2012.04/26 (Thu)
海音寺潮五郎は司馬遼太郎を高く買って、ことある毎に推賞したそうだが、逆に池波正太郎を認めることは遂になかったそうだ。
と言うより、嫌っていたらしいと聞いたことがある。
今、ネットで見たら、「嫌っていたというより相性が悪かったのでは」とあったが、その方が、よっぽど双方に気の毒だ、という気がする。
「嫌っていた」のなら、考え方の衝突で、ということになるから、立場が違えば当然のこと。けど、それは相手を認めているということの裏返しだと言える。
それが、「相性が悪い」となれば、これは感じ方の違い、生理的に嫌悪を「感じる」わけだ。全く理屈ではない。
で、実際のところは海音寺は、初め、ちゃんとした評をしている。それに対して、池波の方がそれらしい反応をしていれば、こんなにこじれはしなかったのでは、と思う。私のような門外漢が言うのもどうかとも思うが、稀代の頑固者二人、歩み寄ろうという気はお互い全くなかったのだろう。
戻ります。
以前に書いたことですが、従軍記者として、大刀を腰に、戦地に赴いた海音寺が、病を得て任を解かれ、郷里である鹿児島の大口に帰っていた時、の話を転載します。
~~~~~~~~~~~~~
~健康を害して、敗戦前に帰国、郷里に家族で疎開します。すると、身辺調査のために地元の警察官が来る。小説家であることを知ってから度々訪ねて来る。上がって一緒に酒を飲んだりするようになった時に、その警察官、つい本音が出た。
「戦地では軍が懸命に戦っているのに。作物をつくるでもない、それどころか、人の心を惑わすようなあまり自慢できない仕事だ、小説家などというものは。」
それを聞いた海音寺は、「何を言うか。小説家は人の心を耕し、立派な心をつくるのだ。そのために命を削っているのだ。それを知らず、戦にも行っておらん貴様に何が分かるか!とっとと帰れ!」と追い出してしまった。
以降、その警察官は二度とやって来なかったらしいが、どうも、戦地から戻った海音寺を、小説家なら共産主義者ではないかという疑いから調査に来ていたらしい、ということが後に分かったそうです。
「日本人から日本歴史の常識が失われつつある。だから、私は小説を書くことで正しい日本の姿を伝えたい」。
これが、海音寺の創作活動の柱です。
(2010・3・24の日記)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
海音寺潮五郎は「文学で人の心を耕し、立派な心をつくるのだ」と言う。「小説を書くことで、正しい日本の姿を伝えたい」とも。
これは分かりやすい。成程、池波正太郎とは対極だ。
池波正太郎の書いたものについて、先日、或る人が「人間的に言えば『濁り』が多い。上辺だけしか書いてない。どんな人間にも重みがあるのに」といった内容のコメントを下さった。
「濁りが多い」、とは、これまた言い得て妙だな、と思わされた。
秋山小兵衛の在り方は「自然なフォルム」で、「あんな生き方もいいな」と思わせる魅力のあるものではある。
けれど、書いてきたように、生真面目に懸命に剣術修業に明け暮れ、遂に奥義に達したのなら、その道を明らかにし、「万人がそれぞれ一所懸命に何かに取り組んで来たら、それなりに生きていて得るものはあるのだ」、と示すべきところを端折ってしまい、一切方途を示すことがない。結論だけを実行し、それで終わってしまう。
だから読み物としては面白い。
けれど、そこに登場する人物の「光を求めるための」努力、苦しみ、喜びは、そしてその取り組む姿勢の尊さは、描かれない。あるのは秋山父子の適切な働きばかり、だ。
海音寺潮五郎が池波を「小説というものが分かっていない」と酷評した、というのは、この両者の拠って立つところが違いすぎているからだろう。
懸命に生きよう、向上しようと考える海音寺。
市井の人々の哀楽をスーパースターに裁かせる池波。
平然として死を受け入れる強さを手に入れようとする海音寺。
平然として悪人の命を奪うことで、一気に問題を解決し、大勢を助けようとする池波。
人を見上げようとする海音寺、数十メートル上から見下ろす司馬、と喩えたならば、池波は将棋盤上の人形のような人物をじっと見詰め、その行動を推理しているだけのようにも見える。
「読み物だからそれでいいのだ」と池波は思っていたのだろうか。
株屋の小僧(丁稚)として、世の中の裏表、世間の酸いも甘いも早くから知っていたため、人の生き方を金銭で量る。「情」も多くは金銭で買えるのだ、と明らめている。
だから、およそ剣術の修業者には考えられもしない筈の「商売」、を「剣客」にさせたのだろうか。
