CubとSRと

ただの日記

「子供の楽園(itと子宝)」(後)

2020年04月23日 | 重箱の隅
2010.09/01 (Wed)

 「赤ん坊に対する形から、社会の形を考えてみる」
なんて、大上段に振りかぶったわけですが、内容はお粗末かもしれません。(なんて、いつものことなんですけど)

 いくつかの手掛かりしかないのですが、いつもどおりの推量をしてみます。

 さて、日本の子育てについてですが、イザベラ・バードは
「日本では子供は叱られない。何をしても許される。泣けば大人が飛んで来て、すぐにあやしはじめる。自分の子供に対してだけではなく、全ての子供に対して、日本人はそうする。子供はまるで、国王か主人のようであり、宝物のように扱われる。実際、『子宝』という言葉があるくらいだ」
と、書いています。

 数十年前の英国では、子供はバスでは立っているもの、だったそうです。座ると叱られる。イザベラ・バードの昔と同じようですね、根本は。

 この話をちゃんとするならば、またまた、何回かに分けて書かなければ、間に合いそうにありません。
 「子供の楽園」という言葉の真偽を考えるためには、その「楽園」と、現実の社会が、早い話、違和感なく、重なるか否か、を見ればよいかと思います。
 イザベラ・バードの場合は、「子供の楽園」とする日本人の子供への応対と、「その中で育てられて来た筈の、日本人の営む社会」が、どうしても重なって見えなかった。
 「あれだけ甘やかされて、やりたい放題をしている子供が、一体どこで、この行儀の良い、何一つ文句のつけようのない、道徳的な日本人になるのか。一体いつの間に、どこで躾けられているのか。」
 逆に、それが分からなかったため、自分には理解出来ない、と判断。
 何よりも自身は「旅行記作家である」と、事実を丹念に書き留め、判断は読者に委ねようとした。
 それでも、疑念は持ったままだったので、全体を通して見れば解決出来ない苛立ちが、好感のみに撤し切れない文章に垣間見える。
 イザベラ・バードの場合は、赤ん坊への応対と、現実の日本社会の在りようとが、重ねられなかった、と書きましたが、でも、現実問題、当時の日本は、そのどちらもが当たり前のことでした。

 謎解きをするためには、「赤ん坊はいかにして育ち、社会の一員である大人へと育っていくか」という過程を見なければなりません。
 A、「社会の一員となれるように育てる」(方針、決意)
 B、「育てたら、社会の一員となる」 (さだめ)
 かなり乱暴ですが、Aの方は欧米型です。人が営々として築き上げて来た社会、が、厳として存在する中に「参加出来る」ように、というのが、こちらの育て方。
 それに対して、Bの方はアジア型。みんなで可愛がっていたら大きくなる。大きくなったら、当然のこととして社会の中に入る。社会は最初から在って、参加するのは当然のこと、と考える。
 日本は間違いなくBです。中には、「大きくなって困るといけないから」、と特別、厳しく育てる家庭もありますが、それでも家庭まで、で、基本的にはBです。

 やっと、人間の育ち方です。これをはっきりさせれば、大体は分かりそうです。
 「人」は、「(人間)社会」の中に、赤ん坊として生まれた瞬間から、「人間」として扱われます。生まれた瞬間から、全面的に社会の一員として、認められます。
 つまり、人は社会の中に「人間」として生まれるのです。
 「人間」として生まれ、「人間」として育ち、「人間」として、社会に積極的に(意図的に)参加し、「社会を営む一員」として、又、「社会を変化、発展させる一員」として、社会の中で生活します。
 「ヒト」という生物としてではなく、初めっから「(人間)社会」という、特殊な環境の中で生きることが決まっている、「人間」という意図的存在として生まれて来ます。
 だから、生まれた瞬間から(生まれる前から「学習」は始まっていますが)、「教育」、という人間独自の「学習」が始められます。

