2017.04/20 (Thu)
「南無阿弥陀仏」、は「阿弥陀仏」を心に置き、常に
「私は阿弥陀仏に抱かれている、阿弥陀仏と一つ(南無=帰命又は一体)なんだ」
と言い聞かせることで、心の平安を得ようとする。
対して
「素晴らしい蓮華経と一体です。私は蓮華経に抱かれている」
、ってのは、お経が私を抱くのか?
「そんなバカな!」、ですよね。そうじゃなくて
「蓮華経の教えに抱かれている」、ってことですよね。
「じゃあ、蓮華経を読んで、せめて一通り、理解だけでもしてるのか?」
、って話です。
お題目唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる。
でも、蓮華経の教えが分かるということじゃない。
「資本論」という題名を百万遍唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる(かもしれない)。
でも、マルクス思想が分かるわけじゃない。
「読書百遍、意、自ずから通ず」、なんてのは「読書」だからであって、「唱題目」では「意」は通じない。
心を強く持つための修練にはなっても、その物事を理解することに直接つながるわけではない。ただ、集中力つける(心を強く持つ)段階で、その気になれば他人の言うことを聞く力はつく。これが一番大事なことかもしれません。
「お題目」唱えるのと、「念仏」は些か違います。
「念仏」は、文字通り「念仏」。
とは言え、文字通りも、「仏号を唱えるだけ」「心に強く念ずる」「ひたすら呪文の如くに『なんまいだ~』と唱える」等、色々です。
共通するのは「仏の姿を描き易い」ということ。物事って、はっきりしてると取り組みやすいでしょう?
「南無妙法蓮華経」は難しいですよ、お経の本を心に描く、って難しいでしょう。だから、逆に「お題目」は、気合を込めて唱えるという手を使う。掛け声に近くなる。
昔は私の田舎でも、真冬の寒い時に「寒行」といって、団扇太鼓をドンツクドンドンと調子よく叩きながら「なんみょーほーれんげーきょー」と強く唱えながら町を行進する一団がありました。地元の日蓮宗の信徒でした。水行も同じ調子でやってましたね。
「な~むあ~みだ~ぶ」と唱えながら延々と大数珠をみんなで繰るのとは、出来上がる意志の強さが違うでしょうね。
「お題目」を唱える。「念仏」を続ける。「真言」を唱えながら行動する。
みんな「修行」ではあるけれど、当然のこと、蓮華経や阿弥陀経や仏典に書かれていることを読まなければ、経典は理解できない。
それでも、そこでできた意志で、法話を聞き(=経典の講義を受ける)少しずつものが見え始める。
神社に参ったってそうですよ。パワースポット巡り、じゃなくって、何かを感じて、或いはその神社の由緒に感じるところがあってお参りしてみた。
その「心」を、神様が「見てござる」と、自身が思う。
「何事のおはしますかは知ら」ないけれど、何とも「忝(かたじけな)い」と感じて涙がこぼれた。何故なんだろう、一体、あの時、オレは何に感じて涙が出たのだろう、と折々に思い出してみる。で、古事記読んだり、祝詞を読んだりしてみる。そうすることで色々なことが見え始める。
そんな自身の心境を見詰めようともせず、ひたすら現世の御利益を、とオーバースローで賽銭投げて、参拝者の後頭部にぶつけてどうすんだ、と。
ところで。
私のように思いついたままを書き散らかして何もしないでいる者と、「行者」と言われるような人は、全く違います。死ぬ気でやっておられますからね、そういう人は。
何が恐ろしいと言って、死ぬ気でやっているのに、側から見ると全く自然で、そんな気配を微塵も見せず当たり前のように色々なことに淡々と取り組んでおられることほど恐ろしいものはない。
(以下略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回、
「それ相応の心積もりをして参拝することで、これまで持ったことのない新しい『感じ』を持ち、その『感じ』で周囲全てのものを見るようになる」
、と書きました。
けど、人間ってのはやっぱり「生(なま)もの」です。片岡鶴太郎が言ったように「ほっときゃ腐るのよ!」
腐らないまでも、劣化、或いは退化します。鈍磨、と言ってもいい。
肉体だけではなく、精神も同じく、です。却って、見える肉体より見えない精神(心)の方が劣化は早い。
だから一回参拝したからと言って、そこで得た新しい「感じ」がいつまでも新鮮な驚きを与えてくれる、なんてことはない、と考えるのが普通でしょう。
それで、「木を見て森を見ず」、ではなく「木を見て森を忘れず」ということで、常に新しく得た「感じ」を忘れぬよう、これからは意識的に、その「目」で物事を見ようとする。そうしなけりゃ、鈍磨し、なおざりになってしまって、いずれは腐ったり、風化したりする。
盛んに信仰される神社の分社や遙拝所が全国に無数にあるのは、そのためです。そうそうは本の社に参拝できないから、分社を勧請したり、信仰する社の方に向く「遙拝所」を設ける。そこで、度々参拝時の気持ちを新たにする。
ここに挙げた三年ほど前の日記は、十年ほど前に流行った、「覚醒した!」という言葉に関わったものです。
「南無阿弥陀仏」「南無釈迦牟尼仏」「南無観世音菩薩」「南無妙法蓮華経」とは違って見えますが、心持ちは同じでしょう。
「南無阿弥陀仏」、は「阿弥陀仏」を心に置き、常に
「私は阿弥陀仏に抱かれている、阿弥陀仏と一つ(南無=帰命又は一体)なんだ」
と言い聞かせることで、心の平安を得ようとする。
対して
「素晴らしい蓮華経と一体です。私は蓮華経に抱かれている」
、ってのは、お経が私を抱くのか?
