CubとSRと

ただの日記

「蜜蜂は根性で飛ぶ」

2020年04月27日 | 心の持ち様
2011.07/26 (Tue)

 いきなり変なことを書きますが、「蜜蜂は、本当は空を飛べないのだ」と聞いたことがあります。
 あの身体の大きさに対するに、あの羽根は小さ過ぎる。高速で羽根を動かしても十分な揚力は得られないのだ、とか。

 では、何であのように飛んでいるのか、というと「根性だ」、と。
 勿論、これは冗談です。「根性」とは、人間の作り上げた「認識」の一つの形なのですから、他の生き物にはありません。
 解明できていないから、こう言うことで、その場の無駄な緊張感を取り除く。
 無駄な緊張は、何かにつけて、あまり良い結果を生みませんから。まずは、閉塞感をなくす。

 しかし、「危険(危うさ)」というものは、何にでもついて回るもの。科学者にもついて回る。当然聞くだけの一般人、素人にもついて回る。

 「根性だ」と、その場の緊張を解(ほぐ)しながらも、研究を続けるのが科学、いや学問の常道であるべきです。でなければ人類の進歩なんて、ない。
 学者が本心から「根性だ」なんて思っていたら、その学者は終わり、です。
 問題解決のために、果てしなく「学び問う」。それが学者です。

 これは一方の話。学問に取り組む人の当然の在り方です。
 ここには、だから厭世思想、厭世観の入り込む隙はない。
 「今を見据える」ことは「諦観(ていかん・たいかん)」ではあっても、それは「現時点では諦める」ということで、そのまま、「その場を明らめる」だけ。
 「放棄」を意味する「厭」ではない。
 考えることを放棄するということではありません。

 もう一方。
 「では何で飛んでいるのか。それは根性だ」
 と聞いた一般の人々の応対です。
 「ふざけるな!分からないなら分からないと言え!」
 と怒り出す人。
 「わははは。いや、そりゃ面白い!」
 と言う人。
 「へえ~っ、そうなのか!」
 と言う人。

 それこそ、色々に反応します。
 でも、怒り出す人も、笑い出す人も
 「そうか、まだ解明されていないんだな」
 と、了解はしたわけです。はっきり言え!と怒り出すか、お茶目だなあ、と笑いだすか、の表現に違いはありますが、了解したことは一緒。

 問題は「へえ~、そうなのか」と思った人。
 「そうか。そんなこともあるんだ。自然は奥が深いんだなあ。」
 なんて。
 彼の頭の中には「蜜蜂は根性で飛ぶ」という「正解(たった一つの解)」が刻み込まれる。
 「それがどうした?ちっちゃな冗談も許さないのか!」
 って、眉間に皺寄せないで下さいよ。ちっちゃなことです。
 素直な、疑うことをしない人はこっちに向かう。ところが、これは、「理のない考え」「無理」な道筋です。

 一事が万事。
 この「ちっちゃな無理」を疑いなく受け入れる姿勢の先には、何があるのか。
 当然「地獄」です。「地獄」とは、理のない世界のことです。
 「こうすればこうなる」、「こうなって欲しい」、が存在しない世界。

 「蜜蜂は根性で飛ぶ」
 とても面白い『表現』ではあるけれど、『見解』ではない。(根性は認識であって、理ではない)
 こう書いたら、今度は「そんなこと、知っとるわい!」という人も出て来る。
 しかし、この区別、本当にちゃんとしているのでしょうか?
 「面白い表現」でしかないのに、「面白い見解」としていないでしょうか?

 「蜜蜂は根性で飛ぶのではない。飛ぶべくして飛ぶのだ。しかし、我々はその道理を未だ解明してはいない。」
 そう言ってしまえば済むことを、敢えて緊張を解すために「根性」などと言う。
 これだって文化です。
 しかし、だからといって「表現」と「見解」を同じものだと言っているわけではない。

 我々は、蜜蜂が何故飛べるのか分からない。専門の科学者だって「未だ」分からない。
 けれど、我々は普通に飛んでいる昆虫とは明らかに違う何かがあるんだろうなと感じ取る(看取する)素養は持っています。