 以前に、「良い子の60年安保」と題した日記で、赤ん坊の感情形成について、少し書きましたので見て頂ければ助かります。
 ・・・・・・・・・・ 
 生まれた瞬間、外気の冷たさにびっくりし、全身に力を入れ、力を抜いた瞬間、今度は冷たい空気を吸い込んでしまう(体内に入る)ほぼ、一瞬の二つの衝撃に赤ん坊は驚いて、再び全身に力を入れる。この時、あげる声が、産声です、と書きました。「びっくり」したわけです。
 この「びっくり」は、次からは「不快」に変わります。
 そして、身体をきれいに洗われ、空気(呼吸)にも慣れて、疲れて眠る頃、「快」の感情を覚えます。(覚える。解する)
 「快」と「不快」の感情は、段々に分化して行きます。

 そこまでの間、例えば、産まれた瞬間、赤ん坊を取り上げるのは誰でしょうか。母親ではない。イザベラ・バードの頃は、日本では産婆さんか、身内の誰か、です。赤ん坊をきれいに洗う(産湯を使う)、拭く、の作業も母親ではない。きれいになって、産衣を着せられ、初めて母親の胸に抱かれる。
 以降、母親に限らず、色々な人がやって来て、その全てが笑顔で赤ん坊に接する。まだ、「見る」という意図的な行動ができず、「見える」段階でしかない赤ん坊なのに、です。
 こうやって、赤ん坊を取り巻く環境は、初め、笑顔だけです。そして、その笑顔は、常に、赤ん坊のために良かれと思う行動と共にある。
 赤ん坊は、ここで、周囲の人々は全て自分を見ていて、自分の喜ぶことだけをしてくれる、と学習します。(勿論擦れ違いはあります)
 学習の一つに、「言葉」という名の音声があります。繰り返されるうちに、それを、決まりとして、一つずつ覚えて行きます。

 一気に生まれてから三年間ぐらいを書きましたが、今回のこの文の、初めの方で、
「赤ん坊が泣くと、大人が飛んできて、あやし始める。自分の子に対してだけでなく、全ての子に対して、そうである」と書きました。
 この小さな時に、赤ん坊に対して、大人(周囲)が採った行動は「子供を甘やかす」ことではない。勿論、「やりたい放題をさせる」ことでもない。
 子供からすると、「自分を見て、可愛がってくれている」安心させてくれる存在であり、「分からないでやっていることを直してくれる」存在、全面的に信頼できて、助けてくれる存在。それが大人なのだと学習しているのです。
 他者を信じ、力を併せて何かに取り組む、ということが自然にできる民族。
 日本人は、こういう環境の中で育つからこそ、自然に、何一つ文句のつけようのない社会を「継承」し続けて来た、と言えます。

 全てを安心して委ねられる環境の中で、育ち、大きくなった者が、突然
「他人は他人。自分は自分」「言わなきゃ何も伝わらない」、という考え方に目覚める、ということは、普通には考えられないわけです。

 「全てが自分を肯定し、受け入れてくれる」、中に「育つ」のが日本の子供で、
 「言葉が分からないうちからでも、社会に参加する一員としての学習はできる」、と躾けることの重要性を立てる中で「育てられる」のが、欧米の子供です。

 双方とも、(人間)社会の一員、として子供を捉えてはいるものの、社会全体で「自覚すること」を教えようとする欧米と、「信頼・協力」を教える日本。

 イザベラ・バードの「楽園」という表現は、女史の意図するところと違って、本当に、言葉通り「世界一の子供の楽園」日本、と捉えるべきでしょう。

 ただ、日本が「子供の楽園」であったのは、明治時代辺りまでだったようですが。

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「子供の楽園(itと子宝)」(前)

2020年04月23日 | 重箱の隅
2010.08/30 (Mon)

 「ぼやきくっくり」、というブログがあります。関西の一主婦、ということですが、青山繁晴氏の、「アンカー」での時事解説を、毎週、放送日の翌日には文字起こしされています。これは、GJ。とても助かります。

 動画の臨場感はなくとも、一言一句、もらすことなく書き留められているので、気になるときはじっくりと、時間のないときは流し読み(誠に、申しわけない、と思ってるんですよ、ホント)で、随分と勉強させてもらっています。御存知の通り、青山氏のコーナー、相当な分量ですよ、文章にすると。

