CubとSRと

ただの日記

国会事故調査委員会(ぼやきくっくりさんの書き起こしから)

2020年04月09日 | 重箱の隅
2012.06/01 (Fri)

 ぼやきくっくりさんがいつものとおり、先日の関西テレビ、「アンカー」を書き起こされています。

 ニュースでも何回か流れたので、あらましはご存知だと思いますが、菅前総理の今回の答弁、いつものことながら、聞き流してしまったら、どうも耳障りな喋り方だけが記憶に残る。

 だから、
 「もっとはっきり、しっかりと言えんのか」
 くらいな感想は誰でも持つのでは、と思います。
 けど、あれを聞いて
 「何を言ってるんだ!いいかげんにしろ!」
 と、頭から湯気を立てて怒る人は滅多にいないでしょう。

 編集の妙、と言いますか、
 「まあ、あんな時は誰がやっても抜かった事ばかりになるだろうな」
 「ちゃんと陳謝してるじゃないか」
 「そうか。彼は情報が挙がらないことにイライラしてたのか」
 等の思いが残る。

 もしかしたら
 「こうやって振り返ってみると、彼が言わなきゃ『全原発停止』、なんてなかったんだよなぁ。そうしてみると、歴史に残る大きな仕事したと言えるかなぁ」 
 なんてことを、漠然と思い始めている人もいるかも・・・。

 でも、この「ぼやきくっくり」さんの、青山繁晴氏の解説の書き起こしを読まれたら、認識を改められるんじゃないでしょうか。
 ・・・・・というわけで、一部転載させていただこうと思います。
 できれば、実際に目を通されることをお勧めします。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


菅直人 前首相
「原子力事故にあたって、どのような権限が、総理大臣、あるいは本部長としてあるのかということについて、えー、詳しい説明を、総理になった以降、事故までの間に、聞いたという、そういうことは、私は覚えてる限りはありません」

委員
「総理に就任されてから、平成22年に、総合の防災訓練というものが行われていると思いますが、それに、総理は何らかの関わりをされておられたでしょうか」

菅直人 前首相
「えー、そういう機会があったということは、覚えておりますけれども、深く、その時に、特に原子力の、本部長としての権限などを、その時、認識を深くしたかといえば、必ずしも、そういう、形には、私自身、残念ながらなっておりませんでした」

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 こうやって書かれてあれば、はっきり分かります。
 「総理大臣になってから、(権限について)説明を受けたことはなかった」
 これ、ウソですね?だから婉曲に「防災訓練あったでしょう?」ということで、答えやすくしてある。そしたら
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
菅直人 前首相
「えー、そういう機会があったということは、覚えておりますけれども、深く、その時に、特に原子力の、本部長としての権限などを、その時、認識を深くしたかといえば、必ずしも、そういう、形には、私自身、残念ながらなっておりませんでした」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「訓練には参加したけれども、私は形式上の参加で、何も深くは考えなかった」、つまり、「権限のことは知らない。だから、何も考えたことがなかった。」
 こう言ってるわけです。これ、聞き流してしまって良いのでしょうか?
 この発言についての青山氏の感覚、これこそが今一番大事なことなんじゃないかなと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
青山繁晴
「これあの、あえて長めにね、そのままご紹介したんですけど、僕、今もう一回聞いてもね、この辺(胸)に熱い物が差し込まれるようなね、ショックで、もう胃が縮むような気がするんですよね。こんなひどい話はないんですよ。というのは、まずですね、その、事故にあたってどのような権限が総理にあるかについてっていうのは、これはつまり、原子力事故を含めた、要するに国家が、あるいは国民が危機に晒された時に、総理大臣の権限、つまり総理が何をしなきゃいけませんかということについて、わたしゃ、要するに知らなかったと言ってるわけですよ」

 「要するに国家が、あるいは国民が危機に晒された時に、総理大臣の権限、つまり総理が何をしなきゃいけませんかということについて、わたしゃ、要するに知らなかったと言ってるわけですよ」

 「この辺(胸)に熱い物が差し込まれるようなね~」
 これが「義憤」と呼ばれるものでしょう。
 国家国民の生死をあずかる総理大臣が「知らなかった」といけしゃあしゃあと言ってのける。それを委員も新聞、テレビ等のメディアも大して問題にもしない。よくて「自己弁護ばかり」「弁明に追われた」程度。