(終わり)
海音寺潮五郎は司馬遼太郎を高く買って、ことある毎に推賞したそうだが、逆に池波正太郎を認めることは遂になかったそうだ。
と言うより、嫌っていたらしいと聞いたことがある。
今、ネットで見たら、「嫌っていたというより相性が悪かったのでは」とあったが、その方が、よっぽど双方に気の毒だ、という気がする。
「嫌っていた」のなら、考え方の衝突で、ということになるから、立場が違えば当然のこと。けど、それは相手を認めているということの裏返しだと言える。
それが、「相性が悪い」となれば、これは感じ方の違い、生理的に嫌悪を「感じる」わけだ。全く理屈ではない。
で、実際のところは海音寺は、初め、ちゃんとした評をしている。それに対して、池波の方がそれらしい反応をしていれば、こんなにこじれはしなかったのでは、と思う。私のような門外漢が言うのもどうかとも思うが、稀代の頑固者二人、歩み寄ろうという気はお互い全くなかったのだろう。
戻ります。
以前に書いたことですが、従軍記者として、大刀を腰に、戦地に赴いた海音寺が、病を得て任を解かれ、郷里である鹿児島の大口に帰っていた時、の話を転載します。
~~~~~~~~~~~~~
~健康を害して、敗戦前に帰国、郷里に家族で疎開します。すると、身辺調査のために地元の警察官が来る。小説家であることを知ってから度々訪ねて来る。上がって一緒に酒を飲んだりするようになった時に、その警察官、つい本音が出た。
「戦地では軍が懸命に戦っているのに。作物をつくるでもない、それどころか、人の心を惑わすようなあまり自慢できない仕事だ、小説家などというものは。」
それを聞いた海音寺は、「何を言うか。小説家は人の心を耕し、立派な心をつくるのだ。そのために命を削っているのだ。それを知らず、戦にも行っておらん貴様に何が分かるか!とっとと帰れ!」と追い出してしまった。
以降、その警察官は二度とやって来なかったらしいが、どうも、戦地から戻った海音寺を、小説家なら共産主義者ではないかという疑いから調査に来ていたらしい、ということが後に分かったそうです。
「日本人から日本歴史の常識が失われつつある。だから、私は小説を書くことで正しい日本の姿を伝えたい」。
これが、海音寺の創作活動の柱です。
(2010・3・24の日記)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
海音寺潮五郎は「文学で人の心を耕し、立派な心をつくるのだ」と言う。「小説を書くことで、正しい日本の姿を伝えたい」とも。
これは分かりやすい。成程、池波正太郎とは対極だ。
池波正太郎の書いたものについて、先日、或る人が「人間的に言えば『濁り』が多い。上辺だけしか書いてない。どんな人間にも重みがあるのに」といった内容のコメントを下さった。
「濁りが多い」、とは、これまた言い得て妙だな、と思わされた。
秋山小兵衛の在り方は「自然なフォルム」で、「あんな生き方もいいな」と思わせる魅力のあるものではある。
けれど、書いてきたように、生真面目に懸命に剣術修業に明け暮れ、遂に奥義に達したのなら、その道を明らかにし、「万人がそれぞれ一所懸命に何かに取り組んで来たら、それなりに生きていて得るものはあるのだ」、と示すべきところを端折ってしまい、一切方途を示すことがない。結論だけを実行し、それで終わってしまう。
だから読み物としては面白い。
けれど、そこに登場する人物の「光を求めるための」努力、苦しみ、喜びは、そしてその取り組む姿勢の尊さは、描かれない。あるのは秋山父子の適切な働きばかり、だ。
海音寺潮五郎が池波を「小説というものが分かっていない」と酷評した、というのは、この両者の拠って立つところが違いすぎているからだろう。
懸命に生きよう、向上しようと考える海音寺。
市井の人々の哀楽をスーパースターに裁かせる池波。
平然として死を受け入れる強さを手に入れようとする海音寺。
平然として悪人の命を奪うことで、一気に問題を解決し、大勢を助けようとする池波。
人を見上げようとする海音寺、数十メートル上から見下ろす司馬、と喩えたならば、池波は将棋盤上の人形のような人物をじっと見詰め、その行動を推理しているだけのようにも見える。
「読み物だからそれでいいのだ」と池波は思っていたのだろうか。
株屋の小僧(丁稚)として、世の中の裏表、世間の酸いも甘いも早くから知っていたため、人の生き方を金銭で量る。「情」も多くは金銭で買えるのだ、と明らめている。
だから、およそ剣術の修業者には考えられもしない筈の「商売」、を「剣客」にさせたのだろうか。
(終わり)