 政治を見るのも原発を見るのも基本的には同じ。社会の中の存在なのですから。社会の仕組みの中での「見解」から「解明」に向かえる筈です。
 専門家にも分からないことがまだまだ「ある」。同時に専門家でなくとも「分からない」「おかしい」くらいは分かる。

 と、なれば、ちょっと意識してみれば、素養はあるのですから、
 「今の政治が何だかおかしい」、ということは、容易く看取できる。
 「原発、とにかく再稼動させない。みんな廃止だ!節電だ!」というのも、ちょっと意識してみれば、素養はあるのですから、「いきなり脱原発」、には道理がない、ということも容易に看取できる筈です。

 身の回りには、こんなことがいくらでもあります。
 「面白い表現」と「面白い見解」は全く違うものです。
 しかし、テレビを、新聞を、意識して見て下さい。意図的か?と思うほど、これを混同させて使っていますから。
 その結果が
 「私の顔を見たくなかったら、この法案を通せ」
 という、とんでもない発言でした。
 そして、それを歓声と拍手で迎えることを、変だと思わない人々。新聞や有識者、野党の一部政治家は
 「脅迫だ。恐喝したのと同じだ」
 と、批判しました。
 しかし、
 「理屈に合わない、筋の通らぬことを一国の総理が!」
 と憤った例を、寡聞にして私は知りません。
 日本人に、日本人の素養はなくなってしまったのでしょうか。

 さて、あなたは、この「顔を見たくなかったら」発言に腹が立ちましたか?
 それとも・・・・・。


 追伸
 腹が立った方。
 その理由を書き留めてみることをお勧めします。

 つい笑ってしまった方。
 同じように、その理由を書き留めることをお勧めします。
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六百数十万!そんなのおかしい!?

2020年04月27日 | 重箱の隅
2011.07/23 (Sat)

 数日前、病院で順番を待っている時、何気なく顔を上げると、近くの人の見ている新聞の「2億」という文字が目に飛び込んで来ました。
 女子サッカーの、今回の報奨金が2億、特別に出た、というニュースみたいでした。
 2億というと、「よく決心したな!サッカー協会!」と言いたいところですが、考えてみれば選手の人数、監督、コーチを中心に二十人や三十人で、あの大舞台が踏めたわけではない。
 一人が一千万なら20人で二億。多い?一人五百万、あるんでしょうか。ないでしょうね、きっと。

 R4女史が「優勝、素晴らしい!」とツイッターに書いたら、袋叩きになった。
 それは、選手らが、とんでもない過酷な状況の中で、大げさでなく自腹でこれまでやって来た、ということを知る人が多かったからでしょう。
 「それに比べてR4女史は何をやったんだ。足を引っ張るような酷い仕分けをして、その結果が、自分はボーナス六百数十万円、か!」
 そういう怒り、でしょうね。
 けど、国会議員は国会議員。それも先日までは大臣だった。ボーナス六百数十万円は決して多過ぎる額ではない。国政の要員なんですから。

 国政に限らず、政治は我々のために全てを投げ出してくれる人が集まって行うものです。「命も名前も官位も金もいらない」という人が政治に携わる。
 その決死の覚悟に対して、六百数十万円。安いものです。(「お前、何言ってんだ!」って怒っちゃダメですよ、まだ。もうちょっと待ってください)
 みのもんた氏みたいに口を開けば「我々の税金で~」と、何とかの一つ覚えみたいなことは言うべきではない。それは、「命もいらぬ、名もいらぬ」との覚悟で公僕となった人をも貶める発言でしかない。
 それは、そんな人を「税金で養ってやっているのだ」、というとんでもない傲慢さにつながる発言なんです。つまりは、彼らを金で買ったのだ、ということです。
 そんな卑しいことを我々日本人は言うべきではない。
 「人の誠意を金で買う」。こんな傲慢なことはないでしょう。

 戻ります。
 R4女史のツイッターを炎上させたのは、「給料、もらい過ぎ!」ではないでしょう。
 怒っている人々は、あの「心無い仕分け」に対して、です。
 はやぶさの快挙がなければ、宇宙開発費は「廃止」と言っても良いような状態になっていた。「2番じゃいけないんですか」は、「私の言いたいことが伝わっていない」といくら言い訳しても、あとで「オンリーワンをめざしてほしい」との、論理の筋道が見られない言い訳の上塗りで、よけい顰蹙を買ってしまった。
 そして、スポーツ振興費の仕分け。