 ブログの題名どおり「ぼやき」もあり、豆知識もあり、と硬軟取り混ぜてあるわけですが、何よりも、その読書量がすごい。
 「へえ~、そんなのもあるんだ」、というものから、近代史を中心に、でも、時には万葉集も採り上げられていたり、と、本当に圧倒されるような内容のブログ、なんです。
 なのに、圧倒、威圧感がないのは、その姿勢と、軽妙な文章のせいなんでしょうね。

 http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid707.html

 おっと、ブログ評をしている場合じゃなかった。
 今回は、その中で何回かに分けて採り上げられていた、イザベラ・バードの「旅行記」から、です。(明治期の女性です)

 これまでにも何度か、名前だけはこの日記にも書きました。(お気づきの通り、全て、「ぼやきくっくり」さんのブログで知ったことです。)

 今でも、すぐに思い出すのは、彼女の描写する、朝鮮社会のひどさ。
 そして、日本の素晴らしさ。何かにつけて日本と朝鮮は両極端で、それも、悪いのは全て朝鮮、良いのは日本。(一つだけある例外は後に)
 何か日本から賄賂でも?と思うくらいの褒めようです。勿論、捏造、偽りの記事などはないんですよ。また、大袈裟に誇張しているわけでもない。
 ただ淡々と事実を伝える「旅行記」です。
 書いてあるのは「事実」。イザベラ・バードの、見聞したことです。
 結果、両国は信じ難いほどの両極端の存在として、読者の目に映ります。(日本には明治11年~、朝鮮には明治27年~に訪れています。)

 例えば、朝鮮は中心地である南大門近辺でも、貧しく、汚い。我も我もという風に道路上に粗末な藁葺きの家が押し出している。
 けれど、日本はどんな田舎に行っても、信じられないくらい清潔な家で、貧しくはあっても、汚れた顔、服装の者は、いない。
 朝鮮では外国人を見ると、珍しがって、大勢で寄って来て髪や服を引っ張ったりする。ピン止めを取ってみたり帽子を取り上げてかぶり、大笑いをしたり、持ち物をべたべた触るし、いじりまわす。揚げ句、持って行こうとする者までいるから、目が離せない。嚇さなければ離れないから、これ見よがしに、銃の手入れをするよう、提案までされた。
 日本では、寄って来ても行儀がよく、持ち物に触ることなんて全くないし、盗って行くなんてことは、決してしない。静かに好奇の目で見ているだけだ。
 頭がよく、道徳的で、こんな民族が存在することは奇蹟に近い(そこまでは言ってない。けど、ニアミス、です)
 何より「子供を可愛がること」、「子供を大事にすること」では、日本以上の国は地球上にないのではないか、とまで書いている。
 「ニッポンは、子供にとって楽園だ」、と。

 けれど、イザベラ・バードは、日本より、朝鮮の方が好きなんだそうです。
 ここまで書いたことから、「なるほど。さもありなん」という結論を導き出した人、そんな人なら、将来の「日本の在るべき姿」を描けるんじゃないでしょうか。

 この、イザベラ・バードの旅行記、日本について書かれているものの中で、特に注目したいのが、「子供にとって楽園である」、という一言です。
 女史は「可愛がり過ぎる」、「決して叱らない」とも書いていて、それなら、「子供にとって天国みたいなところだ」、と上記の結論を導き出している。

 ということは、この、「子供にとって楽園である」という言葉には些か以上に、批判的な色が漂っている、ということです。決して、褒めているわけではない。
 この言葉の裏には、「子供は可愛がり過ぎてはいけない」、「言葉が分からない時分でも、叱るべきである」という考え方があります。

 どなたかの日記に、「英国では、言葉の分からない赤ん坊を指す時、小動物と同じ扱いで、『it』というのだ」とありました。

 この二点から察するに、女史は「赤ん坊は愛玩動物と同じく、躾をしなければ我儘に育ってしまう」、「愛玩動物と同じく、言葉は分からずとも、語調で、叱られているのは分かるのだから、叱らねばならない」と思っているのが分かります。
 だから、「可愛がり過ぎると我儘になる」、「言葉を解さないうちから、しっかりと躾けるために叱りつける」、という英国人の物の見方から、子供にとっての、日本社会の在りようを評価する。
 つまり、「日本の子育ては、間違っているのではないか」と考えている。
 しかし、旅行記作家。それ以上は踏み込まず、旅行記は事実の記述に撤しています。見事なプロ意識。

