2011.07/26 (Tue)
いきなり変なことを書きますが、「蜜蜂は、本当は空を飛べないのだ」と聞いたことがあります。
あの身体の大きさに対するに、あの羽根は小さ過ぎる。高速で羽根を動かしても十分な揚力は得られないのだ、とか。
では、何であのように飛んでいるのか、というと「根性だ」、と。
勿論、これは冗談です。「根性」とは、人間の作り上げた「認識」の一つの形なのですから、他の生き物にはありません。
解明できていないから、こう言うことで、その場の無駄な緊張感を取り除く。
無駄な緊張は、何かにつけて、あまり良い結果を生みませんから。まずは、閉塞感をなくす。
しかし、「危険(危うさ)」というものは、何にでもついて回るもの。科学者にもついて回る。当然聞くだけの一般人、素人にもついて回る。
「根性だ」と、その場の緊張を解(ほぐ)しながらも、研究を続けるのが科学、いや学問の常道であるべきです。でなければ人類の進歩なんて、ない。
学者が本心から「根性だ」なんて思っていたら、その学者は終わり、です。
問題解決のために、果てしなく「学び問う」。それが学者です。
これは一方の話。学問に取り組む人の当然の在り方です。
ここには、だから厭世思想、厭世観の入り込む隙はない。
「今を見据える」ことは「諦観(ていかん・たいかん)」ではあっても、それは「現時点では諦める」ということで、そのまま、「その場を明らめる」だけ。
「放棄」を意味する「厭」ではない。
考えることを放棄するということではありません。
もう一方。
「では何で飛んでいるのか。それは根性だ」
と聞いた一般の人々の応対です。
「ふざけるな!分からないなら分からないと言え!」
と怒り出す人。
「わははは。いや、そりゃ面白い!」
と言う人。
「へえ~っ、そうなのか!」
と言う人。
それこそ、色々に反応します。
でも、怒り出す人も、笑い出す人も
「そうか、まだ解明されていないんだな」
と、了解はしたわけです。はっきり言え!と怒り出すか、お茶目だなあ、と笑いだすか、の表現に違いはありますが、了解したことは一緒。
問題は「へえ~、そうなのか」と思った人。
「そうか。そんなこともあるんだ。自然は奥が深いんだなあ。」
なんて。
彼の頭の中には「蜜蜂は根性で飛ぶ」という「正解(たった一つの解)」が刻み込まれる。
「それがどうした?ちっちゃな冗談も許さないのか!」
って、眉間に皺寄せないで下さいよ。ちっちゃなことです。
素直な、疑うことをしない人はこっちに向かう。ところが、これは、「理のない考え」「無理」な道筋です。
一事が万事。
この「ちっちゃな無理」を疑いなく受け入れる姿勢の先には、何があるのか。
当然「地獄」です。「地獄」とは、理のない世界のことです。
「こうすればこうなる」、「こうなって欲しい」、が存在しない世界。
「蜜蜂は根性で飛ぶ」
とても面白い『表現』ではあるけれど、『見解』ではない。(根性は認識であって、理ではない)
こう書いたら、今度は「そんなこと、知っとるわい!」という人も出て来る。
しかし、この区別、本当にちゃんとしているのでしょうか?
「面白い表現」でしかないのに、「面白い見解」としていないでしょうか?
「蜜蜂は根性で飛ぶのではない。飛ぶべくして飛ぶのだ。しかし、我々はその道理を未だ解明してはいない。」
そう言ってしまえば済むことを、敢えて緊張を解すために「根性」などと言う。
これだって文化です。
しかし、だからといって「表現」と「見解」を同じものだと言っているわけではない。
我々は、蜜蜂が何故飛べるのか分からない。専門の科学者だって「未だ」分からない。
けれど、我々は普通に飛んでいる昆虫とは明らかに違う何かがあるんだろうなと感じ取る(看取する)素養は持っています。
政治を見るのも原発を見るのも基本的には同じ。社会の中の存在なのですから。社会の仕組みの中での「見解」から「解明」に向かえる筈です。
専門家にも分からないことがまだまだ「ある」。同時に専門家でなくとも「分からない」「おかしい」くらいは分かる。
と、なれば、ちょっと意識してみれば、素養はあるのですから、
「今の政治が何だかおかしい」、ということは、容易く看取できる。
「原発、とにかく再稼動させない。みんな廃止だ!節電だ!」というのも、ちょっと意識してみれば、素養はあるのですから、「いきなり脱原発」、には道理がない、ということも容易に看取できる筈です。
身の回りには、こんなことがいくらでもあります。
「面白い表現」と「面白い見解」は全く違うものです。
しかし、テレビを、新聞を、意識して見て下さい。意図的か?と思うほど、これを混同させて使っていますから。
その結果が
「私の顔を見たくなかったら、この法案を通せ」
という、とんでもない発言でした。
そして、それを歓声と拍手で迎えることを、変だと思わない人々。新聞や有識者、野党の一部政治家は
「脅迫だ。恐喝したのと同じだ」
と、批判しました。
しかし、
「理屈に合わない、筋の通らぬことを一国の総理が!」
と憤った例を、寡聞にして私は知りません。
日本人に、日本人の素養はなくなってしまったのでしょうか。
さて、あなたは、この「顔を見たくなかったら」発言に腹が立ちましたか?