 「いくらでも言われろ!」と言いたい。言いたい。本当に言いたい。
 けれども、です。これらの「心のない仕分け」は、結果として誰の手先となってのことだったのか、も考えるべきです。

 行政刷新相と言ったって、自身が国の諸機構を根本から見直し、大鉈を振るうといった類のものではなかったことは、やった仕分けを見れば分かります。
 どこで出費を削れるか、「刷新」ではなく「削減」案を提出するだけの、民主党の看板だけの仕事だった。
 役所の傀儡でしかなかったことに気がついていないのは、本人だけかもしれない。勿論、本人は気がついているつもりでしょうが、本質的な部分は分かってない。
 単純に、これら三件、みんな文部科学省が困る筈のことです。
 けれど文部科学大臣はR4女史が非難された時、何と言ったでしょうか。
 スーパーコンピュータでは、「あれで、技術者が発奮したと聞いている。激励の言葉だったと捉えたい」、でした。国会中継を見ていると、この言葉を大臣は女史擁護の意味で口にしたことが分かります。

 当然ですね。言うまでもないこと。
 各省庁を束ねる大臣である前に、閣僚として、仲間以上の存在、「同志」なんですから。大事なのは所轄省庁ではなく、同じ党から選抜された「同志」です。

 現在、利権獲得に血道をあげている民主党は、まず党と利権団体を直結させようとした。小沢幹事長の時、陳情は幹事長室に一本化、としたでしょう?あれ、生きてますよ。
 利権がはっきりとしていた自民党は、それぞれの利権団体と各議員がつながっていた。だから、閣僚同士はそんなことを下敷きにした仲間だった。
 民主党は幹事長室と利権団体がつながる形にした。「とにかく、何が何でも『同志』は守る」。これが民主党のサバイバルテクニック、です。

 菅総理がどれだけ叩かれても、それで民主党が生き延びられるならそうしよう、 反対に菅総理が「衆院解散!原発選挙だ!」なんてやったら、元も子もないから、その場合はそれなりに処分する。
 
 方法は平和裡にできます。
 「心労がたたって、躁状態が酷い」とか何とか。
 えっ?それはもう使用済み?
 大丈夫です。吉本以上に「同フレーズ落ち」は得意ですから。
 「これまでにも申し上げて来ましたように」とか「ジミンガー」とか「そうじゃありませんか、みなさん!」とか。
 「心労がたたって躁状態」は、まだ、一回しか使ってない。

 気をつけましょう。
 菅総理は自分のことだけを考えているのですが、民主党も自分(たち)のことだけを考えています。「政治家の一分」が民主党にあるのなら、菅総理が辞めさせられたら正常な政治ができる。「政治家の一分」、ありそうですか?

 あ!「女子サッカーの報奨金は少ない」という話でした。
 でも、R4女史のボーナスは分相応、妥当です。

 「そんなの、おかしい!」と怒って下さい。
 そして、その理由を真剣に考えようじゃないですか。
 そんなおかしいことを実現させたのはいったい誰なのか。
 「我々が賢くなるしか、国を立て直す方法はないのだ」、と思って。
 
 ・・・・・・あれ?またこっちに来てしまった。
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「台所で」(聞き取る)

2020年04月27日 | 心の持ち様
2011.07/18 (Mon)

 朝食の後、台所で洗い物をしながら、テレビの音だけ聞いていました。
 「話しているのを聞いていた」と言いたいところだけれど、間々の良いところ(勘どころ)で父の咳払いの声が入り、何を言っているのか分からなくなってしまう。いつものことですけど。
 しっかり聞かなきゃ話なんて分からない。

 以前、ネクタイの話の中で、「仕事として相手の話を聞き取ることだって、目の付けどころだけで大きな差が出来る」ということを少し書きました。
 「目を見て聞こうとしたら、睨み合いになってしまう」
 「鼻を見て聞こうとしたら、笑いを堪えるのに必死で話どころではない」
 「口を見て聞こうとしたら、変態みたいに思われる」等々。

 だから、ネクタイの結び目を見て話を聞けば、やや伏し目がちになって、話も自然に入ってくるということを書いたんですが、仕事で、つまり本気でやっている時だって、「聞き取り」や「理解」は、これくらい難しいものと言えます。