 ところで、日本の子育てに対して(感情的には)批判的な目を向ける女史は、それなら日本社会をどう見ていたか。
 これまで書いた通りで、欠点を見つけ出せないくらいに、立派なんです、日本は。
 あの子育てが、どうしてこんな日本社会をつくるのか。その理由が分からない。日本の社会は彼女の「理解能力の範囲」を越えている、ということになります。
 対して、朝鮮はどうでしょうか。
 顔も洗わない、服、髪は汚れ放題、子供は言うまでもなく、大人だって、行儀も何もあったもんじゃない。大声で喋り、笑い、下品である。
 「両班」と称する貴族階級がいるけれども、服装はともかく、後は大して変わらない。それどころか、差別意識の塊で、物を持つ、と言えば、煙管(きせる)一本が精々で、働きもせず、欲しい物は下の者から取り上げ、一向に返そうともせず、恬として恥入る様子もない。、散々な書きよう。
 そんな「両班」は嫌いだけれども、他の朝鮮人は好きだというのです。
 他に、国境を越えて、満洲に住んでいる朝鮮人は、同じ民族だとは思えないくらい勤勉で、道徳的である、とも評しています。
 叱られたら小さくなり、気を許せば、べたべたと寄って来る。
 でも、頭が悪いのではなく、それどころか、語学を学ぶ力(主に英語)は、アジアの民族の中では、傑出しており、これに関しては、日本人は最も劣る、と。(主に発音と、会話能力のようです。これまた、さもありなん)

 「ちゃんと躾をされれば、頭の良い、人なつっこい朝鮮人は我々の役に立つ。しかし、何も言うことのない(何一つ文句のつけようもない)日本人は、何を考えているのか分からないところがある。」
 イザベラ・バードは両国を、こう分析したようです。
 「朝鮮人が好きだ」と言っても、色々意味合いは、ある、というわけです。
 彼女の頭には、やはり、(当然というべきか)有色人種に対する、拭い難い差別意識(、というより蔑視?)がある、と言えるでしょう。
 そして、「日本人は、アジアの民族の中では、例外的存在である」、と彼女の理性は判断した。

 まあ、それはそれ、として、女史の文章(くっくりさんのところで、見ただけですが)を読んで、思いもしなかった「外国人の視点からの日本」を知ることができたのは、大収穫でした。

 さて、では、イザベラ・バードの、「子供の楽園」、は正しい捉え方か、また、「it」と捉える英国と、「子宝」と捉える日本の違いは、どのような「社会の違い」を現出させるか、について、次回は考えてみようと思います。

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「孔子の覚悟」⑦

2020年04月23日 | 心の持ち様
2010.08/21 (Sat)

 やっと、最終回になりました。
 要領を得ないことで、随分と時間がかかり、申し訳のないことでした。
 「自分独自の方法で、世界をつかむ研究を始め、捉え方をみつけ、捉え方を試してみて、見える世界は確実に把握できるようになったけれど、見えない世界はやっと六十になってから。他人のことならいざ知らず、自身のこととなると、七十までかかった。」

 とんでもないことを、実に冷静に、簡潔に、そしてちょっぴり納得、の自慢も入れて話す。やっぱり、聖人と言われるだけのことはある。

 長々とこんなことを書いている間に、
 「池上彰氏のニュース解説に対する批判」
 「総理大臣を始め、閣僚が誰一人15日に参拝しないこと」
 「戦没者追悼式で、外国に謝罪するかのような場違い発言」
 「細川(護熙)前総理の、韓国を植民地にした、という認識」
 など、引っ掛かることが次々と出て来ました。
 正直なところ、一つ一つ、ああだこうだ、と、赤提灯談義をしてみたいという、気持ちはあります。
 けれど、努力してない人間のことをとやかく言ったって、ちっとも生産的ではない。
 努力をしていない人間が、努力をしていない人間をいくら批判したって、時間とアルコールの無駄。そんな不味い肴で、身銭切って酒飲むなんて、それこそ「勿体ない」。
 そんなことなら、噛み応えがあり過ぎて、いや、撥ね返されると分かっていても、努力した人、努力し続けた人、「才能」、「天才」なんか超越してしまっている人に、ぶつかっていく方がよっぽど良かろう、と思って、ここまで書きました。