 これ、早い話が、青山氏、頭に血が上った、というところなんですが、「私憤」ではない証拠が、この「(胸)に熱い物が差し込まれるような~」という言葉です。
 こんな感覚。身体で、その前総理の言を
 「尋常ではない。それが一国の、国民の命を預かる者の言うことか!」
 と憤った人、マスメディアに何人いたでしょう。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
村西利恵
「すごいことですよね、これね」

青山繁晴
「ええ。で、全然、恥じずにおっしゃってるわけですよ。まるで、誰かが教えてくれなかったのが悪かったみたいな話をされてるわけですね。で、そして、さすがにその国会の事故調の委員の方も、ま、ツッコミにしてはあんまりにも弱いけれども、ね、あなたは、本当は原子力災害の総合訓練やったはずじゃないですかと、こう聞くべきですけどね、何らかの関わりありましたかって、関わりあるに決まってますよ。その、何らかの関わりありましたかって委員の方はお聞きになったけど、そんなのあるに決まってんですよ。何でかというと、ここに総合防災訓練って書いてあるんですけど、これ一昨年の10月にですね、浜岡原発で、例の問題の、菅さんが止めた浜岡原発で、原子力災害を想定した総合防災訓練やって、指揮官はこの方だったわけですよ、菅総理だったわけですね。ところが、その訓練で、原子力対策本部がこれできましたと、これ法律に基づいて作るんですが、その時の本部長は総理がやるんですが、自分がどんな権限があるのか、何をしなきゃいけないのかっていうのは、深く認識したかといえば、そうじゃないって言って、要するに訓練には形だけ出て、要するに、自分の責任は自覚しなかったってことをですよ、皆さん国会で堂々と、前総理が言うんですよ。これ、主権国家、あるいは、世界2位3位の経済力を持ってる国の総理の言うことですか。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 以外にも、
 「菅前総理は、緊急事態宣言の遅れについて、『それによって何か支障があったかと問われれば、特に支障はなかった』と答えました」

 「震災発生の翌日に、福島第一原発を視察したことについて、『現場の考え方、見方を知る上で極めて大きなことだった。吉田所長の、顔と名前が一致したことは、極めて大きなことだった』」

 『東電の武黒フェローは、原子力部長も務めた原子力のプロ中のプロだ。そういう技術的なことが分かっているはずの人が、なぜ吉田所長に「止めろ」と言ったのか、率直に言って全く理解できない』

 などの事柄についても解説されています。
 やはり、一度、実際に目を通される方が良いのではないでしょうか。



 http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1201.html

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「それが当たり前」

2020年04月09日 | 日々の暮らし
2012.06/05 (Tue)


 先日靴の中敷を買いに行った。一つしか合うのがなかったので注文した。
 五つほど欲しい、と言うと、そんなには入らないと思う、との返事。
 それじゃあ、と三つ、注文した。

 実はその前に、ネットでの注文を試みていた。けど、在庫はあと数個しかない、との表示が出る。で、同じく数を変更して注文をしたのだけれど受け付けない。
 どうも中敷などというものは邪道だから、こっそりと少量しか作らないということになっているんじゃないか、と思ったりしたが、そんなバカな。

 いずれにせよ、実際に自分で合わせてみないとどうにもならない類のもの、というのは意外に多い。この中敷というやつは靴のサイズより一センチくらい大きくないとぴったり納まらない。靴の形も影響する。

 ということで、今日、入荷予定ということだったので行ってみた。
 ところが入ってなかった。
 「もう一度、連絡をしてみますので」
 と言われ、早々に引き揚げた。

 帰りの道すがら思ったこと。
 「やっぱり田舎は不便だなあ。中敷一つ、そう簡単には手に入らない。」
 「いや、ネットでも手に入らなかったから同じか。」
 「いっそ、出雲まで行くか。あ、時計忘れて来たしなぁ。それに2、3日内に入るだろうし。足りないけど。」

 「ガイアの夜明け」という番組で便利屋のチェーン展開や、スーパーのサービス介助士なんてのをやっていた。
 高齢者が増えるにしたがって要求されるサービスも増えて来る。
 「安くて新鮮」で競争になっていたこれまでと違って今の時代、「安くて新鮮」は当然のことであって、それは競争力以前のこと。これからはそれに何かを加えて、他との差別化を図った方が良い。それで、高齢者の望むもの、高齢化社会で必要とされるサービスを追及しようと思う、というようなことをこの二社は語っていた。