 ならば、日常の生活はもっとひどいのが普通、と思った方が良い。
 俗に言う「話半分」。自然体です。
 聞くでもなく聞かぬでもない、綾小路きみまろ描くところの中高年の夫婦の会話。
 あれが、好き合って一緒になった夫婦の一面だとしたら、ちょっと大げさだ、と思うでしょうけど、夫婦ではない、ましてや付き合って中高年の夫婦ほどの年月も積み重ねていない相手との話ならば、「話半分」の姿勢からは大したことは読み取れない。
 噂話より目の前に顔があるだけマシ、な程度だと思った方が良いのかもしれないと思います。

 テレビでは咳払いや咳き込む声が間々に入って来るだけでも、なかなか言おうとしていることが分からない。それには分かりにくくなるだけの理由があります。
 テレビは数台のカメラで撮っています。必要に応じてカメラを切り替える。それぞれのカメラワークに納まる話の展開をしなければ、という構成の意図があります。その方が視聴者に分かりやすいからです。
 つまり、討論と言い条、テレビでは短いフレーズの応酬が基本。論理展開をする時間が設定されてない。
 論理の展開に必要な時間は要約されたものでも一分間は必要でしょう。ちょっと難しい話になると、三分はかかる。

 「えっ?たった三分?」と思われる方、或いは「いくらなんでも一分で?」と思われた方。実体験をお勧めします。
 一分間、息を詰めてみて下さい。吐かないんですよ?吸ってもいけない。詰めるんです。
 大概の人は、やらずに「あ、そうか」と納得してしまう。
 でも、それでは分かったことにはならない。「知行合一」です。本当にやってみて下さい。一分間、ですよ。「息を止める」のではない。「息を詰める」んです。
 「気を張った状態」、というやつです。


 一分間経ちました。呼吸は平常ですか?
 たった一分間、息を詰めただけで、普段何気なしにしている呼吸が、荒くなってしまいます。そして、その呼吸に引き摺られて、考えることに集中する度合いも確実に低くなっている。
 何も考えないことに集中する、ただ「息を詰める」、ということの結果でさえ、そうです。

 では、相手の言を本気で理解しようとする場合、「息を詰める」時と同じ程の意志の集中度で間に合うのか。これは桁違いに難しい。
 集中するわけですから、息を詰めて、一分間、本を読んでみれば、何となく難しさは感じます。

 本気で一分間、集中して他人の話を聞ける人、というのはそうそういるものではないのですから、三分間、となると、これは相当な能力を作ってきた人ということになります。「ひたすら聞く」というのは、それくらい大変なことです。

 「そこまで言って委員会」や「TVタックル!」では、もっと長い間、一人の出演者が喋っているではないか、と思われる人もあるでしょう。
 でも、その話から、導入部、実例等を取り去った「骨子」だけを見詰めた場合、論理展開に一分以上を費やすほどの論理はあったでしょうか。

 大体、それらの討論番組での発言というのは、発言者が論理の展開をしてしかる後に結論を、というやり方を「許して」しまうと、「締りがなくなる」と(スタッフが)思っています。その故に、小気味良い批判、畳み掛けるような物言いをするように仕向けようと、まず肯定・否定をはっきりさせる。そして、賛同者をつくるための印象的な文言、を多用するようにお膳立てをしている。

 討論番組は、本当は「論理」ではなく、ただの言葉のボクシング(闘い)であって、自らを高めるための、論理の提示をし合っているのではない。


 16,4%だった支持率が、今日、18,8%になっていました。
 そこに論理はない。
 ただ、菅総理の言う「原発に依存しない社会を作りたい」という、具体策の何一つない、被災地の住民の今後には全く言及しない「アドバルーン」を読んだ感性的な反応だけがある。
 敢えて言えば、与野党の反発を無視して「私個人の考えだ」と訂正しなかったとしたら、「私の内閣でやります」と言い切ったとしたら、25%から30%、いや、50%を越えていても不思議ではない。「そこに論理はない」からです。

 私だけかもしれませんが、まだまだ考えが浅はかです。
 「ここ、怒るところですよ」と言わなければ気がつかないことが一杯ある。
 それならまだ良い。言われたって、怒るべき理由を説明されなければ「えっ?何で?」とあたふたしてしまうことも、ある。