 次々と出て来る、日本を破壊しようとするつもりにしか見えない各種の政策、政府の行動。これを何とかするために、まず、何とかしなければならないのは、そんな代議士を選んだ、我が日本国民です。
 官僚が諸悪の根源みたいに言われるけれど、彼等は「公僕」という言葉の意味ぐらい、十分に知って居ます。
 そして、この優秀な人材である官僚は、やっぱり我々と同じ教育を受け、現在に至っています。我々の価値観と、彼等の価値観が、宇宙人ほども違っているのでしょうか。そんな筈はない。
 彼等も、我々と同じく戦後教育を受けた、ちょっと左がかった我が日本国民。
 彼等を何とかしようと思ったら、それは「血の粛清」しかないかもしれませんよ。
 それを実行するとしたら、その瞬間から、日本は「光り輝く日本」ではなくなります。
 実行したら、日本は世界一の高貴な歴史を閉じることになります。

 我々は、同じ日本国民として、まず我々が「才能」を超越した、日本人の典型的な形、「常に、内には謙虚、外には思い遣りを以って努力し続ける人間として生きること」を意識すべきではないでしょうか。
 「孔子は韓国人なんだ」とか「剣道は韓国が起源だ」とか言っています。
 韓国だけではない。大陸では、「批林批孔」、と「現代の焚書坑儒」でもやりそうな勢いだったシナが、今、「我が国が世界に誇る聖人」、と、孔子の名前を冠した学校を、世界中につくっています。
 彼等を批判したり貶したりしている暇はない。「才能」を超越した「日本人の生き方」とは、身内自慢をすることではありません。
 たとえば、孔子のことなら、その偉さを見究め、習うことです。名前だけ使って、人気取りをすることではありません。
 我々は、孔子の偉さを、一センチでも、一ミリでも、深く捉え、我がものにしていく。それが日本人です。
 孔子の生き方を手本としても、「偉さを見究め、習う。努力し続ける」ことを実際の手立てとするならば、それは日本人の典型的な生き方です。
 そして、手に入れたものはいずれ、日本人みんなのものになる。損得、やったやらない、賠償、補償、などという姑息な話ではない。
 日本は、そうやって謙虚に取り組み、ここまで発展してきた。二千数百年の歴史の糸は、そうやって紡がれて来た。

 今、政府は目先のことを、付け焼刃で、その場しのぎでやっていこうとしていますから、しばらくは強烈な逆境に居ることになります。耐えるしか、ないと思います。
 けど、「付け焼刃」も、「その場しのぎ」も、「他国を真似たやり方」も、これまで紡いで来た「日本の在り方」では、ない。強引な接ぎ木でしか、ない。
 やっぱり、我々には「内に謙虚、外に思い遣り」、そして、心は常に「努力を重ねる」。これしかない、と思います。

 我々は孔子の教えを我がものにする素養を、日本の歴史の中に醸成して、持っています。後は、我々一人ひとりの努力次第。

 あ、初めの方で、「儒家は能天気に見える」と書きましたが、そんなものじゃないんだな、と思い直していただけますか?
 やっぱり問題は「各人の心である」、と。やっぱり儒家は残るだけのことはある、と。
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「孔子の覚悟」⑥

2020年04月23日 | 心の持ち様
2010.08/21 (Sat)

 思いの外、長々と喋ってしまいました。
 「もう、うんざり」、なんて言わず、もうちょっとお付き合い下さい。

 最後は「七十にして心の欲するところに従ひて矩(のり)を越ゑず」
 「七十になって(やっと)意(おもい)のままに行動しても、理(定規、定見)から外れることがなくなった」
 思ったまま行動しても、人の世にはずれることをしなくなった。

 以前には、何だか後になるに従って、歳を重ねるに従って、至る境地が大したことでなくなってきている、というか、初めの方は大きくワンステップ、ツーステップ、とバージョンアップしてきたようなのに、齢をとるに連れて段差が小さくなって来ているような気がしていたことを思い出しています。