 「早くて安い」は当たり前。「安くて新鮮」は当たり前。
 ・・・・・何か引っ掛かる。

 この「~は当たり前」「~は当然のこと」。
 この言葉を誰が言うか。業者が言うか、客が言うか。
 それこそ、これは業者が言って当たり前の言葉だ。「お客様は神様です」は客が言ったら、鼻白むだけだ。
 けど、言う客が増えた。それも最近は「私は客よ!」を通り越して、「私はお客様よ!」
 自分に「お」や「様」までつけて怒っている。完璧に「オレ様」だ。

 「サービスで差別化を図る」
 それは良い。業者しか使わない言葉だ。
 けど、その前の「早くて安いは当たり前」「安くて新鮮は当たり前」ってのが、何だか「客の権利」みたいな意識が生まれて来ている。いや、もう蔓延している、と言った方が良いだろうか。

 でも、本当に「早くて安いは当たり前」、「安くて新鮮は当たり前」、だろうか。

 田舎では年寄りが一人で店をやっていて、若い時はそれでも身軽に動き回っているから何とかなっていたけれど、段々にそうは行かなくなって来る。「遅いし安くもない」のが普通になってくる。
 でも、そんな店だってその土地に必要なんだから「仕方ないよ。ばあちゃん一人でやってんだから」と大事にされている。誰も「もっと営業努力しろよ」なんて言わない。街中はそうはいかない。競争相手ばかりだから嫌でも争うことになる。そこに大型店舗がやって来る。シャッター通りができてしまう。

 一体どうしたらいいのだろう。端から大店舗には敵わない。
 それで前に書いたような「差別化」という生き残り戦術になる。新しいサービスをつくるわけだ。でも、それ、田舎ではどうなんだろう。
 それの解決法がネット販売だ、ということは、既に常識になっているのかもしれない。実際、これなら田舎に居て事業として十分にやっていける。
 けど、やっぱり何か引っ掛かる。

 「顔が見えない」のだ。「息遣いが聞こえない」のだ。
 早い話、靴の中敷は、靴に合わせてみなきゃ、合うかどうか分からない。

 実にシンプルな結論が浮かんだ。簡単なことだった。
 客の求める物がなかったら、専門家として解決法を教える(他の店とか、代用品とか)。その際に「期待に応えられず、申し訳ない」、と一言添える。
 そして、ここが肝腎なところだろうけれど、それに対して客の方は、必ず一言、礼を言う。

 何故?
 「欲しいものが手に入らなかったのに?」
 でも、店の方は何も買わなかった客のために時間を割いて「解決法」という名のサービスを売っている。礼の一言は支払いだ。

 勿論そういうあり方を、今度は店の方が「それが当たり前だ」、なんて言ったらケンカになるんだけど。

 「サービス」って何なんでしょうね。
 「相手のことを思い遣る気持ち」と「サービス」って、同じではないと思っていたんですが、どうも最近の風潮を見てると・・・・。

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「何だ、それ」

2020年04月09日 | 心の持ち様
2012.05/31 (Thu)

 生活保護費のことが、結構な話題になっています。
 何でも、それを国会で話題にした片山さつき議員が目の敵にされて、理不尽にも公共の電波で、行き過ぎた軽口、というか悪口雑言の標的にされているようです。脅迫じみたこともあったように聞いています。

 あれ、採り上げたのは片山議員だけじゃないんでしょう?確か世耕議員も問題にしたんじゃないんですか?
 何故か「片山議員が最初に実名を出した。それはいくら何でも人気商売のタレントに酷じゃないか」、なんてことになってますが、本当は片山議員が最初ってわけじゃないんでしょう?

 大体が、国会議員が自分で作った情報網で以ってそんな事実を見つけ出し、議題に出す、なんてあるわけがない。
 確実な情報は週刊誌や新聞、或いは情報屋から絶対間違いのない情報をそれなりの金で買って来る。
 それであっても、一番に実名出したりしたら、下手すりゃ自身の政治生命だって危うくなる。それで、ガセネタつかまされて、辞任するしかなかった現与党の元代表や、実際に首を吊った議員だって居たでしょう。