それとも・・・・・。
追伸
腹が立った方。
その理由を書き留めてみることをお勧めします。
つい笑ってしまった方。
同じように、その理由を書き留めることをお勧めします。
いきなり変なことを書きますが、「蜜蜂は、本当は空を飛べないのだ」と聞いたことがあります。
あの身体の大きさに対するに、あの羽根は小さ過ぎる。高速で羽根を動かしても十分な揚力は得られないのだ、とか。
では、何であのように飛んでいるのか、というと「根性だ」、と。
勿論、これは冗談です。「根性」とは、人間の作り上げた「認識」の一つの形なのですから、他の生き物にはありません。
解明できていないから、こう言うことで、その場の無駄な緊張感を取り除く。
無駄な緊張は、何かにつけて、あまり良い結果を生みませんから。まずは、閉塞感をなくす。
しかし、「危険(危うさ)」というものは、何にでもついて回るもの。科学者にもついて回る。当然聞くだけの一般人、素人にもついて回る。
「根性だ」と、その場の緊張を解(ほぐ)しながらも、研究を続けるのが科学、いや学問の常道であるべきです。でなければ人類の進歩なんて、ない。
学者が本心から「根性だ」なんて思っていたら、その学者は終わり、です。
問題解決のために、果てしなく「学び問う」。それが学者です。
これは一方の話。学問に取り組む人の当然の在り方です。
ここには、だから厭世思想、厭世観の入り込む隙はない。
「今を見据える」ことは「諦観(ていかん・たいかん)」ではあっても、それは「現時点では諦める」ということで、そのまま、「その場を明らめる」だけ。
「放棄」を意味する「厭」ではない。
考えることを放棄するということではありません。
もう一方。
「では何で飛んでいるのか。それは根性だ」
と聞いた一般の人々の応対です。
「ふざけるな!分からないなら分からないと言え!」
と怒り出す人。
「わははは。いや、そりゃ面白い!」
と言う人。
「へえ~っ、そうなのか!」
と言う人。
それこそ、色々に反応します。
でも、怒り出す人も、笑い出す人も
「そうか、まだ解明されていないんだな」
と、了解はしたわけです。はっきり言え!と怒り出すか、お茶目だなあ、と笑いだすか、の表現に違いはありますが、了解したことは一緒。
問題は「へえ~、そうなのか」と思った人。
「そうか。そんなこともあるんだ。自然は奥が深いんだなあ。」
なんて。
彼の頭の中には「蜜蜂は根性で飛ぶ」という「正解(たった一つの解)」が刻み込まれる。
「それがどうした?ちっちゃな冗談も許さないのか!」
って、眉間に皺寄せないで下さいよ。ちっちゃなことです。
素直な、疑うことをしない人はこっちに向かう。ところが、これは、「理のない考え」「無理」な道筋です。
一事が万事。
この「ちっちゃな無理」を疑いなく受け入れる姿勢の先には、何があるのか。
当然「地獄」です。「地獄」とは、理のない世界のことです。
「こうすればこうなる」、「こうなって欲しい」、が存在しない世界。
「蜜蜂は根性で飛ぶ」
とても面白い『表現』ではあるけれど、『見解』ではない。(根性は認識であって、理ではない)
こう書いたら、今度は「そんなこと、知っとるわい!」という人も出て来る。
しかし、この区別、本当にちゃんとしているのでしょうか?
「面白い表現」でしかないのに、「面白い見解」としていないでしょうか?
「蜜蜂は根性で飛ぶのではない。飛ぶべくして飛ぶのだ。しかし、我々はその道理を未だ解明してはいない。」
そう言ってしまえば済むことを、敢えて緊張を解すために「根性」などと言う。
これだって文化です。
しかし、だからといって「表現」と「見解」を同じものだと言っているわけではない。
我々は、蜜蜂が何故飛べるのか分からない。専門の科学者だって「未だ」分からない。
けれど、我々は普通に飛んでいる昆虫とは明らかに違う何かがあるんだろうなと感じ取る(看取する)素養は持っています。
政治を見るのも原発を見るのも基本的には同じ。社会の中の存在なのですから。社会の仕組みの中での「見解」から「解明」に向かえる筈です。
専門家にも分からないことがまだまだ「ある」。同時に専門家でなくとも「分からない」「おかしい」くらいは分かる。
と、なれば、ちょっと意識してみれば、素養はあるのですから、
「今の政治が何だかおかしい」、ということは、容易く看取できる。
「原発、とにかく再稼動させない。みんな廃止だ!節電だ!」というのも、ちょっと意識してみれば、素養はあるのですから、「いきなり脱原発」、には道理がない、ということも容易に看取できる筈です。
身の回りには、こんなことがいくらでもあります。
「面白い表現」と「面白い見解」は全く違うものです。
しかし、テレビを、新聞を、意識して見て下さい。意図的か?と思うほど、これを混同させて使っていますから。
その結果が
「私の顔を見たくなかったら、この法案を通せ」
という、とんでもない発言でした。
そして、それを歓声と拍手で迎えることを、変だと思わない人々。新聞や有識者、野党の一部政治家は
「脅迫だ。恐喝したのと同じだ」
と、批判しました。
しかし、
「理屈に合わない、筋の通らぬことを一国の総理が!」
と憤った例を、寡聞にして私は知りません。
日本人に、日本人の素養はなくなってしまったのでしょうか。
さて、あなたは、この「顔を見たくなかったら」発言に腹が立ちましたか?
それとも・・・・・。
追伸
腹が立った方。
その理由を書き留めてみることをお勧めします。
つい笑ってしまった方。
同じように、その理由を書き留めることをお勧めします。