 けれど、本当にそうなのか。
 齢をとると、ほんのちょっとしたことでも、えらく自慢するようになる?
 「わしの若いときはなあ~」と言うのは分かりますよ。明らかに自慢です。
 けど、七十代になって、これが、七十代の自慢だとしたら、それまでのことは、もっと大きいもの(大風呂敷)でなければつながらない。

 私は「控えめな自慢が入っている」と書きました。揺るぎない自信があるから、とも書きました。しかし、孔子自身、後になるにつれて「段差が小さくなっている。向上の幅が小さくなっている」と思ったら、これまでと同様に自慢ができるものなのだろうか、と思います。
 少なくとも、これまでと同じ位のステップアップ、揺るぎない自信があるなら、後になるに連れて手ごたえは更に強くなり、段差は高齢になるほど大きい。例えば十五歳から三十歳へのステップを10センチとしたら、三十から四十へは15センチ、四十から五十へは30センチ、と段差は大きくなり、それに連れて視界は急激に広がっているのでは、と思うのです。
 大袈裟かもしれませんが、六十から七十へとなると、段差は一メートルも二メートルもあったのではないか、とまで思います。

 傍目から見れば、大したことではないかもしれない。
 実際、老人が駆け足をしていたら、周囲の者は「若いねえ、元気だねえ」と言うでしょう。けれど、子供が駆け足をしているのを見ると当然、と思うし、時には「もっと元気よくできないかな」と思ったりもする。
 こんな風に、肉体的な若さ、老い、というものは誰にでも見えますが、頭の中は違う。
 頭の中は言ってみれば職人の技術のようなものです。その専門分野について修練をすればするほど向上を続けること、肉体の鍛錬とはだいぶ様子が違います。

 頭の中は見えない。
 全く新しい学問を打ち立てようとした孔子が三十で自説(学問の形)を立て、四十にして確信を持つに至り、五十で人の生きる意味を知り、六十で人の言うことが分かる(的確に捉えられる)ようになり、となって、七十でやっと自分を「理」のままに動く存在にすることができた、と言う。
 名人と言われる職人の作品を、若い時の物と晩年の最新作と二つ置き、見比べた時、名人はたちどころにそれを見分けられるけれど、素人はそうはいかない。どころか、却って若い時の物の方が粗削りだけれど才気走っていて面白い、と思ったりする。
 名人は自身の若い時の物を見て、「てんでなってない」と酷評する。時には「我慢がならないくらい傲慢な作品だ」と言ったりします。自身の物なら分からぬでもありませんが、他人の物であっても遠慮会釈なし、です。
 見る目が全く違っているからなんでしょう。

 「心のレベル」「境地」などと言われる目に見えないものは、一挙手一投足からしか、又はその人の作品を通してみるしか捉えることはできません。
 「心の欲するところに従ひて矩を越ゑず」
 七十になってやっとできたこと。そして、言ってみれば「孔子の一途な一生の集大成」とも言える、七十代にして、やっとできたこと。

 何のために勉強をするのか。
 「十有五」にして学に志した時の孔子、というのは、ただのとてつもなく大きな野望を抱いた若者、でしかなかったかもしれません。
 けれど、その野望の大きさ、「学問で国の治め方を、人の世の治め方を、世界の治め方を」と言うのは、それに見合った人をつくる、と見えます。

 我々も、やっぱり「才能」という言葉をつい気にするし、「英才だ」「秀才だ」、と言われてうれしくない人はないでしょう。
 「天才だ!」なんて心底から言われたら、うれしくて寝られなくなったりするかも知れない。(経験がないので想像ですが。)
 けれどこの孔子の一生を見ると、何だかそんなのどうでもいいことなんじゃないかな、という気になります。

 志がとてつもなく大きくて、あきらめることなく、一つことを一途に見詰め、追求していき、「目鼻がついたかな」と思った時に、少しも気を緩めることなく、実験(実践)に励む。
 十年もかけて、目鼻がしっかりと見えるようになってからも、更に追求に努め、世界の心柱を見つけ、人の精神世界を見つけ、最後には、自身の精神世界でさえ分かってしまう。

 「才能」という言葉で解くには、「才能」という言葉は軽すぎる。
 そんな気がします。
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「孔子の覚悟」⑤

2020年04月23日 | 心の持ち様
2010.08/20 (Fri)