 なのに、いつの間にか「全て片山議員が」みたいな印象になってしまった。明らかに、作為的に報道がなされている。

 私は生活保護を受けたことはないのだけれど、数年前、事情あって早くに職を離れ、収入が途絶えてしまいました。
 貯金だけで年金受給の歳まで食いつないで行かねばならない現状というのは、何とも心細いものです。
 親の年金で生活している現在、あの芸人の気持ちも少しは分かる気がします。
 人気商売というものは「気がついたら全く仕事がなくなっていた。駆け出しの頃と変わらない、年収数万円になってしまった」ということが普通にある世界だそうです。
 そうなることへの不安、強迫観念は、普通一般の生活をしている者には想像だにできないほど強いもの、と思います。
 その上に病気をして、一時期収入が激減したりしている。その恐怖は現実のものとしてますます迫って来ただろうことは、少しくらいなら想像できる。

 ・・・・・なんて書くと「お前!あんなことをする奴の肩を持つのか!」、と言われるんでしょうね、きっと。そんな気は全くないんですけどね。

 昔、小遣いをもらえなかった。小遣いを母にせがむと、「うちに余分なお金はない。けど、食べる物や着る物に不自由はさせない。学用品は買ってやる」といった内容の言葉が必ず返って来た。

 近所に住んでいた少し歳の離れた従兄弟が仕事に就き、盆や正月に帰って来ると、小遣いをくれるようになった。五百円くらいだったろうか。百円札だ。少年マガジンやサンデーが50円しなかった頃だと思う。
 もう、うれしくて、従兄弟が帰って来ると、また小遣いをくれるかな、と心待ちにするようになった。
 それが或る時、くれなかった。今年はくれないのかな、忘れてるのかな、と思いながらも口には出せず、日が過ぎ、数日間の休みが明けて従兄弟は大阪の方の仕事場に帰ってしまった。

 それを知った時、「残念!」という気持ちは全くなかった。反対にそれを心待ちにしていた自分に気が付き、当時そんな言葉は知らなかったけれど「自己嫌悪」の念に駆られた。
 何て卑しいんだ、と自分のことが情けなくて、嫌で嫌でたまらなくなった。
 この気持ちが常に「着る物も食べる物も不自由はさせない。学用品は買ってやる」と、母に言われて来たことに関係しているのは間違いないだろう。
 一言で言えば自らの「乞食根性」が情けなかったということだ。

 勝谷誠彦氏が「スッキリ!」か何かで「芸人なら弁護士と一緒に会見なんかするな!」と言っていた。
 どういうことだろう、としばらく考えた。
 頭に浮かんだのは藤山寛美の莫大な借金と、その返済生活の話だった。
 「芸人は笑わせて何ぼ」。そのためには借金だって社会的な大失敗だって何でもネタにする。そして笑い飛ばす。でも、小狡いマネをしたら人の心はあっという間に離れてしまう。

 「人気がなくなるかもしれないという強迫観念」と、全ての芸人は戦い続けているのだと思う。何も彼だけではない。人気商売、水商売はみんなそうだ。
 そんな中で、束の間の夢や笑いを売っている。だから、大儲けもするし、大損もする。

 初めに「それをうまくしのいだと思ったけど」、という隠された言葉があって、「無茶苦茶甘かったと思います」という言葉がある。
 だから、「間違っていた」という言葉はなかったし、「私事で」皆さんに迷惑をかけた、と生活保護費の出所を一顧だにしない発言になったのだし、「これからもがんばりますので」とガッツポーズを取ったりしたのだと思う。
 彼の母親も「しっかり話して来い」と言ったという。
 「何だ、それは」、と思う。「謝って来い」ではないのか。

 そして、片山議員の質問に応えて生活保護の給付金額を減らす案が厚生労働大臣から出された。
 再び「何だ、それは」、と思う。論点が違うではないか。


 これ以上書いても腹が立つばかりだから、これでやめる。
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今日の宮崎正弘氏のメールマガジンより

2020年04月09日 | 心の持ち様
2012.05/31 (Thu)

 先日ニューヨークタイムズに出されたという「反日デマ全面広告」の件について、読者子と宮崎氏のコメントが、簡潔でとても分かりやすいと思いましたので、転載させていただきます。

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
     平成24(2012)年 6月1日(金曜日)
         通巻第3668号 <前日発行>
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ♪
(読者の声1)産経新聞の古森義久さんのブログが『ニューヨーク・タイムズに反日デマ広告 』と題して更新されていました。在米韓国系の活動家が掲載したようです!日本政府はどう対応するのでしょうか? (YY生)

 (ここから古森義久氏のブログ内容)