 でも、反対に、私だけではないかもしれない。
 もしかして、怒っているのを見て「ワシもそう思う」、と、それこそ脊髄反射、付和雷同して怒っている(怒っていると思い込んでいる)のだとしたら、浅はか以前です。

 歳を取って来ると、色々なことが急には思い出せなくなります。
 「名前が出て来ない」なんてのは可愛いものです。終いには自分の名前まで出て来なくなる。でも、「他人の名前が出て来ない」、から「自分の名前を忘れる」までの間には「人の言ってることが分からない」という状態が長くあるんです。
 ところが、本人は全くそれに気づいてない。

 これ、ここで、日記の最初に戻って下さればぞっとする(筈、です)。
 他人の言っていることを本当に分かっているのだろうか。
 確かめる方法は、こうやって日記を書いてみる、くらいしかないのですが。

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テレビは「在る」

2020年04月27日 | 心の持ち様
2011.07/10 (Sun)

 「テレビは不要だ!PCだけあればいい」
 その通り!でも、もう遅い。テレビは「ある」。

 「原発、『絶対安全』が確認されるまで、稼動しない方が良い」
 その通り!でも、もう遅い。日本だけの問題ではないんでしょう?
 世界中に放射性物質は撒き散らされてしまった。
 何より、原発、きれいに処理ができたとして、ですよ、隣の大国の原発はどうなんでしょう。或いは半島国のはどうなんでしょうか。
 日本の場合でこれだけ処理に手間取っている。
 英雄視されるべき多くの技術者の、命懸けの、必死の、努力があれ以来続けられている。世界の賞賛を浴びている。
 それに比べたら、「隣の大国の技術者は日本より優秀だ!」と言い切れる根拠はありますか?
 
 原発事故が、多く人災であることを考えると、隣の大国、或いは半島の国は「日本以上に対応できる!」ホントですか?
 気候は西から変わるでしょう?黄砂だって通年で大陸からやって来る。
 「況や放射性物質に於いてをや」、ですよ。
 わたしの子供の頃は、知らず、相当な放射性物質を浴びていたと考えられます。内部被曝こそ、「直ちに問題はない」僅かなものだったでしょうけれど、ウィグル辺りの核実験で相当な人が被曝し、死んでいったと言われています。

 脱線しますけれど、「観見」二つの目付(めつけ)は必要です。
 原発は既に、日本だけがやめたらどうこうという問題ではない。それよりも更に技術を追求することの方が大事です。
 切れない包丁を遣って怪我をする確率と、どきどきするくらいにまで研ぎ上げたのを遣って怪我をする確率、どちらが高いか。

 元に戻って。
 「テレビは不要だ!PCだけあれば良い」
 に対して、何故
 「その通り!でももう遅い」
 と書いたか、です。

 「何で?捨てたら良い。そこまでしなくても点けなきゃ良い」
 いえ、そういう問題じゃない。
 「あなたの生まれた時、或いは物心がついた時(三つくらい、としましょうか)、家にテレビはありませんでしたか?」ということなんです。
 「我々はどのようにして育って来たか」ということなんです。

 ヒトは「社会」という環境の中に人間として生まれ、人間として育てられ、自らも自らを育て、人間としてその「社会」という環境に参加し、運営し、変化させていきます。
 だからこそ人間は歴史を持つ、といえます。
 まずは生まれた時から周囲との関わりの中で育てられる。
 その時、愛されて育つ(愛情を以って干渉される)のと、愛情のない中で育つのとでは人格形成にどれだけの違いがあるか。考えるまでもないことでしょう。

 絵本があるとします。乳児、幼児にとって、そのままではおもちゃにもならない。(働きかけて『遊ぶ』対象ではない)
 それ(絵本)は周辺の大人、或いは小学校の高学年くらい以上の子供が乳幼児に読み聞かせて、初めて「絵本」という価値を持つ。
 まだ意図的に物事に関わっていくことの何たるかを知らない乳幼児は、「遊び」という行動を通して、人間の特徴である「意図的行動(意図的な働きかけ)をする存在」として自らを作って行きます。
 その過程で、絵本の読み聞かせをされることで、「遊びの形」が、おもちゃだけではなく「絵を(意図的に)見る」「文字と絵の違いを学び、文字という(人間)社会の約束事の一つを学ぶ」という「遊び」方も入手する。