「そんなバカな!」、ですよね。そうじゃなくて
「蓮華経の教えに抱かれている」、ってことですよね。
「じゃあ、蓮華経を読んで、せめて一通り、理解だけでもしてるのか?」
、って話です。
お題目唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる。
でも、蓮華経の教えが分かるということじゃない。
「資本論」という題名を百万遍唱えたら、精神を集中させ、確固たる信念を持つことができる(かもしれない)。
でも、マルクス思想が分かるわけじゃない。
「読書百遍、意、自ずから通ず」、なんてのは「読書」だからであって、「唱題目」では「意」は通じない。
心を強く持つための修練にはなっても、その物事を理解することに直接つながるわけではない。ただ、集中力つける(心を強く持つ)段階で、その気になれば他人の言うことを聞く力はつく。これが一番大事なことかもしれません。
「お題目」唱えるのと、「念仏」は些か違います。
「念仏」は、文字通り「念仏」。
とは言え、文字通りも、「仏号を唱えるだけ」「心に強く念ずる」「ひたすら呪文の如くに『なんまいだ~』と唱える」等、色々です。
共通するのは「仏の姿を描き易い」ということ。物事って、はっきりしてると取り組みやすいでしょう?
「南無妙法蓮華経」は難しいですよ、お経の本を心に描く、って難しいでしょう。だから、逆に「お題目」は、気合を込めて唱えるという手を使う。掛け声に近くなる。
昔は私の田舎でも、真冬の寒い時に「寒行」といって、団扇太鼓をドンツクドンドンと調子よく叩きながら「なんみょーほーれんげーきょー」と強く唱えながら町を行進する一団がありました。地元の日蓮宗の信徒でした。水行も同じ調子でやってましたね。
「な~むあ~みだ~ぶ」と唱えながら延々と大数珠をみんなで繰るのとは、出来上がる意志の強さが違うでしょうね。
「お題目」を唱える。「念仏」を続ける。「真言」を唱えながら行動する。
みんな「修行」ではあるけれど、当然のこと、蓮華経や阿弥陀経や仏典に書かれていることを読まなければ、経典は理解できない。
それでも、そこでできた意志で、法話を聞き(=経典の講義を受ける)少しずつものが見え始める。
神社に参ったってそうですよ。パワースポット巡り、じゃなくって、何かを感じて、或いはその神社の由緒に感じるところがあってお参りしてみた。
その「心」を、神様が「見てござる」と、自身が思う。
「何事のおはしますかは知ら」ないけれど、何とも「忝(かたじけな)い」と感じて涙がこぼれた。何故なんだろう、一体、あの時、オレは何に感じて涙が出たのだろう、と折々に思い出してみる。で、古事記読んだり、祝詞を読んだりしてみる。そうすることで色々なことが見え始める。
そんな自身の心境を見詰めようともせず、ひたすら現世の御利益を、とオーバースローで賽銭投げて、参拝者の後頭部にぶつけてどうすんだ、と。
ところで。
私のように思いついたままを書き散らかして何もしないでいる者と、「行者」と言われるような人は、全く違います。死ぬ気でやっておられますからね、そういう人は。
何が恐ろしいと言って、死ぬ気でやっているのに、側から見ると全く自然で、そんな気配を微塵も見せず当たり前のように色々なことに淡々と取り組んでおられることほど恐ろしいものはない。
(以下略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回、
「それ相応の心積もりをして参拝することで、これまで持ったことのない新しい『感じ』を持ち、その『感じ』で周囲全てのものを見るようになる」
、と書きました。
けど、人間ってのはやっぱり「生(なま)もの」です。片岡鶴太郎が言ったように「ほっときゃ腐るのよ!」
腐らないまでも、劣化、或いは退化します。鈍磨、と言ってもいい。
肉体だけではなく、精神も同じく、です。却って、見える肉体より見えない精神(心)の方が劣化は早い。
だから一回参拝したからと言って、そこで得た新しい「感じ」がいつまでも新鮮な驚きを与えてくれる、なんてことはない、と考えるのが普通でしょう。
それで、「木を見て森を見ず」、ではなく「木を見て森を忘れず」ということで、常に新しく得た「感じ」を忘れぬよう、これからは意識的に、その「目」で物事を見ようとする。そうしなけりゃ、鈍磨し、なおざりになってしまって、いずれは腐ったり、風化したりする。
盛んに信仰される神社の分社や遙拝所が全国に無数にあるのは、そのためです。そうそうは本の社に参拝できないから、分社を勧請したり、信仰する社の方に向く「遙拝所」を設ける。そこで、度々参拝時の気持ちを新たにする。
ここに挙げた三年ほど前の日記は、十年ほど前に流行った、「覚醒した!」という言葉に関わったものです。
「南無阿弥陀仏」「南無釈迦牟尼仏」「南無観世音菩薩」「南無妙法蓮華経」とは違って見えますが、心持ちは同じでしょう。