「(引用)5月29日付のニューヨーク・タイムズの15ページに全面の意見広告が掲載されました。日本を「慰安婦問題」で不当に攻撃し、誹謗するデマ広告です。
 あえてデマと書くのは、内容が捏造、歪曲、悪意に満ちているからです。広告を出したのは韓国の新聞報道などによると、在米韓国系の活動家たちのようです。◎
 そしてこの意見広告は次のような記述を掲げています。
 原文はもちろん英語ですが、私がざっと訳してみました。
「1971年にはドイツの首相ウィリー・ブラントがポーランドのワルシャワの戦争犠牲者記念碑の前にひざまずき、許しを求めた。この行動は世界との和解へのドイツの誠実な訴えの象徴となり、世界平和に大きく貢献した。

 だが対照的に、日本政府は、第二次世界大戦中に日本軍兵士のための性的奴隷として行動することを強制された慰安婦たちに適切な謝罪をせず、適切な賠償もしていない。日本政府はドイツの行動を学ぶ必要がある。
 日本政府は慰安婦たちへの心からの謝罪を一日も早く表明しなければならない。そうしてみて初めて日本政府は北東アジアの平和に寄与することができるのだ」
「あなたは覚えていますか?」
(引用止め)

 以上が韓国系の宣伝広告ですが、ごく簡単に考えても、この記述には以下の重大な間違いがあります。
(1)ナチス・ドイツがユダヤ民族600万人を虐殺したことを日本の「慰安婦」問題と同等にみなしている。
(2)日本の政府や軍が「慰安婦」を強制的に連行したり、活動をさせたことはないとされるのに、「強制」と断定している。
(3)個人の任意による商業的活動での売春活動の従事者すべてを「セックス・スレイブ」(性的奴隷)という実態とは異なる表現で断じている。
(4)「慰安婦」となった人たちの不幸への謝罪は日本政府は「河野談話」などとして表明したのに、日本政府は謝罪していないと断じる(「適切」というひっかけ言葉に逃げる狡猾な手法)
(5)戦争関連のこの種の賠償は政府間では日韓国交樹立の際に済んでおり、さらに「慰安婦問題」ではその後の政府が支援しての民間資金で供しているのに、なにも賠償がないと断じる(ここでも「適切」という主観的な表現を巧妙に使っている)
 と、こんな調子です。
 標的とされた「日本政府」がどう対応するか。注視したいところです。

  http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/2705490/
   


(宮崎正弘のコメント)日本の保守団体がNYタイムズに広告を打とうとすると、イチャモンがつきますし、殆ど広告が打てない。ところが河村市長が南京大虐殺を否定すると、地元の中日新聞は「河村発言を支持する」意見広告の掲載を拒否しました。いやはや。小生とて編著『シナ人とは何か』の広告に関して言えば、産経新聞以外、全部広告掲載が拒否されました。
「シナ人」がタブーの由です。
 以前から指摘してきましたが、アイリス・チャンの嘘の集大成『レイプオブ南京』は古典文庫が主の「ペンギン・ブックス」に入っており、しかもNYタイムズ、ヘラルドトリビューン、そしてフィナンシャルタイムズには大きな広告が間歇的にでます。その資金は?
 つまり欧米が中国と組んでの謀略は依然として続いており、欧米は自らの侵略をごまかし、とくにアメリカは原爆と無差別空爆への批判の矛先を躱す政治目的が重なって、中国の展開している日本批判の謀略的政治宣伝に荷担するのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 在米韓国系活動家の「事実を歪曲した上で断定する」「明確な言葉を使わず、それをやって、逃げ道は確保して置く」といったやり方に乗せられたらおしまいということを古森氏が、更にニューヨークタイムズに保守団体の広告は載せられない、「シナ人」という言葉を「日本人」が使った場合に拒否をされるということなどを宮崎氏が付け足して居られます。

 あまりにも分かりやすいことばかりなんですが、大方の日本人は、そんなこと考えたことも、当然疑ったこともないんでしょうね。

 何故、慰安婦の碑をアメリカに建てるのか、というごく素朴な疑問を筆頭に、女子挺身隊は半島ではいつから慰安婦だと言い募られるようになったのか、更に根本的な知識として、本当は女子挺身隊とは何なのか、知らない日本人だって多いんじゃないでしょうか。

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明日は晴れるでしょう

2020年04月09日 | 重箱の隅
2012.05/22 (Tue)