 「遊び」というのは、「学び」の一種だということです。それは常に能動的です。人間が「意図的存在」であると言われる所以です。
 その点から「乳幼児とテレビ」を考えたらどうなるでしょう。
 「乳幼児の学びの対象としてのテレビとは」、です。
 「魔法の箱」の本家本元であるテレビ。スイッチを入れたら、後は切るまで情報が溢れ出て来る。PCと違って、スイッチを入れるだけ、です。
 自分が働きかけずとも、一方的に働きかけてくる存在。
 双方向の働きかけの中で、人間は学んでいくわけですから、これは間違いなく歪な関係です。

 物心もつかないうちから、一方的な情報を赤ちゃんに流し続けるテレビ。
 初めは面白がって(不思議がって、でも良いですが)テレビを見ていた赤ちゃんにはどんな神経が育っていくのか。
 この一番大事な時期に、愛情を以って接して来ない存在、又、何ら反応することのない存在、というものがこの世の中にはあるのだ、という事を学ぶことになる。
 そういう乳幼児の時期を過ごした人が、今、
 「テレビは不要だ!」
 と言ったとしても、彼の中には
 「一方的に干渉して来るだけの、愛情がなくとも存在するもの(世界)がある」
 という不動の思いがある、と考えたら、
 「はたして、それで解決するのですか?」
 という、一見、からかっているような言葉が大きな問題として浮かび上がってくるとは思いませんか。

 「不要だ!」ではなく、「これから、どうすべきか」だ、と。 



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本当に言葉通りだとしたら・・・・。

2020年04月27日 | 重箱の隅
2011.07/09 (Sat)

 産経の阿比留瑠比記者の「国を憂いわれとわが身を甘やかすの記」というブログを愛読しているのですが、先日の「恥知らずの代名詞が他者を恥知らずと非難するとは」というエントリーで菅総理が、かつて朝日新聞のインタビューで話したこととして、こんなのが載せられていました。

************
 
 《市民運動をしていたころ、国会というのは遠い向こう側にありました。つまり、政党というのは私には縁のない存在だった。だから向こう側の中にある与党や野党がどういう関係にあるのか区別はできず、社会党も含めて体制に見えていたのです。

 それが議員になって国会の中に入ると、与党と野党が違うということがわかった。与党は政権に入り、野党はアンチテーゼを出していた。さらに次のステップで、自社さ連立政権で与党になり私も閣内に入った。それまでは与党と内閣の区別がつかなかったが、ここでそれがわかってきた。》


 …3回連続して落選した後、4回目の挑戦で国会議員になるほど執着していたくせにこれです。これって、まるっきり馬か鹿かそのハイブリッドではないですか。その後、「アレ」を連続して当選させ続けた有権者に八つ当たりしたい気分です。ああ、本当に頭が痛いし、体がだるい。放射能より無能が怖い。

   http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2350635/

*********

 初めは「敢えて大袈裟に言ってるんだろうか」とか、
 「象徴的に言ってるんだろうか」とか
 「理解でなく、得心したと言いたいんだろうか」等、色々考えてみたんですが、どうも、これ、そのままみたいです。

 「国会議員になって、与党と野党の違いが分かった。」
 「与党になり、閣内に入って、与党と内閣の違いが分かった。」

 「これまで仮免許のような・・・」は、総理拝命半年後でしたね。

 これつまり、氏のこれまでは、その都度
 「経験しなければ分からないのだから、失敗しても責任を感じる必要はない」
 との姿勢であった、ということではないですか。
 「政治(家)は結果責任」と言われるけれど、これ、
 「初めてのことなら、責任はない」
 と言っているのに等しい。

 そう考えると、今「一定の目処」として挙げている三つのことも・・・・・。

 「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」ですよ。
 あんまり彼を買い被らない方が良い。
 彼にあるのはその場しのぎの悪知恵ばかり。

 本当の悪は、やっぱり、「手も足も出ない」振りをしている与党です。
 内閣総辞職したって、何も変わらず、マスメディアが
 「それ見たことか。やっぱり自民党じゃダメなんだ」
 と、何故か自民党に責任をなすり付けて終わり、です。
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