、或いは無駄な力みがある。
 そのクセ、力みに習熟し、それが自然になるまでには、相当の修練が必要になる、とここまで書いてきた。小兵衛はその道を歩んで来た。

 そして、大悟した。「男女の駆け引きも剣術の稽古も同じ」、と。
 
 やっぱり、引っ掛かる。
 無外流というのはそういう流儀か?
 男女の駆け引きと、真っ向から死と対峙することを「同じ」だと言うのか?
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