 「六十にして耳順(したが)ふ」
 「六十になって、やっと他人の言うことを(先入観なしに)聞けるようになった。」

 こう習いました。これもまた「?」と思う。
 これじゃ「好いお爺さんになりました」と言っているようなものです。
 「十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑はず、五十にして天命を知る」

 こんな大変なことをやってきた人が、六十までは、つい、先入観で物を見聞きしてきた、ということになります。ということは、「時には聞かなかった」ということであり、聞けなかったことも多々ある、と。
 「五十にして天命を知った」ほどの人間が、それから、十年もかかって「耳順う」?
 有り得ない。恥ずかしくって口にできるわけがない。「私はこの程度なんです」?
 まさか!
 天命以前に、不惑の説明だって出来ない。この一言の捉え方次第で、孔子の人格はボロボロになってしまう。

 感情的になるのはここまでにして。
 「耳順う、と言っても、我々とは違うよ。孔子のレベルはそんな低くはないだろう」と言って欲しい。そして、もうちょっと考えて欲しい。ここにも、我々が学び取れる何かがある。

 「耳順う」の真意把握のヒントではないか、と思う話です。
 或る小国に採用された弟子を訪ねて行った時、街中から音楽が聞こえてきた。それも、一ヶ所ではない。そこかしこから、人々が楽しそうに楽器を奏でているのが聞こえる。合奏もしている。
 孔子が弟子に「音楽がよく聞こえるな」と話し掛けると、「先生の仰るとおり、礼楽で国を治めようとしております」と、生真面目な弟子は応える。
 音楽の奨励策をとっているのが、ここから分かります。

 すると、孔子は
 「こんな小さな国で、そこまでやらぬでも良かろうに」とからかいます。
 すると弟子は
 「先生。国を治めるのは仁の心で、みな同じであると教わりました。礼楽も、国の大小ではない、と思います」と反論する。一所懸命なのが目に見えるようです。
 孔子はからかったのですが、この反論に
 「これは私が悪かった。そうだな、お前の言うとおりだ」
と言った、とあります。

 からかった理由は、見当がつきます。
 あまり力を入れ過ぎて、形式だけになって倒れちゃ、何にもならないぞ、という師の思い遣りです。
 対して、その心遣いに気がつかなかった弟子は、教えを守って懸命にやっているのに、と一所懸命に抗議する。

 孔子は、抗議を想定していたからからこそ、すぐ、「これは悪かった」と弟子に謝る。「耳順う」の中身は、これではないでしょうか。
 「先入観なしに聞ける」とはどういうことか。
 実は、現実の「先入観なしに聞ける」という言葉自体ではなく、「結果、どうなるか」ということが大事なのではないでしょうか。
 「(先入観なしに)素直に聞けるようになった。で、何がどうなるというのか?」です。それが、この弟子との会話。

 最初の一言を聞いた瞬間、「この人は、どういう物の考え方をして、今は、どういうことを意図しているのか」、が分かってしまう。
 「耳順う」は、それを言っているのではないか。

 五十で天命を知った。その天命が「人の本当の生き方」ならば、「六十で耳順う」、は、自身のこととして、順当な精神の発展上のことではないか。
 
 三十、四十、五十と、孔子のやったことに対する評価は、自身の控えめな自慢が入っています。大言壮語を口にする人ではないのですから、控えめにでも自慢をするというのは、揺るぎない自信があるからです。
 しかし、孔子が控えめに自慢しているから、といって、それに学ぶ者が額面どおり受け取ったって、勉強の意味がない。
 神棚に祀り上げるわけではないけれども、本当は、どれだけの大仕事を(現実面でも、精神の成長面でも)したのか、と考えると、まずは大きく捉えるべきです。
 
 「一言聞いた瞬間に、相手の考えていることが分かるようになった。」
 これまでの道程を見れば、ちっとも不自然ではないでしょう。

 世界を捉え、相手を捉えることができたら、最後はいよいよ自分を捉えることになります。
 学び、問い、を繰り返し、最後の最後に捉えるのは自分自身。「哲学」というものの在り方、そのものの、道程です。

 (そうやってみると、「我思う。故に我あり」ってすごい言葉ですね。)

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