 酔った勢いで何か書いておこうと思いました。
 でも、結局、何にもまとまらず、寝てしまいました。
 夜中、一時半ぐらいに喉が渇いて眼が覚め、もう一度寝ようとしたら、今度は頭が痛くなる。二日酔いの症状の始まりです。
 胃腸薬を服んで寝たら、今朝は何とかなったようですが、やっぱり齢です。
 で、今日、また、酔った勢いでこれを書いています。今日は大丈夫。
 手に余るような難しいことを書こうとは思ってないから。討ち死にしちゃ何にもなりません。死んで花実が咲くものか、です。どうでもいいこと、書き散らしてます。
 
 敗戦後、テレビで「天気予報」なるものが流された時、日本人はみんな喜んだそうです。それまでは、眼に見える形で、それも各地の天気まで、天気図を用いた詳しい説明なんて聞けることはなかったんですから。

 大喜びだったんだけど、少しでも学問のある人は、そこで遣われた言葉にひっくり返るくらい驚いたそうです。
 「何だ!あの物言いは!」、と。
 その言葉。それが「明日は晴れるでしょう」でした。

 「そりゃそうだ。あんな物言いはない!同感だ」という人、どれくらいいるでしょうね。
 「ん?どこが変なの??」が普通なんじゃないでしょうか。

 「です」の未然形は「でしょう」。そして「です」は連用形につく。
 そんなややこしいことを言わずとも、「でしょう」を「です」に置き換えて違和感がなければそれでよし。
 ということで「明日は晴れるでしょう」の「でしょう」を「です」に変えてみる。
 「明日は晴れるです」。おかしいか。おかしい。

 でも、これ、60年以上経った今でもやっている。誰も変だとは言わない。
 思ってたって「言葉は生きている。時代によって変わるものだ」と主張するNHKに右へ倣えのテレビ局ばかりだから、正しい物言いをしたら、化石みたいにバカにする。

 では、
 「明日は晴れるでしょう」、「明日は雨が降るでしょう」
 を正しく言ってみましょう。
 こうなります。
 「明日は晴れでしょう」又は「明日は晴れましょう」
 「明日は雨でしょう」又は「明日は雨が降りましょう」

 いかがですか?違和感、ありませんか?
 「明日は晴れでしょう」、「明日は雨でしょう」は変じゃない。「晴れ」は「晴れる」の連用形で名詞になってるし、「雨」はもともと名詞ですから違和感はない。
 けど、「明日は晴れましょう」「明日は雨が降りましょう」。
 何だか変だと思う人、多いでしょう?でも、こっちが正しい言い回しです。理にかなっている。実際私の子供の頃、年寄りはこう言ってました。
 「明日は晴れましょうなぁ」「この分なら、雨になりましょうから~」

 ちょっと気を留めて聞き、考えればすぐ納得できることでも、右から左へと受け流し、考えることなく「我が意を得たり!」、「ワシもそう思う!」とやっていると、「感じ方」が染み付いて、大変です。

 国会討論を聞いていました。
 自民党の町村氏、道理を説いていました。ちゃんと「道理」、でした。故竹下総理の弟、竹下亘議員も、訥々とながら、
 「どんな税でも導入時には、国民から見れば全て悪法だ。だから、国民の気持ちをよく分かろうとしなければならない。総理。あなたは『どの政権であってもやるべきことはやらなければならない』、と言うが、それは国会内で言うべき言葉で、国民に向かって言うべきことではない。それは国民の気持ちを全く考えない態度だ」
 と、これまた、道理を説いていました。

 それらに対して、総理、財務大臣、副総理が答弁します。言を左右にして、というやつでした。でも、拍手が起こりました。
 拍手が起きると、私のように台所仕事などをしながら聞いているだけ、の者からすると、何か随分と立派な答弁があったかのように錯覚してしまいます。
 その瞬間を録画していて、「え?どんな立派な答弁をしたんだろう」と、野次馬根性全開できっちり見直し、「なあんだ、いつものやらせの拍手か」と笑うような意地の悪い聞き方をする人は、あまりいないでしょう。疑問を持っても、精々翌朝の新聞やテレビで確認するだけです。

 ということは、理を説く野党の質問は新聞社がまとめてしまい、テレビはテレビでナレーションでまとめてしまい、拍手はきっちり流す。印象の変わることはありません。

 ちょっと気を留めて考えてみる。
 簡単そうでいて、でもなかなかできないことではありますが、テレビのアンケートなんかで「誰に総理大臣になって欲しいか」なんてのに答えるよりはよっぽど意味のあることと思います。
 考えることの結果が、「どんな国政を望むのか」につながり、その次には「誰に」でなく「どんな人に総理大臣をやって欲しい」となる筈ですから。
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